これは簡単な話だ。一言で説明するなら、一組の男女が恋人として成立するまで実に十年かかったという、それだけの話。
 どうして十年もかかったのかと言われても困る。この僕が、曲がりなりにも彼女のことが好きだったのだと気付くのに、まず一年はかかったのだから。
 そんな僕だから、彼女のことを探す自分が彼女のことを好きなのだと認めるのには相当な年月がかかった。つまり、それが十年なのだ。

 並中を卒業した彼女の姿を登校する生徒の中に探していることに気付くのに一年。
 それがなんなのかを考えていたらまた一年が過ぎ、三年目になって、彼女の通っている高校を調べて足を運んでみた。中学のときとあまり変わらない彼女は、膝上のスカート丈で参考書を手に帰り道を一人歩いていた。
 声を、かければよかったのかもしれない。だけど僕は参考書に視線を落としたまま顔を上げない彼女の後ろを歩くだけで、声をかけることはできなかった。
 四年目が過ぎて、彼女は大学へ進学した。ほどほどの学歴のある、ほどほどの学校だった。少し問題があるとすれば、女子より男子が多い、という点だろうか。
 暇があれば彼女の様子を見に行く僕は、まだ意地をはっていた。この僕が自分から気持ちを伝えるだなんて冗談じゃない、なんて意地を持っていた。今思えばとてもくだらない意地だった。意固地になって傷ついたのは、他でもない自分自身だったというのに。
 男子が圧倒的多数の大学では女子はそれだけで浮いていて、彼女のことを見ている男はそれなりにいた。その度に苛々する自分を押し込みながら僕は彼女を追いかけた。やんわり笑って相手の好意を受け止める彼女は、何度か交際というものもした。そのときの僕の荒れようはひどかったらしい。自分では気付いていなかったけど、周りがそう言うのだから、まぁそうなんだろう。
 彼女の気持ちはとうに僕から離れてしまったのだと思い知らされたようで、僕は彼女を追いかけることをやめた。
 その間に五年六年七年目が過ぎ、大学を卒業する時期が近づいた。意識して忘れようとしていた彼女を幻視して、並中を卒業する日に涙をこぼした彼女が見えて、仕方なく大学の卒業式に足を運んだ。隣で誰か知らない男が笑っているなら咬み殺してしまうかもしれない、と思いながら見つけた彼女は、一人だった。隣には友人の姿もなく、ぽつんと一人で卒業証書を見つめていた。
 君の気持ちはまだ僕にあるのだろうか、なんて浅はかな願いを抱いてしまう。
 卒業してすぐ、彼女は就職した。大学でやるべきことをこなした結果だった。
 日々に忙殺されるように疲れた顔でアパートへ帰宅する彼女は、僕のことなどきっと忘れてしまったのだろう。会えば思い出してくれるかもしれない。でも、きっともう好きではない。何年も会っていない男のことをずっと想い続ける女なんていない。
 忘れようと努力した。君とはちゃんとした会話もしたことがないのだから、忘れることなんて簡単だと思った。
 たまたま目が合って時間が止まったような錯覚を覚えたこととか、帰り道一人で歩く寂しい背中とか、風になぶられて結んでいた髪が解けた瞬間とか、そんなことはすぐに忘れてしまえると思っていた。
 きっと君はもう僕のことを好きではないから。僕が、好きなだけだから。君にとって僕は過去の男だろうから。僕にとって君はまだ眩しいままだけど、君にとっての僕はきっと色褪せている。
 だから忘れよう。そう努力して日々を過ごしていたら、君が並中を卒業して十年がたっていた。
 中学三年のときに生徒全員に書かせる十年後の自分へ出す手紙というのを思い出したのは、偶然だった。
 学校がまとめて出す封筒を掻き分け、君の手紙だけを引き抜き、封筒をアパートのポストに入れて、その日、君が学校に来てくれることを望んだ。願った。祈った。
 結局十年たっても僕は君のことが忘れられなかった。それが答えだった。
 十年たっても忘れられないのなら、この気持ちはずっと消えてくれないのだろう。ならもう打ち明けてしまおう。これ以上一人で抱え込むのは僕でも苦しい。君にとって僕が過去の人間だったとしても、言おう。伝えよう。そうして、終わるなら終わろう。続くのなら、それが一番いいけれど。
 君が学校に現れた。
(そのとき僕がどんなに打ち震えたかなんて、君はきっと知らない)

 ゆっくり校舎の中を歩く君のあとを追いかけた。
(覚悟を決める。もう逃げない、もう意地をはらない、君に、素直になるんだ)

 君が教室の黒板にチョークで文字を書いた。
(その言葉に、僕がどんなに泣きたくなったか、君は知らない)

 声をかけたら君はひどく驚いた顔をして僕の名前を呼び、逃げ出した。
(曖昧なままで終わらせようなんて、そうはいかないよ)

 君を追いかけた。
(ただ夢中で)

 細い背中を見つめて僕は笑う。
(逃げられるものなら、逃げてごらん)

 君を、追いかけた。
(ただ。望んで。求めて。縋って)

 屋上に追い込まれた君は力尽きたように座り込んで、僕はそんな君に追いついて、君の前に膝をついて、手を伸ばして。そして。
「雲雀くん」
「…、」
 声に呼ばれてうっすら目を開けると、見慣れない天井が見えた。何度か瞬きしてから視線をずらす。こっちを覗き込んでいたがほっと息を吐いて「私仕事だから、行くね」「…もうそんな時間?」目をこすりながら起き上がると、まだ七時だった。離れようとしたの腕を掴んで止める。強く引けば、彼女は簡単に戻ってきてくれた。困った顔で僕を見ると「雲雀くん」と僕を呼ぶ。
 困らせているな、とわかっていて甘えた。細い腕を引き寄せて手の甲に唇を寄せる。「ひ、雲雀くんっ」あたふたと慌てる彼女がかわいらしい。
 十年前に戻ったように、僕らは子供みたいに夜通し話をして、一緒の時間を過ごして、気付いたら眠っていた。起きたら彼女はもう身支度を整えて仕事に行くところで、少しつまらない。もっと困らせてやればよかったかな。
 腕時計をちらちらと気にする彼女のために、仕方なく手を離す。するりと離れた手は躊躇ったあとに僕の頭を何度か撫でた。
「いってきます」
「いってらっしゃい。夜また来てもいい?」
「どうぞ」
 ふんわり笑った彼女が僕から手を離す。そこから先はばたばたとヒールの靴を履いて鞄を掴んで慌てたように部屋を出て行った。一連の動作は十秒もない。
 ふわあと大きく欠伸を漏らしてから寝台から起き上がる。シングルの狭いベッドで二人してどうやって寝たんだろうか。憶えてない。彼女が眠そうに船を漕ぎ出したから、それを見ていたら同じように眠くなったところまでは記憶があるんだけど。まぁいいか。気にしても仕方がないし。
 目をこすりながらスーツの上着を取り上げると、携帯が着信を知らせていた。合計三回。風紀財団からだった。また何か仕事でもあるんだろうか。面倒くさいなぁと思いつつ上着に袖を通したとき、小さな丸いテーブルにパンとスープが用意されていることに気付いた。これは、僕の朝ご飯、ということだろうか。
 せっかくだから食べていこうか。僕は洋食より和食が好きなんだと、今度伝えておこう。
 もらった合鍵で部屋の扉を施錠して外に出る。
 よく晴れている、春の終わりの月曜日。梅雨の時期がすぐそこにきていた。
、食事に行こう」
『え? 食事って、どこで?』
「駅にいてよ。迎えに行くから」
『え? え、うん、わかった。じゃあ正面の方で待ってるね?』
「うん」
 夜になって、彼女の帰宅時間を把握している僕はあらかじめ電話をかけておいた。哲が運転する車の後部座席のシートに埋もれながら書類にも目を通す。昨日半分サボっていたせいで少し残ってしまった。「ねぇ」『うん』「僕は、洋食より和食が好きなんだ」『えっ。ごめん、知らなくて、朝はパンとスープにしちゃった』「うん。ねぇ、次はご飯がいい」『う、うん。気をつける』戸惑った声は、また部屋に泊まるのかと暗に訊いている。それに気付かないフリをして「ねぇ」と呼ぶ。『うん、雲雀くん』と返事をする声が聞こえる。ああ早く会いたいな。そんなことを思いながら書類に目を通して投げやりにサインをした。
『雲雀くん?』
「…ねぇ。仕事楽しい?」
『え。どうしたの、急に』
「なんとなく。いつも疲れた顔して帰ってきてたの、知ってるから」
『…なんか、ずっと見てたみたいな言い方、だね』
 そう言われて次の書類にサインする手がぴたりと止まった。彼女は僕が追いかけていたということに気付いていないのだった。言い出せないのは、意地、だろうか。いや、懼れ、か。十年もストーカーまがいのことをしていた僕に、彼女が絶望しないとはいえない。
 本当は今すぐ君を家に攫って、誰の目にもつかない場所で貪って独占したいんだ、なんて言ったら、彼女はどんな顔をするだろう。
「…見えた」
『え?』
 ぱくんと携帯を閉じてポケットに捻じ込む。止まった車から降り立つと、携帯を見つめていた彼女が顔を上げた。「雲雀くん」「お疲れさま。乗って」「う、ん」そろりと車の方に行く彼女の背中を押した。相変わらず細い。中学時代から何も変わっていない。
 運転席にいる哲に「お願い、します」と細い声をかける彼女。乗り込んだ彼女に続いてシートに腰かけてばんと扉を閉める。すぐに車は発進した。彼女は僕の隣で不安そうな面持ちで車内を見回している。
「あの、雲雀くん。食事って、どこへ?」
「少し行ったところ。座敷で和食を食べよう」
「え、お座敷って、高いんじゃ」
「僕が出すから気にしないでいいよ」
「で、でも」
 あたふたする彼女に顔を寄せる。身を引いてごちとガラスに頭をぶつけた彼女が痛そうな顔をした。うん、今のは痛そうな音だった。「僕と食事するの嫌?」「ち、違うよ。でも、お金がたくさんかかっちゃう」「いいって言ってるじゃないか」「だ、だって」しどろもどろの彼女にむっと眉根を寄せる。ぺしと両手で頬を挟んでぐいとこっちに顔を向けさせた。「行かないからキスするよ」「へっ」素っ頓狂な声を上げた彼女の視線が運転席に向く。哲にはリアクションを取るなと命令してある。何があってもあいつは車を運転することだけに努めるはずだ。

 呼べば、彼女の目が僕を見る。「あの、本当に、いいの?」そろりとした声音に「いいよ」と返す。ほうと息を吐いた彼女はどうやら諦めたようだ。「わかった、ちゃんと食べる」と言われて頬を挟んでいた手を離す。うん、それでいいんだ。せっかく行っても君が遠慮したままじゃ食事もおいしくなくなる。

 一応哲に予約を取らせたから、すぐに座敷に通された。並盛なら僕の手の届かない場所はないけれど、彼女の前でくらい、僕も丸くなろう。
 慣れない座敷にうろうろ視線を彷徨わせるは、やっぱり少し疲れた顔をしていた。
 一番高いコースを二つ頼んで、急須を手に取る。日本茶を注いで湯飲みを差し伸べると、彼女がそろりと受け取った。僕はこういう場所に慣れているけれど、彼女は違う。きっとカフェとかレストランとか、あっちの方が親しいんだろう。でも慣れてもらわないと困る。僕の家はこんなふうなんだから。
「ねぇ」
「うん?」
「仕事辞めたら」
「…どうして?」
「疲れた顔してるから」
 指摘すると、彼女は困ったように笑った。半分諦めている顔だった。「駄目だよ。生活できなくなっちゃうもん」彼女にとって、それは当たり前の話なんだろう。でもその理屈に僕は納得できない。机に頬杖をついて「生活できるなら仕事辞めてくれるの」と言うときょとんとした顔をされた。次にまた困った顔をして「えっと、それってどういう」「…だから」口にしようとして、一瞬躊躇う。
 十年前から変わらない。少しくらい、変われてもいいのに。僕も彼女も、十年前のまま、あの頃から時間が止まったように、お互い子供のままだ。
 でもこれからは。凍った時間は動き出すとわかっている。止まっていた時が刻まれ始めるとわかっている。
 目を見て。言えるだろうか。精一杯努力して視線を上げる。の目を見て、一度口を開いて、閉じて、また開いて。声を出そうと、努力する。
「僕と、一緒に、生きてよ」
 …もうちょっとかっこいい言葉を言うべきだったと後悔した。なんだろう、この子供みたいな言い方は。プロポーズってもうちょっとかっこいいものじゃないっけ。
 ぱちぱち瞬きした彼女がべしっと自分の両頬を叩いた。ついでとばかりにぐにっとつねって、呆然としたように手を離す。信じられないって顔でこっちを見ている彼女が「あの、それは、あの、つまり」僕以上に慌てておどおどして、見ているこっちにまで移るような赤い顔をして、「あの、プロポー、ズ?」上目遣いの視線にぐっと胸を突かれた。ああ抱き締めたい、と思ったところで人の気配を感じて視線をやる。タイミングよくか、悪くか、最初の料理が運ばれてきたようだ。
 先付、所謂前菜に彼女の意識が移る。あの様子だと、きっと初めてなんだろう。
 これからは飽きるくらい連れてこようと決めながら動かない彼女のために先に箸を取る。「」「あ、」思い出したように箸を手にした彼女が手を合わせる。
「さっきのは、本気だよ」
 これ以上は照れくさくて無理だった。顔を上げれずにそうぼやくと、箸を止めた彼女がまた赤い顔をしてるのが見えた。
 ああもう、そんな顔をしないでほしい。すごく抱き締めたくなるじゃないか。