今朝、ポストに一つの封筒が入っていた。見憶えのある字で私宛に。
 封筒を裏返してみると、並盛中学校、と書いてあった。
 首を捻りながら部屋に戻って封筒を開封すると、便箋が一枚出てきた。それだけで、他には何も入っていなかった。
 目を通してみると、その便箋は重要書類でもなんでもなくて、見憶えのある字で私に向けて言葉が綴られている手紙だった。
 十年後の私へ、と題されているその手紙は、中学三年生のときにみんなが書かされたものだ。すっかり忘れていた。どおりで見憶えがあるはずだ。だってこれは私の字なのだから。
 今とあまり変わらない筆跡を辿りながら、意識してゆっくり読み進めていく。過去の自分を思い出すように、一つ一つ、ゆっくりと文字を拾う。
 十年後の私へ
 今は幸せでしょうか?
 それとも悲しみで泣いているのでしょうか?

 今は誰を好きですか?
 それとも変わらずに あの人が好きですか?
 あの人、で示されている人を思い浮かべてみた。黒い髪に、鋭い瞳の持ち主を。
 最後に彼を見たのは卒業式だ。あの日もあの人はいつもと変わらず学ランを羽織っていた。でもあれから十年たったのなら、さすがに学校で風紀委員長を続けてはいないかもしれない。並中のことにこだわっていたあの人のことだから、もっと偉い職務。たとえば、校長とか、そういうものになっているのかもしれない。
 黒い革張りの椅子に腰かけて書類にペンを入れる彼が想像できてふっと口元が緩む。ああ、それなら中学時代の彼とあまり変わらないな、なんて。
 便箋を置いて窓の外に顔を向けると、いい天気だった。青い空に白い雲が浮いていた。
 陽射しが少し強いくらいの、春の終わり。
 休日のその日、私は出かけることにした。鞄に便箋を入れて、少しの散歩のつもりで、懐かしい場所へと足を運ぶ。
 十年たっても並盛中学校は変わっていなかった。増設も補強もされず、私が通っていた頃と寸分違わぬ姿で私を迎えてくれた。
 懐かしさで胸を満たしながら校庭を歩き、来客用の玄関口からスリッパを借りて、職員室にいる適当な先生に声をかけて許可をもらい、学校内を散策することにする。
 一番に向かったのは自分の教室だ。鍵のかかっていない引き戸を開けると、変わらない風景が広がる。そっけない木の椅子と机が並ぶ風景は、とても懐かしいものだった。
 最後の席替えで一番前の真ん中の席になってしまって、なんだか運がないなぁと思ったことをよく憶えている。
「変わらないなぁ」
 手を伸ばして木の机を撫でる。椅子を引いて座ってみる。何も書かれていない黒板をじっと見つめていると、なんとなく、何か書いてみたくなった。チョークなんて学校以外では触る機会がなかった。白くて細いチョークを手にして何を書こうかと悩む。1+1は、なんて書いたってつまらない。何かないかな。何か。
 今は誰を好きですか?
 それとも変わらずに あの人が好きですか?
 今の私は、雲雀くんが好きです
「…私、は」
 かつ、とチョークで文字を書く。かつかつと音を立てながら、ゆっくりと白い文字を書く。
 私は、今もまだ、雲雀くんのことが忘れられません、と。
 かつ、とチョークの手を止めてその文字を見つめる。
 私がこの教室で手紙を書いてから十年もたったのに、彼が薄れない。時間という波によって愛は薄れるものだと聞いていた。好きという気持ちは永遠には続かないものだと聞いていた。そうだと思った。思いたかった。だから私は楽観視していた。離れてしまえばきっと忘れられるからと、そんなふうに思っていた。
 十年たって、今もまだ忘れられないほど、彼のことを憶えているのに。
 チョークをことんと置く。黒板消しで自分の文字を消そうとして、しばらく見つめていた。
 後ろのドアから誰かが入ってきたことに気付いたのは、「それ、告白みたいだね」という声を聞いてからだった。
 忘れるはずがない、声だった。聞きたいと願っていた声だった。間違えるはずもない声だった。些細でささやかな彼の声の一つ一つを、私は意識して、記憶して、刻み込んでいたのだから。
 ゆっくり振り返る。十年という歳月は私を変え、彼を変えた。私の想い出の彼よりも、今の彼は背が伸びて、髪が少し短くなっていた。瞳は相変わらず鋭くて、きれいな顔をしている。
「雲雀、恭弥、くん?」
「他の誰かに見えるの」
 スーツ姿の彼が私のところまで歩いてくる。呆然としている私を眺めると、彼は唇の端を持ち上げて笑ってみせる。「何その顔」と言われてはっとして、乱暴に黒板をきれいにした。
 見られた。ばっちり見られてしまった。それ告白みたいだねって、この文字のことだ。ばっちり見られてしまった、どうしよう。
 誤魔化しようのない言葉を書いてしまった自分を束の間呪う。せめて雲雀くんのところをあの人とでもしておけば、わからなかったのに。伝わらなかったのに。もう、誤魔化しようが。
 彼は私の隣に立ったまま何も言わない。私も顔を伏せたまま、どきどきしている心臓を感じることしかできない。
 こんな気持ち、長く忘れていた。こんなふうに顔が熱いと感じることや、大きく鼓動する心臓のこと。いても立ってもいられないようなこんな気持ちは、ずっと忘れていた。もう感じることのできない感覚だと思っていた。
 彼がいるだけで、こんなにも何もかもが鮮明になるっていうのに。私は忘れていた。忘れたまま生きていた。忘れられればいいと思ってた。彼を忘れてしまえたらいいって思ってた。
 でもやっぱり、忘れたくなかった。それが本当の気持ちだったんだ。

「、はい」
 苗字で呼ばれたことに一拍遅れてから顔を上げる。顔を上げてからしまったと思った。
 真正面から彼を見つめる破目になって、笑っているその顔に、囚われてしまう。
 今は誰を好きですか?
 それとも変わらずに あの人が好きですか?
 今の私は、
(今の私も。雲雀くんが、好き、なんだな)
 そう思ったら。意識したら。手を伸ばして触れられるような近い距離にいる彼から、逃げたくなった。衝動だった。これじゃかっこ悪い意味不明の別れ方だと思ったけど、これ以上は無理だ。私は遠くから彼を見ているだけでいいんだ。近づける人じゃないんだから。彼は特別な人間なんだから。私みたいな凡人が近づける人ではないのだから。
 胸の内でたくさんの言い訳をして全速力でダッシュしてその場から逃げ出した私は、相当かっこ悪い。なりふり構っていない。廊下を走れるだけ走ってスリッパをばたばたいわせて、本当、何してるんだろう。私、馬鹿? っていうか馬鹿か。うん、そうだ。今になってこんなに好きだったことに気付くなんて、本当馬鹿だ。本当、どうしようもない。
 こんなに好きだったなら、ダメでもともと、気持ちを伝えていればよかった。そうして断れていれば、きっとちゃんと彼のことを忘れられた。次の恋に進もうと思うことだってできていた。
 想っていたのに伝えられず、かといって自分の中で昇華もさせられず、持て余していた気持ちが、こんなところで爆発してしまった。
 息を切らせながら階段に差しかかって、勢いのまま何段か下りたところではっとする。階下から誰かが来たと思ったら、雲雀くんだったのだ。なんてことだろう、先回りされていた。無茶苦茶な逃走経路だったのに。さすが並盛中学校を仕切っていただけある、ってことだろうか。
 かつと靴を鳴らせて階段を一歩上がり、不敵な微笑みで私を見ている彼は、逃げられるなら逃げてみろとでも言っているようだ。どこへ行ってもどんな道を使っても、彼にはきっとわかるのだろう。この学校のことなら掌の内の人だから。
 くるりと彼に背中を向けて、私はまた疾走を開始する。足音は追ってこない。まるで鬼ごっこを楽しむように、彼は私をゆるりと追いかけるだけだ。
 は、と息を切らせながら、私は馬鹿みたいに校舎を駆けずり回って、階下へ逃げようとする私の退路を塞ぐように現れる彼に追いかけられ、最後に屋上に逃げ込んだ。
 は、と肩で息をしながら、笑っている膝でぺたりと屋上のタイルに座り込む。
 疲れた。こんなに走ったのなんていつぶりだろう。こんなになってまで彼から逃げて、どうして屋上に来てしまったのだろう。だってここは彼の、応接室の次くらいによくいた場所だったのに。彼が私の退路を塞ぐようにするから、ここへ来てしまったんだろうか。
「もう逃げないの?」
「、」
 声に振り返れば、少しも息を乱していない彼が立っていた。走っている途中で私が置いてきたスリッパ二つと落としてしまった鞄を持っている。がむしゃらに走っていたのに、私の通った道を彼はしっかり把握しているらしい。
 どうして私は彼と鬼ごっこなんかしてるんだろう。なんだか馬鹿みたいだ。体力で勝てるはずがないし、並中が舞台なら、まず何をやっても私に勝ち目はないのに。
 は、と息を漏らしてうなだれる。私は負けたのだ。もう立ち上がるのも億劫で、うなだれたまま私は彼に話しかける。「雲雀くん、疲れないの」「何が?」「これだけ、走った、のに」「君の体力がないんだよ」押し殺した笑った声に顔が熱くなる。体力、ないのかな。そうかもしれない。
 こつと靴音がして、私の前に黒い靴先が見えた。しゃがみ込んだ彼が手を伸ばすのが見えた。その掌が私の頬を挟んでむいと顔を上げさせられる。そうするといやでも彼が見えてしまう。整った顔立ちをした、十年も好きなままだった人から、顔を逸らせなくなる。


「…はい」
「どうして僕から逃げるのさ」
「それは…その。えっと。秘密ってわけには、」
「駄目だね。許さない」
「…えっと。あの、ですね、驚かないで、ほしいんだけど。その、実は、」
「早く言わないとキスするよ」
「へっ」

 間の抜けた声を上げると彼が笑った。笑った顔を見ていたら、言葉はすんなり出てきた。「私、雲雀くんが好きなんだ」と、ぽろっと口にすることができた。彼は当たり前のように笑うだけだ。「そんなこと知ってるよ」と。
 ああ、なんだ。そうなのか。きっとさっきの教室で私が黒板に書いた文字を見てしまったから、気付いたんだろう。なんだ、さんざん逃げ回って誤魔化そうとした私が馬鹿みたいだ。っていうか、馬鹿だ。どうしようもないな私って。そう思ってほうと息を吐いて目を閉じた私の唇に何かが当たる。気のせい、ではない。
 恐る恐る目を開くと、視界が埋まっていた。雲雀くんで。
 頭がぐるぐるする。思考が追いつかない。これはなんだろう、どうなってるんだろう。どうして。どうして?
 ゆっくりとした時間は、秒にするなら五秒となかったろう。私には永遠のように感じられた時間も、彼の顔が離れたことで終わりを告げた。呆然としている私に彼はきれいに微笑んでいる。
「十年もかかるなんて、君は本当に馬鹿だね」
「え?」
 ぱちぱち瞬きする。彼は私の鞄を持っていた。逃げているときに落としてしまった鞄だ。そこから便箋を取り出した彼が「ここにも書いてあるだろう。君は十年も前から僕のことが好きだった」当たり前の顔をしてそう言う彼に言葉が出てこなくなる。
 それは、そうなのだけど。確かに私は十年前からあなたのことが好きだったけど。その便箋には一度だけあなたの名前が出てきて、小さな文字で、付け足すように書かれた一言だったのに。私が逃げ回ってる間に彼はあれを読んだのだろうか。なんとなく想像してしまう。便箋に何度も目を通して、私の文字を辿る彼を。口元を緩めて笑っている様子を。
 十年前から。私だけがあなたを想っているのだと、一人で思っていた。
「雲雀、くん」
「何」
「十年前から…知ってたの? 私が、雲雀くんのこと、好きだって」
「知ってたよ」
 さらりと肯定した彼が私の髪を指で梳いた。走ったせいでくしゃくしゃになってしまった髪を撫でて、彼は目を細める。眩しいものでも見るように私を見て「待っていたら、十年過ぎてた。君も馬鹿だけど、僕も十分馬鹿だね」…頭が追いついてくれない。それは、つまり、十年も前から、私だけじゃなくて、あなたも、私のことを。

 、と口ずさむように私を呼んで、彼は満足そうに私を抱き締めた。
「ようやく、つかまえた」
 囁き声は私の意識に沁み込んで、涙を誘った。縋りつくように彼のスーツを握り締めて唇を噛む。
 ああ、私達は、なんて馬鹿だったんだろう。十年かかってようやくお互いの気持ちを知ることになるだなんて、笑っちゃうくらい、本当、馬鹿みたいだ。

好きだと伝えるのに
十年
かかった、というだけの話