かわいそうな女を一人知っている。草食動物のくせに群れることをせず、そのために他者に狙われ傷つき、それでも一人を貫く人を。
 愚かな女を一人知っている。全く振り向いてもらえないと理解しているのに、努力を惜しまず、ただひたむきである人を。
 どうしようもない女を一人知っている。
 こんな身勝手な男のそばにいることがこれ以上ない幸福なのだと、そういう顔をしている人を。

「…何してるの」
「恭弥さん。ここ、ほつれていたので直しています」
「そう」

 深夜二時。明かりは当の昔に落ちている時間に、彼女は縫い物をしていた。仕事着のスーツを脱ぎ捨てて「お腹が空いた」と言えば縫い物の手を止めて「何がよろしいでしょう」と席を立つ彼女に「カップ麺でいい」と譲歩した返答をすると、すぐに台所に消えていく細い背中。視界の端でそれを見送ってネクタイを解いた。息苦しい。
 テーブルに置いてあるスーツに視線をやる。どうやらボタンのところを直してるらしい。こんな時間に、こんな寒い場所でエアコンの一つもつけずに。
 相変わらず馬鹿だ。胸中でそうこぼしてどかりと椅子に座り込んで足を組んだ。
 眠い。疲れた。でもお腹も減った。食べたら今日はもう寝よう。
 テーブルに組んだ手に額を預けてうつらうつらしていると、「恭弥さん」と控えめな声で呼ばれた。薄目を開けて「起きてる」とぼやいて顔を上げる。きつねうどんのカップ麺を置いた彼女が「ラーメンの方がよかったですか?」と僅かに首を傾げた。きつねうどんのカップを引き寄せて「うどんでいい。ラーメンはくどい」と返すと彼女が淡く微笑む。ほっとしたように緩む目元に相変わらず馬鹿だなと思った。
 五分も待つのが面倒でべりべり蓋を剥がした。あげを先に食べながら向かいに座り直した彼女を見るともなしに視界に入れる。針を持ち直してボタンの付け根を直している彼女は、眠そうには見えない。
 本当に馬鹿な女だ。毎日毎日僕のためだと時間も労力も愛も厭わず、滑稽だ。滑稽すぎる。
 僕が優しくできないと知っていながら彼女は笑う。僕を責めることはない。ヒステリックになることもない。僕にとって最低ラインを踏まえた適当な女だった。優しくなんかできないと何度言っても彼女は僕から離れなかったし、その頃ちょうど上から形だけでいいから籍を入れろとうるさく言われていた。写真の束を持ってきて懇々と言葉を重ねられるのに苛々して面倒くさくて、いつもそばに控えているを選んで籍を入れた。それでいいのかと訊いたら彼女はいいと答えた。だから僕もそれでよかった。今までと同じようにできるならそれが一番都合がよかったのだ。
 本当に面倒だったら殺してしまっていたけど、懇親的に僕に尽くす彼女をそこまで無下に扱うこともできないと、そう思ったのが僕の唯一の優しさかもしれない。
「…寝ないの?」
 まだ硬いうどんを箸でつついてほぐす、その作業を繰り返しているときにぼそりと訊いてみた。針の手を止めずに「恭弥さんが休んだら休みます」と淀みなく返されて黙する。まぁ、そう言うだろうとは思っていた。本当に君は馬鹿な子だ。
 もう何度も君は馬鹿だね、どうしようもないね、かわいそうな子だよと言った。僕なんかを愛したばかりに。でもそう言うと彼女は眉を吊り上げる。少しだけ反抗的な態度で、私はあなたを愛したことを後悔したことはありませんと言う。淀みない瞳で僕を見つめて、これからも私はあなたを愛しますと言う。これからも馬鹿でどうしようもないかわいそうな女のままでいると言うのだ。それが僕には滑稽でおかしくてたまらない。
 君は馬鹿だねと。僕は何度も彼女に言った。どうしようもないよねと。かわいそうだよと。言葉の槍でどれだけ彼女を貫こうとも彼女は僕といることを後悔したことはないと言い張る。まっすぐこっちを見上げていつもいつも。
 空になったカップ麺に箸を突っ込んで「ごちそうさま」とぼやいて席を立つ。眠いからこのまま寝ようと寝室に行く僕に「おやすみなさい恭弥さん」と背中に声。手を止めてこっちを見つめる彼女の視線。
 振り返らずに部屋に戻って、いつものようにきれいにたたまれた布団に潜り込む。日干しされた布団からは太陽のにおいがして、ベルトくらい外そうと思っていたのに、僕はすぐに眠ってしまった。
 彼女はかわいそうな人だ。一番かわいそうなのは、報われなくとも想うという強い思いだろう。
 愛してほしいと言われたとしても僕は君を愛せない。優しくできない。それが分かっているから彼女は僕に求めない。尽くして尽くしてただ尽くし続ける。そう決めているから。
 愛してほしいと、泣かれたとして。僕は君を愛せない。愛し方が分からない。君をかわいそうな人だと憐れむことはできても、愛することはできない。
 こんなどうしようもない男をどうして君は愛したのだろう。生涯を捧げても構わないと思ったのだろう。親身になって懇親的にかわいそうなまでに僕しか見ないのだろう。
 君が僕以外の人を好きになっていれば、きっと幸せになれたのに。それこそ、普通の女でいられたのに。
 からりと襖が開く静かな音に意識が浮上する。間隔をあけて並ぶもう一つの布団に彼女が座り込んだのが見えた。ぼんやりした頭で一つ瞬きをする。眠い。
 冬の只中で夜は冷え込みがひどいのに、彼女はじっと座り込んだまま動かなかった。目を閉じて静かに息をする姿に何かを重ねる。何を重ねたのかは分からない。考える前に「ねないの」と口が動いていた。びっくりした顔でこっちを振り返った彼女が「起こしてしまいましたか」と眉尻を下げたから「べつに」とぼやいて返す。
「かぜ、ひくよ」
「…はい。もう寝ます。恭弥さんも、おやすみなさい」
 やんわり笑う彼女の顔を見つめて、そのまま十秒。眠気に負けてゆるゆると瞼が落ちていく。
 あの笑顔はどこから出てくるんだろうと考えた。否定にも近い反応しかしない僕に彼女が傷ついていないはずがないのに。
「きみは」
「はい」
「かわいそうなひとだね」
「そんなことはないです」
 否定する言葉に口元で笑う。決まり文句みたいに君はそればかりだと思う。
「きみを」
「はい」
「…あいせなくて。ごめん」
 吐息がこぼれるのに言葉が混じった程度。聞こえなくてもしょうがないような小さな声。それでも彼女は目を丸くして瞬きも忘れて僕を見ていた。
(愛せなくて、ごめん)
 落ちきった瞼の裏には暗い世界。布団の温もり。まだ冷たい空気が刺すように肌に触れる。

 どうしようもなく馬鹿で、滑稽で、かわいそうな君を、僕が愛することができれば。それがハッピーエンドなのだと、僕は気付いている。
 そしてそれが実現しそうにないことにも、僕は当の昔に気付いているのだ。

(だから、その願いは永久に)