僕はどうしたらいいだろう。どうすれば最善の選択なんだろうと考えに考えた結果、遠ざける、離れる、それ以外が思いつかない自分が馬鹿だなと思った。
 でもそれ以外が思いつかなかった。だからこれは、仕方のないことだった。
「もういいよ」
 最後にしようと思って放った、君を傷つける言葉。
 ぽかんとしている君がその場で立ち尽くし、僕はそんな君を視界から外してソファから立ち上がる。ばさりとテーブルに放った書類には彼女の顔写真と、組織に属することを意味する証明書。「自分で処分しておいて」とだけ言い置いて部屋を出て行こうとすれば、「ま、ってください」と震える声が背中にかかった。足を止めなければいいのについ身体が反応して動きが止まってしまう。
 これ以上傷つけたくないのに、君が僕を振り返ったことが手に取るように分かる。
 息の仕方、声の震えぐあい、その表情の変化まで。全てが手に取るように分かってしまう。
「どういう、ことですか。私が何か失敗を、」
「そうだよ」
「この間の失態でしたら、もういたしません。足を引っぱるようなことはもういたしません」
「もう遅いよ」
「すみません、絶対に挽回します。努力します。すみません。すみません、」
 雲雀さん、と縋るような声に振り返らないようにした。これで最後だ、君を傷つけるのは本当に最後だと心に言い聞かせて「役立たずはいらないんだ」と口にする。大きく震えた気配に気付かないふりをして今度こそ扉に手をかけ部屋を出て、そのまま廊下を歩いて、建物を出て。
(振り返るな。絶対に振り返るな。振り返ったら意味がない)
 強靭な意志で振り返ろうとする身体を抑え込み、アスファルトの道を歩く。無意味にあてもなく、ただ彼女から離れることを考えて、彼女のいない場所を目指して歩く。
 気分は、最悪だった。
 中学校にいた頃からの付き合いで、僕がまだ委員長とか呼ばれていた頃からそばにいて、それなりに時間を一緒にして、危ないことにも何度か巻き込んで、その度に助け出して。どうして今そんなことを思い出しているんだろう。走馬灯みたいだ。
 ざく、と川原の土を踏んで顔を上げる。空を見ると雲が流れていた。灰色。雨が降るのかもしれない。
(大丈夫だ。これでもう大丈夫。は、もう大丈夫)
 振り返ることだけはせず、ふらふら歩いて公衆電話のガラス箱の扉を開けた。秘匿番号にダイヤルして三コールめで繋がった相手に「僕だけど」と吹き込めば『ああ雲雀さん、ちょうどよかった。仕事の話をしないといけないと思ってたところで』と声が返ってくる。少しも驚いてない、僕がかけてくることを分かってたような声音だった。
「知ってる。海外でしょ」
『はい。それであの、今度はちょっと危険な内容になると思うので、できればには伏せておいた方が』
「……連れていかないよ」
『え? あれ、いいんですか? 今までどんなに言っても聞かなかったのに』
「…………もう連れていかないよ。二度と」
『雲雀さん?』
「…空港。最寄でいいよね」
『あ、はい』
「今から行くから。じゃあ」
 がちゃんと一方的に通話を切ってガラスの箱を出たら雨が降り出した。ぽつ、と頬に当たった雨粒に視線を上げれば灰色の雲がさらに色を濃くしていた。
 あの雲は僕だ。涙が出ない僕の代わりに、泣いてくれているのだ。
 簡単にまとめろと言われたら、僕は、こわくなったのだと思う。初めて生きてきてこわいと思ったのだと思う。そしてこわいということがどういうことか初めて知って、理解して、さらにおそろしくなったのだと思う。
 仕事で人を片付ける僕。当然のように傍らに君がいた。
 主に僕のサポートのためで、前線で戦っていたわけではないし、そもそも銃くらいしか扱えない。その銃も僕が携帯を許可していないから、彼女ができたのは本当に少しのことだ。僕はそれで構わなかった。だから連れて歩いた。
 次の仕事の書類を読み上げる君の声。スケジュールを立てるために手帳とメモ書きに視線を落としてペンを動かす姿。たまにカフェに連れていけば甘いものを大量に注文して、見かけによらずぱくぱくと次々平らげていく、しあわせそうな顔。その向かいで頬杖をついて君を眺める僕。
 仕事で人を片付ける。人以外も片付ける。やりたくないと思ったことはすっぱりそう言ったし、嫌だと思ったらそう言った。仕事で無理をしていたつもりはない。でも君はそうでなかったのかもしれないと気付くのが遅かった。いつものように仕事をこなしいつものように僕の手助けをする君が倒れたのは突然のことで、その瞬間、思考が止まった。
 過労、なんて言葉を聞いたのはそのときが初めてだった。
 彼女の中に日々の疲れが蓄積し、それが意識を失うという事態にまでなった。
 念のためにと入院措置を取られ、白い部屋の白いベッドで眠る君。眠る君に何もできない自分。
 こわくなった。何もできないのだという事実の前に、壊したいのに壊すことができない現実が、初めてこわいと思った。
 形のない敵が君を襲っている。君の内側から君に襲い掛かり、君を蝕んでいる。敵の名前は過労。だけど同じ日々を過ごす僕にそれは襲ってこない。君の中にだけ、そいつがいる。
 どうすればいいんだろうと思った。
 白いベッドで眠る君を見つめながら考えた。君の目が覚めるまで、ひたすら考え続けた。
 僕は大丈夫だけど君は大丈夫じゃない。この日々がずっと続けばまんざらでもない、いや、幸福だと思っていた日々は、もう続かない。それが現実で分かったこと。
 彼女が目を覚ますまで、夕方、夜、日付を越えて深夜、そして朝を迎え、昼前になって、心がざわざわして仕方なくて、目を覚まさない彼女のそばに留まり続けて、ようやく目を開けた君を、全力で抱き締めた。あのときほど心が動いた瞬間はなかったと思う。
 それでも泣けなかったのは、僕が涙を持って生まれてくることができなかったせいだろう。きっと。
 こうして触れるのはもう最後にしようとそのときには決めていた。君がちゃんと目を覚まして大丈夫だってことを確認したら、自分の意識と身体に言い聞かせたら、次の段階に行こうと頭の中で決めていた。
 君がもう二度とこういうことにならないように。僕と一緒にいていずれまた倒れてしまうというのなら。君が無理をして笑わないといけないのなら、僕は、君を、置いていく。
 君が無理をしなくていい場所で君の手を離し、僕は行こう。君のいない遠くへ。君がいないどこかへ。
 それで君が無理なく笑っていけるなら、僕はそれでいい。それでいいから。
(…しまった。道順忘れた。こっちでよかったかな)
 かつ、と靴底で石畳を踏んでどんと壁に肩をぶつけた。押さえている腕がさっきからじくじくする。自分でできるだけの応急手当はしたつもりだったけどどうやら間に合っていないらしい。ひどく痛みが増している気がする。目の前もふらついてるかもしれない。
 それでも帰らないと。そう思ってから嘲笑の笑みを口元で浮かべて笑い、思う。
(帰るってどこへ? 僕には帰る場所なんてない)
 痛む腕を押さえながら、身体を引きずるように壁伝いに歩く。歩みが遅い。目の前がおぼつかない。
 ぽつ、と頬に当たった何かに視線を上げると、宵闇に沈む黒い空に雷鳴の低い音が響いたところだった。
 雨か。また。
 大粒で叩きつけるように降り出した雨に、遅い歩みがついに止まった。ずるずると壁に背中を預けて座り込んで、全身雨に打たれながら細く息を吐き出して目を閉じた。
 なんて暗い。なんて空っぽ。僕の中には何もない。

「雲雀さんっ!」

 何も。そう思ったところで聞こえた声と、灯った色。灯り。
 この、声は。聞き間違えるはずがない、君の声。
 雨音の中に響くブーツの音がする。聞き慣れた足音が。薄目を開けて、ぼんやりした視界の中、「…?」掠れた声でいるはずのない君の名を呼ぶ。ばしゃりと水溜りを蹴って僕のところまで走ってきた彼女は全身濡れていて、泣きそうな顔をしていて、それでも僕の状態をすぐにチェックして携帯を取り出した。「発見しました。負傷しています、すぐに車を回してください。場所は…」いつもの君だった。僕の傍らで僕の仕事をサポートし、部下に指示を出したりスケジュールを組み立てたりチェックしたり、僕のそばにいた頃の変わらない君の姿だった。
「…どうして」
 ぱたん、と携帯を閉じた彼女にそうこぼす。顔を上げた彼女の髪から雫が落ちた。黒い髪が街灯の光を受けて緩く光っている。
 確かに傷つけて置いてきたはずなのに。僕は自分から君のいない世界へと行ったのに、どうして君が追いかけてくるんだ。そんなの考えてなかった。それじゃあ、全然、僕が君を傷つけた意味が。
 すっと伸びた手がぺちと僕の頬を叩いた。泣きそうな顔を寄せて「失敗は必ず挽回します。もう失態は犯しません。…雲雀さん、私は」頬を撫でた冷たい手に重ねた自分の手も同じくらい冷たくなっていた。
「私は、あなたのおそばを離れたくないんです」
 まっすぐな瞳。まっすぐな言葉。
 恐怖がせめぎあう。君との幸福な日々は僕にとっての幸福であって、君にとっての幸福ではない。だから君は無理をして倒れてしまった。これ以上君を追い詰めるわけにはいかない。だから僕は、こわいから、君に倒れてほしくないから、無理をしてほしくないから、だから。君から離れたのに。それで君が笑えるならそれでいいと思ったのに。
 でも君は僕を追いかけてきて、そばを離れたくないんだと言う。
 敵に形があるなら僕が全て破壊する。人でも物でも壊してみせる。でも形なく君を蝕むものに対して僕は無力だ。どうすることもできない。どうすることもできない、それがとてもこわい。
 でも君は。僕と離れたくないと言ってくれた。僕もそうだ。君と離れたくない。まんざらでもない幸福な日々を取り戻したい。
(じゃあどうすればいい? 僕は、どうすればいいんだ?)
「…僕が、無理だ」
「どうしてですか」
「君が。倒れたとき…心臓が凍ったよ。どうにかしたいのに、どうにもできない。そんな現実が初めてこわいと思ったんだ」
 目を丸くした彼女が雨の中瞬く。後ろから車のライトが僕らを照らしながら走ってくる。
 ぎゅっと僕の手を握った彼女が言う。「それなら大丈夫です」と。じくじく痛む腕を持ち上げてもう片手で濡れた頬に掌を滑らせる。
「どうして」
「一緒に越えればいいんですよ」
「…一緒、に?」
「はい。私が辛いと思ったことは雲雀さんに言います。雲雀さんも気に入らないと思ったことがあったら私に言います。二人でたくさん話をして、したいこととか、やりたいこととか、たくさん話をして。心を近づけて。…離れる以外にできることを、考えませんか。一緒に」
 笑った彼女はそう言った。僕の頭を抱き寄せた腕が震えていることに気付いて、動く方の腕で彼女の背中を緩く抱き返す。
 一緒に。それは、僕では浮かばない考えだった。
 君は苦しむ。無理をする。それでも僕から離れたくないと言う。僕も君から離れたくない。だから二人で一緒に戦う、というのは、全く新しい発想だった。
 急に視界が開けたような感覚。
 二人で。二人で一緒に。
 ぐ、と膝に力を入れて立ち上がる。目の前に車が止まってスーツ姿の男が何人か出てきた。「雲雀さん」と僕を気遣い支えてくれる腕と、部下に指示を飛ばす彼女の声を耳に入れながら細く息を吐く。
 じくじくしている腕も今はそんなに気にならない。だって僕は、この恐怖に対抗できる手段を手に入れたのだ。
 空を見上げる。まだ降っている。だけど土砂降りではなくなっていた。

「はい」
「傷つけて、ごめん」
 車に乗り込んで後部座席でずるずる姿勢を崩して彼女に寄りかかる。ふんわり被せられたタオルが緩い力で髪を拭っている。彼女が少し笑ったような気配。「じゃあ一度だけ、傷つけていいですか」「…いいよ」「雲雀さんなんて大嫌い」薄目を開けて視線をやれば、彼女はにっこり笑っていた。笑って、泣いていた。
「………僕は」
 大嫌い、という言葉は思っていたより僕にダメージを与えたようで、それ以上言葉が出てこなかった。傷つけたのだから傷つけられて当然だと思ったのに、傷つくというのは、僕が思っているよりずっと大変なことのようだ。押し黙った僕に彼女が微笑む。「嘘です」と。「嘘?」「言ったでしょう。傷つけていいですかって。今のは嘘です」「嘘は、感心しない」「ごめんなさい。これでおあいこですよ」朗らかに笑った彼女が僕の額に唇を落とした。やわらかい感触と人の温度に思考が追いつかない。
「愛しています」
「…それも、嘘?」
「本当ですよ」
「……そう」
 目を閉じて一つ呼吸をする。息を吸って吐いて。それから目を開けて手を伸ばして彼女の頬を撫でて、体温を確かめて。笑う君を確かめて。

「僕も、あいしてる」