冷たくもない雨がしとしととコンクリートの路面を濡らす、気だるい春の夜のことだった。 「雲雀」 聞き憶えのある声で呼ばれた。からり、と下駄の音。自分の耳がついに馬鹿になったのかと思って確認のために振り返って、息をするのを忘れた。 ありえない夢を見ているようだった。 ついさっき死んだはずの女がそこに立っている。不思議な色の着物を着て、赤い和の傘をさして雨の中で微笑んでいる。 ありえるはずがない。だって君はさっき死んだのだ。首を絞められて息ができずに死んだ。だから、そんないつもの顔でそこに立っていていいはずがない。 「…君、誰」 ようやく絞り出した声は雨の音に紛れるくらい小さかった。着物の少女はそんな僕に笑ったようだ。からり、と下駄を鳴らして「野暮なこと訊くのね。あなたに私が分からないはずないのに」と朗らかに微笑む顔はどこか青白い。 ぬるい温度の湿った空気が肌を撫でていくのが気持ち悪い。 「……、?」 「うん」 からり、と下駄を引きずって歩いてきた少女は僕の前に立つと笑った。角度によって色の違って見える着物は虹の色をしていた。傘は血のように赤く、雨を弾くためにあるそれは、今にも赤い色の雫をしたたらせそうだった。無意識で一歩後退ってから気付く。彼女の首には絞められた痕はなかった。白くて細い折れそうな首があるだけだった。 おかしい。これはありえない。そんなおよそいつもどおりの顔で君がここで微笑んでるのは間違っている。 僕はさっき君を殺したのに。 「…何。幽霊? 僕に仕返しにきたの」 ありえない現象の説明に幽霊なんて言葉を使ってみたら彼女は笑った。「あなたの誕生日に何でもあげるって言ったのは私。仕返しになんてこないよ」と朗らかに微笑む姿にまた一歩後退した。雨で濡れた髪が視界の邪魔をして鬱陶しい。瞬きを繰り返しても彼女は消えてくれない。いつものように微笑んでそこに立っている。すぐ目の前に立っている。 一つ唾を飲み込んでからゆっくり手を伸ばした。雨に少しも濡れていない肩に触れようとして失敗する。指先は彼女に触れることなくその肩をすり抜けた。中途半端に漂う手は何かに触れることはなかった。彼女の鎖骨辺りに僕の手首が埋もれている。感覚はない。少し冷たいと感じる程度。 細い首に手をかけようとして、失敗した。触れることはできなかった。そのことに彼女は少しかなしそうに微笑んでいた。 君はやっぱり死んだのだ。そう思ったら少しほっとした。 誕生日に何でもくれるという彼女に甘えて、僕は君がほしいと囁いた。身体がじゃない。心がじゃない。命がほしいんだと囁いた。 他の誰にも君を見せたくないし声も聞かせたくない。同じ空気の中に他の誰かがいることも我慢ならない。君は僕のためだけに生きていればそれでいい。でも生きるってことはなかなかに面倒で、この僕でさえ一人でいるのが難しい。なら君にこの要求はなおのこと難しい。 だから死んでよ。僕のために。 笑うことしかしてこなかった彼女が初めて表情を凍らせたのを見た。伸ばした手は君を抱くためではなく君の首を絞めるためだった。信じられないって顔をしている彼女の首に手をかけて、殺したいほど君のことを好きになってしまった自分を嘲笑い、君のせいで狂ってしまった自分を笑いながら僕は君を絞め殺した。驚いた顔が苦しそうな顔へ、そしていつものように笑って掠れた声で誕生日おめでとうと残し、君は僕に殺されて死んだ。 悪い夢のようだ。君のいなくなった世界でようやく息をした頃にまた君が現れた。当たり前のように微笑んで自分を殺した男の前に現れるなんて、どうかしてる。 からん、からりと下駄を鳴らして彼女は僕についてくる。春の雨がしとしとと髪や肩を濡らして服が重い。 「どこに行くの?」 「確かめに行く」 「何を?」 「君を」 まだ死体がそのまま残ってるであろう自宅に戻って、地下室への階段を下り、ひんやり冷たい空気の流れてくる通路を横切る。一番奥の扉の前で立ち止まるとからりと下駄の音も止まった。傘をたたんでいる彼女はいたっていつもどおりで、ここに自分の死体が転がっているだなんて事実の前にも眉一つ動かさない。手を伸ばしてノブを掴み、重いドアを押し開ける。慣れた畳のにおいと和をモチーフにした見慣れた部屋の風景が見える。そして君が見える。眠るように死んでいる君が。 靴を脱ぎ散らかして畳の上を歩き、君のそばに膝をついた。そっと手を伸ばして絞められた痕のある白い首に触れる。ちゃんと触れられた。まだ体温の名残を感じられた。脈はなかった。君は確かに死んでいた。 白い着物姿で眠っている君から視線を上げる。部屋の入り口で佇んでこっちを見ている君も確かに君だった。僕が愛して止まなかった女だった。愛しすぎて殺してしまった女だった。 「…どうしてそこにいるの。君は、死んでる」 眠る君を抱き寄せると、くたりとしていて人形のようだった。頭がもげたりしないように注意深く君を抱き寄せた僕に立ち尽くす君は笑ったようだ。「うん、死んだわ。だから今の私は幽霊なんでしょう」「簡単に言ってくれるね」「私にだって分からないもの。だからそういうことにしておくの」から、と音を残して下駄を脱いだ君が畳に上がる。自分の死体に近づいても微笑み続ける彼女は青白い顔をしている。それこそ幽霊のような。 もう動かない君が現実にいる君で、そこにいる君は幻。もしくは僕の都合のいいただの夢。 虹色の着物の袖を揺らして君の手が僕の髪を撫でた。感覚はない。髪も揺れなかった。彼女はそのことに少しかなしそうに微笑んだ。 「ねぇ雲雀。私のこと愛してくれてた?」 「当たり前じゃないか」 「殺したいくらいに好きでいてくれたの?」 「そうだよ」 僕の言葉に彼女は嬉しそうに笑った。くすくすと鼻にかかる甘い声は確かに君のものだ。でも本当の君は僕の腕の中で死んでいる。もう二度とそんなふうに笑ってくれることはないはずだった。怒った顔も泣いた顔も笑った顔も、君の全てはもう僕の中だけにある。他の誰に取られる心配もない。そのはずだった。 腕を伸ばす。折り畳んでいたトンファーがじゃきんと展開して伸びた。目を丸くする彼女の首を照準してトンファーを振るう。当たり前のように空を切った。彼女は何度か瞬きするとまた微笑みを浮かべてみせる。どこかかなしそうな微笑みを。 僕は白い着物の君を横たえて立ち上がった。じゃきんともう片手にもトンファーを展開する。もう一人の君は虹色の着物を着てそこで微笑んでいる。 その笑顔は僕のものだ。僕の中だけで生きていればいい。他の誰かにも見せるような君の笑顔なんて、なくなってしまえばいい。 「…死んでよ。僕の誕生日なんでしょう。何でもくれるんでしょう。命もくれるんでしょ」 「あげるよ。私にあげれるものなら全部、何でも」 君を殺すとき、君の首を絞めたとき、僕はどんな目で君を見ていたのだろうか。ただただ君が恋しくて君を囲い君を貪っていた僕を、君は本当に愛していたのだろうか。こんなどうしようもない愚かな男に君はどうして笑いかけてくれるのだろう。 動かない君を殺そうと僕は無意味な行動を続けた。微笑み続ける君はかなしそうに僕を見ている。 いくらトンファーを振るおうと現実にいない君に掠るはずもなかった。分かっているのに僕は君を傷つけようと躍起になる。息が切れても眩暈がしても君を殺すためにトンファーを振るい続ける。ただひたすら、君を殺す獣に成り果てる。 どが、と畳を真っ二つにしても君は真っ二つにならない。当たり前のようにそこに立っている。肩で息をする僕を見つめている。当たり前のように微笑んでそこにいる。 「雲雀」 君の声が僕を呼ぶ。すっと手を伸ばした君の指先を辿ると、白い着物の君に辿り着いた。僕が夢中で君を殺そうと暴れている間に眠っている君が傷ついていた。トンファーを手離して動かない君を抱き起こすと、くたりとした君は人形のようにされるがままで、やっぱり死んでいた。 は、と息を切らしている自分がひどく滑稽だと思う。 現実はこれなんだ。君はもう死んでいるんだ。僕がもう一度君を殺す必要はないはずだ。君という人は世界にただ一人だけなんだから、一度殺せばそれで事足りる。たった一度だけ殺してしまえば、あとの君は僕のもの。だから僕は君を絞め殺した。 は、と息をこぼして視線を上げれば、視界の先で君が微笑んでいる。 「あなたにこんなに愛されて、私は幸せ者ね」 ぽつりとそうこぼした彼女が笑う。室内なのに赤い傘を広げると、素足のまま、当たり前のように壁に向かって歩き始めた。着物の裾がどうしてか透ける。反射で「」と呼んでから言うことがないのに気付いた。こっちを振り返った彼女は朗らかに微笑む。青白い笑顔の向こうの壁が据えて見える。 「殺されても本望。私、そう思った。だからいいの。雲雀、これでよかったの」 泣かないで、と言われて初めて自分が泣いていることに気付いた。ぐいと袖で目を擦ってみると濡れていた。視界がじわりと歪んでいて鬱陶しい。泣いたのなんて、生まれて初めてだった。 何か言わなくては。何か。そう思ってもう一度彼女を見たとき、そこにはもう誰もいなかった。名残のように傘の赤い色と着物の虹色の光が見えただけで、君はもうそこにいなかった。 白い着物の君に視線を落とす。揺さぶってみても君は起きない。細い首には僕が締め上げた痕が赤く残っている。君は間違いなく死んでいる。僕がこの手で殺したのだから。 照れたように笑った君も、拗ねたように怒った君も、悲しそうに泣いた君も、雲雀と僕を呼ぶ声も。体温も。甘い吐息も。全て僕のものだ。君の全てが僕のものでなければ気がすまない。 その命も、過去も、未来も、全て僕のもの。 だから僕はこれで満足だ。ようやく思い通りになった。君が完全に僕のものになった。 だから僕はこれで。 「…何これ」 ぽた、と水滴が落ちる。君の寝顔を見つめ続けているとぽたりとまた水滴が落ちた。辿ってみると、自分の目に行き着く。視界がまた歪んでいた。どうやら僕は泣いているらしい。 掌で目を圧迫してみたけど何も変わらなかった。 ぼんやりする視界で眠り続ける君の寝顔を眺めて、手の届く位置に放置されていたトンファーを握り締める。 自分がどうして泣いているのか、分からない。そんな自分が鬱陶しい。 ごっとトンファーで頭を殴ってみたら痛みで眩暈がした。どたんと倒れ込むと君が僕の腕から転がり落ちて、不自然な形で動かなくなる。 ぐらぐら揺れる視界で手を伸ばして、君を抱き寄せて、締めた痕のある首を噛む。もう体温は感じなかった。 春の雨の音がしとしとと耳を打っている。 (ああ、僕は) 君の首を強く噛む。痛みを感じるくらい強く。それでも君はもう二度と動くことはない。笑うことも泣くことも怒ることもない。これで完全に君は僕のもの。これは僕の望みが叶った現実。 定まらない視界で痕のある首をゆっくり指先でなぞった。噛み痕のついた首筋に思い出したように血の赤がつうと流れて落ちた。 震える手でもう一度トンファーを握り締め、自分の頭上でぴたりと止める。 あとは、全力で振り下ろして、自分を殺すだけ。 |