彼女は福音を喜ばない

 容赦ない時間の流れが嫌いだ、と君は言った。
 ずっとこのままでいたいのに、変わりたくなんてないのに、強要される。世界がそういうカタチをしている。自分というものがそのカタチに当てはまるようにと強要される。尖っている部分を丸く削られ、はみ出した部分を削ぎ落とされ、決まっているカタチに押し込まれる。それが嫌いだ、と君は言った。
 この世界が嫌いだから、そこにあるものも全て嫌い。
 だけど例外も存在した。それがたとえば僕だ。
 彼女に言わせるなら、僕という人間はおよそ人間というカタチからはみ出している。刃で削ぎ落とされる運命にあるソレを刃には刃で返し、押し込まれるべきカタチをこの手で破壊して粉々に粉砕し、世界のカタチすら変えてみせると、彼女は僕のことをそう言う。
 だから、僕のことが愛おしいと。彼女は言う。
 …彼女の基準がそんなだから、彼女には案外と好きなものがある。嫌いなものがほとんどだけど、好きなものもある。だから嫌いばかりで溢れる世界で彼女はまだ生きている。嫌いしか存在しない世界だったら、君はとっくにさよならをしていたことだろう。
 彼女は彼女の言う世界のカタチに逆らっているものが好きなのだ。だから僕が好き。僕以外にも六道骸とかその辺りの普通じゃない奴も好き、と。
 不本意極まりないことだ。あんな奴と肩を並べた『好き』で同列にされるなんて。
 と、いうことを懇々と語って聞かせると、肝心の君は読書のために意識をほぼ手元の小説に割いたまま「ふうん」とだけ言った。僕を見ることもしないで、流すような言葉だった。
 一瞬だけ爆発しそうに跳ね上がった何かを意識で抑え込む。相手が君でないのならトンファーで殴っていたところだ。
 自分を落ち着かせるためにはぁと一つ息を吐く。肝心の君は、本に視線を落としたままだ。
「ねぇ、僕のこと好きなんでしょう」
「好きだよ」
「だけど、六道の奴だって好きなんだろ」
「そうねぇ」
「……君の一番は誰なの?」
 今の自分を表すなら、まさしく『拗ねている』だろう。そんな僕にようやく気付いたらしい君は本から視線を上げた。じっと僕を見つめると「どうしてそんなこときくの?」と首を傾げる。こちらの心の奥底を窺うような深い瞳に「別に、深い意味はないけど」…いつもの無表情で嘘をつく自分が小心者すぎていっそ呆れた。
 この世界のほとんどのものが嫌いな君が僕のことを好きでいてくれるのだから、それは多分、幸福なことなのに。僕は思ってしまっている。君の一番は誰なのか、それは僕じゃないのか、いや、僕がいい、なんて。
 僕が君に好きだ、愛してると伝えたとして、そんな僕が普通の人間のように見えたら、君はもう僕のことを見てくれなくなるかもしれない。そう考えたらとてもじゃないけど言えなかった。僕は君のことが好きなんだけど、だから僕だけ見てよ、なんて言えなかった。
 …馬鹿だな。僕は自分のことをそう評価した。
 ……本当に僕は馬鹿だな。溜息と一緒にその考えを投げ捨てて、君の膝から文庫本を取り上げた。ばさりと床に落として君のことを抱き締めると、やわらかい髪が首筋をくすぐった。食べてしまいたいと頭の中に言葉でないものが浮かぶ。
 食べてしまいたい、と細い首に唇を埋めた。取り上げられた文庫本に未練もないのか、くすくすと笑う君の声は不機嫌ではなかった。
 僕でない誰か。たとえば六道とかあの辺に同じことをされたとして、君は同じ声で笑うんだろうか。同じように好きだと告げるのだろうか。同じように抱かれるのだろうか。
「僕は六道が嫌いだ」
「知ってるよ」
「嫌いな奴と並べられたら、いい気分はしないだろ。それだけ」
 ふうん、と相槌のようなものを口にしただけで君はそれ以上何も言わなかった。
 僕がつけた跡以外にも誰かの痕跡が残っていそうな傷のある身体を抱き締めて唇を塞ぐ。君は拒まないで目を閉じる。
 自分が気に入った『好き』な誰かなら、同じように笑うんだろうか。僕に向ける笑顔と同じものを向けて、同じように、抱かれるのだろうか。
 世界のことが嫌いだと言う君。それでも僕のことは好きだと言う君。
 君は僕の暴力行為にも統治行為にも何も言わない。ただ普通でないことを喜ぶ。外れた道を喜ぶ。世界のカタチに逆らった者を喜ぶ。
 だから、誰でもいい。僕でもいいし、僕でなくてもいい。
 その事実を昔から知っていたのに、ずっと変わらない君のことが、最近苦しいと思うようになってきていた。
 その理由を自分なりに考えてみた結果、彼女の言う『好き』とはまた違う『好き』というものを抱いているからではないか、という結論に至った。
 彼女の好きがどういうものなのか、正確なところは僕にも分からない。けれど、自分のことは言える。
 僕が抱いてしまったこれは、多分だけど、恋とかその辺りのもの。愛とかその辺りのもの。今まで疎遠だった、人間らしいもの。
 彼女は逸脱したものを好む。世界の不条理なカタチをぶち壊すような、そんなものを好む。そういうものが好きだという。世界征服なんて阿呆なことを言う六道をきらきらした目で見るし、トンファーを振るって気に入らないものを壊す僕のことを肯定する。何よりも世界の不条理を、自分を殺すカタチを嫌う彼女は、それを遠ざけるために何でもする。わざわざ僕のあとをついてきたり六道に幻術をかけてもらったりだとか、本当、馬鹿みたいだけど、彼女はそれだけ今の世界のカタチを嫌っていた。
 だから、僕は言えない。彼女の好きな世界のカタチをぶち壊す僕が、世界にありふれた愛を抱いてしまったことなど、言えるはずもなかった。君を愛してしまっただなんて、言えるはずもなかった。

 …君の言う『好き』がだんだんと僕の上にのしかかり、僕自身を圧迫していく。
 君の言う『好き』と僕の思う『好き』は違う。たったそれだけの違いが決定的すぎて、僕をひどく苦しめている。
 だけど好きで。やっぱり愛しくて。そう思う度に、思い知る度に、胸が痛いんだ。
 その夜、眠ったままの君をベッドに残して部屋を抜け出した。
 抱いてる間君は僕のものだと満足していた意識が、終わってしまえば砂の城のように崩れ落ちて跡形もなくなり、また寂しくなっている。
 僕のことが好きかと訊いて、好きだよと言われて、じゃあ愛してくれてるのと訊いて、愛してるよと言われて、あんなに。あんなに。
 これじゃあ僕がただ慰めてほしくてを抱いてるようなものじゃないか。
 自分が腹立たしくて仕方なかったとき、群れて道を塞ぎながら自転車でたらたら走ってくる学生が目に入った。当たり前のように咬み殺した。一本道の河川敷沿いで自転車並行してる方が悪い。
 苛々しながら転がっている自転車を思い切り蹴飛ばしてやり、コンビニに行って適当なものを買って家に帰った。
 が眠っている部屋に戻れば、相変わらずベッドで寝息を立てていた。ビニール袋をがさがさ言わせても起きる気配がなくて、一つ息を吐いてベッドの端に腰かける。ぎしと軋んだ音がしても君は目を覚まさない。
 手を伸ばして顔にかかっている髪を緩く払えば、よく知っている君がそこにいる。
 君はこの世界が嫌いだ。自分を殺せとばかりに強要ばかりを強いて全てを奪うこの世界のカタチが嫌いだ。だから、それに逆らうものが好き。
 だから僕が好き。
 僕がこうでなければ、トンファーを手にしていなければ、並盛を支配していなければ、君は僕のことを好きだなんて思わなかったろう。
「……世界を。君の嫌う、世界のカタチを、僕が壊してあげる」
 ぽつりと口にしてから一度考えた。できるだろうか、と真面目に考えてみて、馬鹿らしくなってやめた。
 できるだろうかじゃない。やるんだ。
 君が笑ってくれるなら僕はなんだってする。
 だから、できる。僕が人を殺して君が笑うならそうするし、僕が君の願いを叶えたら、君は笑うはずだ。
 それがどんなに愚かしい考えでも構わない。君と世界の全てを秤にかけて君を選ぶ僕がどんなに愚かでも構わない。世間的に間違っているだとか道徳的に間違っているだとかそういうこともどうでもいい。この世界のカタチに君が泣くのなら、僕がそれを壊す。
 だから泣かないで。笑って。そのためなら僕は何度でも間違えるし何度でも壊してみせる。なんだってしてみせる。君が笑ってくれるなら。君が、愛してくれるなら。
「君を殺すもの。君を強要する全てを、僕が壊してあげる」
 眠り続ける君に口付けて、宣誓するように囁く。愛を囁くように言葉にする。
 言葉にすることで少しでも君へ近づけることを願いながら。
「だから、はそのままでいいんだ」
 ……だから、僕のこと、一番好きになって。言えない言葉を小さな声でこぼしてやわらかい髪を撫でて、ずっとこうしていられたらいいのになんて思いながら時間を無為に過ごした。
 かちん、と時計の針が震える音にふと時間を気にすれば、午前三時だった。が眠り続けているのも頷ける就寝時間帯だ。
 じゃあ僕も寝ようかと思ったときポケットで携帯が震えた。引っぱり出してフリップを弾く。報告書のような文面のメールを睨んではぁと一つ息を吐いて、彼女のために買ってきた夕飯とかおやつの入ったビニール袋をベッドに置いて部屋を出た。
 さっき咬み殺した学生集団が風紀委員に喧嘩を売りに来たらしい。売られたなら買ってやろう、仕方がないから。どうせ僕が勝つっていうのにね。
 家の外に出て、気分だったから歩くことにした。
 世界は夜に沈み、街灯以外の灯りがまばらになっている風景の中で空を見上げる。
「君のために、僕がこの世界を変えてあげる…」
 部屋で眠っているだろう君を思いながら手を伸ばせば、夜の星屑が掴めるような、そんな気がした。気がしただけで星を掴めるはずもなく、握った拳の中には何も残らなかったけれど。
 だから、僕は世界を変える。君の思うカタチになるまでぐちゃぐちゃにして、もとのカタチが分からなくなるまでめちゃくちゃにして、それから、君と一緒に作る。君が笑える世界を作る。君が笑って好きだと言える世界を作る。
 呼び出し場所まで行ってやれば、さっきの学生の群れプラスアルファが僕を待っていた。鉄パイプやらバットやらを各々手にしている群れに冷ややかな目を向けて一つ吐息する。やっぱり面倒くさいな。どうせ僕が咬み殺して終わりなのに。
 風紀委員がどこかに潜んでいるのだろうけど、後片付けに専念させるとしよう。
 折り畳みのトンファーを放ってキャッチする。じゃきんと展開したトンファーを手に、眠いなぁと思った。これがなければと一緒に寝ていたのにな。
 売られた喧嘩を買ってやりながら思っていた大半は、この世界をどう壊していこうかという六道の阿呆が考えるようなことだった。
 …今更ながらに、あいつがそんな阿呆なことばかり考えていた、その理由の一端を理解したような気がした。解りたくもないことだけど。