流転する

 よく人に心配性だと言われた。深く考えすぎじゃないかと。それは私自身自覚していることで、どうしてこんなにいらないことまで気にするのだろうと自分を反省したりするのだけど、この傾向は一向に改善される気配がない。
 そんな心配性の私だから、当然、喧嘩の多い雲雀恭弥という人のことも心配する。余計な心配などしなくたって大丈夫な人なんだと分かっていても、やっぱり気にかけてしまうのだ。
「雲雀さん、気をつけてくださいね。くれぐれも怪我のないように」
 返事のない彼の身の回りの世話を焼きながら、ハンカチティッシュその他忘れ物がないかどうかチェックする。今日も学ラン姿で登校する彼を見送って玄関先まで行き、バイクにキーを差し込む背中に声をかけた。
「お帰り、携帯で知らせてくださいね。ご飯あたためて待ってますから」
 やっぱり返事はなかった。無言でヘルメットを被った彼がバイクに跨り、「行ってらっしゃいませ」と頭を下げた私を一度も振り返ることなくエンジンを唸らせて車道に出て、行ってしまった。
 …なんてことのない、いつもの朝の風景。
 だから私はいつものように竹箒を手に取る。玄関先の掃き掃除をするために。
 最近はすっかり減ってしまった彼との会話の少なさを思いながら、朝陽に照らされた石畳を箒で掃く。特に汚れてもいない石畳にある枯葉の処理くらいしかすることはなかった。集めた枯葉を塵取りで回収して視線を上げれば、大きな和風のお屋敷に、朝陽に照らされる日本庭園がある。
 門前に出て、ざ、ざ、と規則的な作業を続けて朝の掃除を終えて家に入り、引き戸の玄関をからからと閉めた。
 ……頭の中にあったのは、あれこれと世話を焼く私を気だるげな瞳で見ていた、彼のことだった。
 ある冬の夜、袋小路となっているコンクリートに囲まれた場所で男に取り囲まれた女を見つけた。女と言ってもまだ成人していない、僕とそう変わらない年頃の相手だ。女一人を囲んだ男三人が何をしようとしていたのかなど言うまでもなく、僕は風紀の乱れの原因を速やかに排除、つまり咬み殺した。女は僕が三人を片付ける前も間も後もずっとぼんやりした顔でコンクリートの上に座り込んでいた。
 僕とそう変わらないくせに、その女はもう帰る家がないという。今にも雪が降り出しそうな極寒の夜なのに、行く当てもないと力なく笑う女はコンクリートの塀にもたれかかって、それっきり、もう僕の問いかけに答えることもなくなった。べちと頭を叩けば簡単にぐらりと傾いてコンクリートの地面に倒れそうになる。どうやら気を失っているらしいと女を片手で受け止めてから気付いた。
 このまま放っておくのなら、弱っている動物は簡単に死ぬのだろう。
 …どこか他の町だったなら。並盛でなかったなら放っておいた。ただ、そこはぎりぎり並盛町に属する場所だった。僕が女を担ぎ上げたのはただそれだけが理由だった。
 このままここで凍死されてももちろん困るし、帰る場所がないという女が生きていくために風紀を汚すような真似をされても困る。だから助けた。それだけだ。
 病院に連れていって適切な処置を受け、仕方がないから家に連れて帰った。
 翌日目を覚ました女の名前はといった。
 ぼんやりした顔の彼女に、僕は言った。

 行く場所がないのなら与えてあげるから、その代わり、僕が言うことを何でも聞いてもらう

 ……彼女は誠実だった。僕の言葉の通り僕に尽くした。押しつける家事も炊事も雑用もこなしていった。それは満足できる働きだったから、彼女を拾って帰ってきたことは間違いではなかったのかもな、と思った。
 ただ一点だけ、気に入らないところがある。
 彼女は些細な点まで気にしすぎるときがある。細かすぎるときがある。それが鬱陶しい、と思うことがある。
 という人間はああいう人なんだろうと分かっていても、あれこれ気にかけて勝手に気に病んで参ったり悩んだりしている彼女に苛立つときがある。
 僕の機嫌を窺ってこっちを見上げる姿が最近鬱陶しくて仕方がない。
 彼女は誠実だ。僕を裏切ることはないだろう。分かっている。彼女はそれなりに使える人材だ。文句の一つも漏らさず日々を過ごし、僕へと時間も労力もその他全てを捧げている。彼女はきっと僕に必要だ。分かっている。
 …それなのに。もうこの胸の苛立ちを抑えることができそうにない。
 それが分かってしまって、僕は細く息を吐いた。
 彼女は使える。そうやって自分を納得させてきた。でもそれももう限界らしい。
 ふいにポケットの携帯が震えた。取り出してフリップを弾けば、彼女からのメールだった。
 今晩のおかずは肉と魚どっちがいいかという内容のメールを見て、返信せず、パンと閉じた黒い筐体をポケットに捻じ込んだ。
 スーパーへ行って売り出しのお肉とお魚を見て、どっちがいいだろうと今晩のご飯についてのメールを送った。返ってこないメールに雲雀さんの安否を心配しながら、どちらをリクエストされても大丈夫なように両方買って帰宅。スーパーから今晩は何がいいですかとメールしてもう二時間。返信はまだない。
 どうしよう、と台所でメイン以外の夕ご飯の準備をする私。
 メールが返ってこない。携帯を見る暇がないくらい忙しいのだろうか。それとも、どこかに置きっぱなしとか。ぐるぐる考えながらきんぴらを作ってお味噌汁の準備をして、時計を振り返る。
 もう七時だ。それなのにメールは返ってこない。彼の身に何かあったのだろうか。ぐるぐるする頭で勇気を出して電話をかけてみても、コール音ばかりで、彼が出ることはなかった。
「雲雀さん…どうしたんだろう」
 私は途方に暮れる。これじゃあご飯の準備が進まない。お風呂を入れていいのかどうかも分からない。
 どうしようと思っていたとき、聞き慣れたバイクの音がした。慌てて玄関へ走っていって外へ出れば、ヘルメットを外した彼がバイクからキーを抜いたところだった。ほっとして「雲雀さん、ご無事で」と漏らすと彼が私を一瞥して、何も言わずに隣をすり抜けて家に入っていった。慌ててその背中を追いかける。
 私を見た切れ長の灰の瞳が気だるそうなことに、気付いていた。
「雲雀さん、携帯は手元にありましたか? 今晩のおかずはお肉とお魚どっちがいいでしょうかとメールをしたんですけど、返信がなくて、まだご飯の準備が」

 私の言葉を遮った彼が立ち止まる。私もつられて立ち止まる。そういえば今日彼の声を聞いたのは、これが初めてだ。
 彼が私を振り返る。私を見るその目は相変わらず気だるそうで、彼は無表情だったけれど、口を利くのも億劫だとその目が言っていた。
 だから私は想像していたし、予感もしていた。いつもいつも覚悟していた。
 冬の夜、帰る場所も行く場所もなくし、あとはただ死ぬのを待つばかりだった私を拾った雲雀恭弥という人。君に死なれたら並盛の風紀が乱れるから生かす、という理由で私をこの家に置くと言った彼。
 最初はたくさん聞いていた声が月日がたつごとに減り、無感情が常だった彼がいつからか気だるそうに私を一瞥するようになった。
 私がやるべき家事炊事雑事、その指示もなくなった。それは今まで通りやれば何も問題がないということだろうと受け止めて、私は日々を過ごしてきた。
 気付いていたのです。あなたが私を見る目が変わっていったことに。
 今そこにいるあなたが私に言おうとしている言葉も、本当はずっと、知っていたのです。
「僕に君は必要ない」
 きっぱりと、ばっさりと、彼は口にした。気だるそうに私を見ながら、言葉を投げかけるのも億劫だという目をしながら、無表情に告げる。「出て行って」と、きっぱり、ばっさりと。

 大丈夫。想像していた。予想していた。いつかは来る現実だと予感していた。
 大丈夫。私は大丈夫。
 人はいつか死ぬ。あの冬の夜に死んでいただろう私はこの人のおかげで少し生き長らえただけで、死は律儀に私を待っていた。誰にでも平等に襲い掛かるその獣は私という獲物を一度は見失ったけれど、再び私を捉え、舌なめずりをしてこちらを見ている。
 大丈夫。…大丈夫。
 だから私は笑った。涙なんて見苦しいものは見せない。せめて最後くらいは笑おう。最後くらいは彼の望む通りに、消えよう。

「今まで、ありがとうございました」
 だから深く頭を下げた。彼は何も言わない。それでよかった。きっともう私のことなんか見ていないだろう。きっと私以外のことを考えているに違いない。たとえば、私がいなくなった穴をどう埋めるのか、とか。
 家事や炊事のできる人なんてこの世界にたくさんいる。私でなくたってよかったのだ。彼は仕方なく私を拾って生かしただけで、私でなくたって、全然よかったのだ。
 与えられた部屋に戻り、少ない荷物をまとめて、私は雲雀家を出た。
 外はとても寒かった。肌が軋むような寒さに憶えがありすぎて、腕をさすりながら束の間のことを振り返ってみた。
 一年過ごした家はとても大きくて、掃除が大変だった。食事にはうるさい雲雀恭弥という人に合わせて色々試行錯誤を繰り返した調理も大変だった。喧嘩をして派手に制服を破ったりして帰ってきた彼の怪我の手当てをしたり、制服を縫ったり、それも大変だった。大きな日本庭園は定期的に庭師の人が来てくれるけれど、落ちてしまった葉や花を取り除いたり、お水をやったり、それは私の仕事だった。きれいな庭園に見合うだけのことをしようと私はいつも時間をかけすぎて、ときどき、他の仕事をすっぽかしたりしてしまって。
「やだなぁ」
 ごしごしと袖で目をこする。何度だってこすっているとそのうち目の辺りがヒリヒリしてきた。
 今まで生きてきた中で、一番、平凡で、忙しくて、一日一日が過ぎるのがあっという間の一年だった。
 行く当てもない私はふらりふらりと夜の町を歩き回り、気付けば、一年前に彼と出会った場所に来ていた。
 死ぬのなら。並盛では駄目だ。彼のこだわる風紀というものが乱れるから。だから私は並盛を出なくてはいけない。それがせめて、私を拾って置いてくれた彼への最後の恩返し。
 …だっていうのに、私は袋小路のコンクリートの塀しかない場所に膝をついて泣いてしまっている。
 一年なんて、人を好きになるには、十分すぎる時間だった。
「ひばりさん」
 ぐす、と鼻を鳴らして膝を抱えて泣く。
 一度でいいからあの人の笑った顔を見てみたかったな、なんて。もうどうやっても叶わない、ただの願い事だ。