流転する

 一日がたった。僕が彼女を追い出した夜から丸一日。
 今日の朝は静かだった。あれこれ世話を焼く声がなかったから。行ってらっしゃいと僕を見送る姿がなかったから。その代わり朝食はあたたかいものなんてなかったし、風紀を正してたときに受けた傷をハンカチで縛ろうかと思ったらポケットに入ってないことに気付いたりした。いつも彼女がうるさく言うから仕方なく持っていたものだったのに、この一年で、すっかり慣れていたらしい。
 携帯を机に放置して、書類仕事を片付ける。携帯が鳴ればまず相手が誰かを確認していた。
 部下からの電話に応じながら、僕はわだかまりを覚える。着信が誰のものかなんて、どうして僕は気にしているのか。
 彼女は携帯を置いていった。ありがとうございましたと電源を切って置いていった。だから絶対に、二度と、あの鬱陶しい催促が繰り返されることはないのだ。
 すっきりした。そのはずだ。
 いちいち今日の売り出し品のこととかご飯のおかずのこととか僕に訊かなくたって自分で決めていいんだ。荷物を受け取ったことなんてメールしてこなくていい。細かいところまで、本当に僕に尽くして、あの女は馬鹿だ。本当に馬鹿だ。そんな馬鹿は、僕にはいらない。
 いつもより気だるい身体で帰宅しても、家に灯りはなく、誰の気配もなく、あたたかい食事なんて待っているはずもなかった。
 お帰りなさいという声も、笑った顔も、なかった。
「……なんだよ。自分で、追い出しておいて」
 ピシャンといささか乱暴に玄関の扉を閉める。
 僕が脱ぎ散らかした靴を揃える手もなければ、足を向けた先の居間には誰の姿もなく、夕食の香りもしない。
 雲雀さん、と僕を呼ぶ声はしない。
 冷蔵庫を開け放てば、昨日言っていた肉と魚のパックがあった。それから手をつけていない昨日の夕食。
 スイッチの切ってある炊飯器から昨日のご飯、鍋から昨日のきんぴらを、あたためないままに昨日の味噌汁も並べた。あたためるという作業すら面倒でしかなく、冷えたご飯を口にして思った。僕は何がしたかったのだろう、と。

 彼女が疎ましいと感じるときがあった。全面的にではない。彼女はよくやってくれていた。ただ、おせっかいな部分が目につくことが多くなって、それが僕の苛立ちとなっていたから。それが嫌で、面倒くさくて、もういいよと彼女のことを突き放した。
 並盛で死なれたら風紀が乱れるからという理由で持ち帰った女が、全く使えないようなら、咬み殺すしかないなと思っていた。
 でも彼女は使えた。それは僕にとって有益な誤算だった。
 僕の言うことに何でも頷いて必要以上の心を割く誠実すぎる姿が、いつからかイラついて、嫌いになって、そして多分、どこかで好ましいとも感じていた。
 ただ嫌いだったならとっくの昔に捨てていた。
 僕はもともと誰かと一緒にいて安らぎのようなものを覚える人間じゃない。一人が気楽だし、一人が好きだ。気に入らない奴なら咬み殺す、それだけ。拾ってきた女にだってそれは当てはまる。使えないようなら咬み殺すし気に入らない人間だったならやっぱり咬み殺す。ただ嫌いだったなら、僕はとっくに彼女を咬み殺している。
 嫌いだけじゃなかった。彼女に苛立ちを覚えていたのは事実だ。疎ましいと思うことも何度だってあった。小言がうるさいと思うことも何度だって。
 彼女の作る食事のあたたかさに慣れて、行ってらっしゃいとお帰りなさいの声に慣れて、笑顔に慣れて、僕を心配する彼女のことを疎ましいと思い、胸に苛立ちを抱えながら、僕は彼女を好ましく思っていた。
 この矛盾した気持ちは一体なんだろう。
 僕は今日何度、追い出した彼女のことを考えた?
 がちゃん、と箸を食卓に叩きつけた。顔を上げてもこの家には僕以外の誰かはなく、静かで、世界は死んでいた。
 今までが特別騒がしかっただけ。が住むようになってからこの家がそれらしく機能していただけで、彼女をなくせば、他に誰もいないこの家はまた死んだように眠るだけ。
 席を立って玄関に向かう。黒いコートを羽織って、冷たい食事をそのままに家を出た。
 外は夜の帳に落ちていた。バイクのキーを探してポケットに手を突っ込んで、見上げた先の月が丸かった。それに、とても寒い。吐く息は白く濁り、冷たい空気は皮膚を刺すような冷たさを持っている。いつ雪がちらついてもおかしくはない気温。
 まるで一年前と同じだ。
 …だから、僕が行く先も、一年前と、同じだ。
 私は大馬鹿者で、結局あの袋小路から少し離れた場所にしか行けなかった。そこはぎりぎり並盛町ではない隣の町で、彼と出会った場所をぼんやり眺めながら、私は時間を浪費していた。
 とても寒い。コートなんて羽織っていない私は真冬の寒さにすっかり震えて、震えすぎて、もうどこへ行く力も残っていなかった。
 ここでもいいかな。こんなかっこ悪い死に方でも、並盛でなければ、きっと雲雀さんも気にしない。気にならない。もう少しでも離れた方がよかったのかもしれないけど、最後くらい、あなたといた場所を眺めていたかった。
 重いと感じる瞼で瞬きをする。眠いのかもしれない。昨日は結局泣き明かして夜を過ごしてしまったから。
 袋小路を眺めていた視線をふと上げれば、月が丸くて、夜の澄んだ空気の空に金色のお月様が浮かんでいた。
 ……まるで、一年前と同じよう。
 それが皮肉でしかなくて、小さく笑う。
「……はぁ」
 細く、溜息を吐くように息を吐いて、目を閉じる。
 ぼんやりしていると、聞いたことのあるバイクの音が聞こえた気がした。きっと気のせいだと、私は膝を抱えたまま夜の中で蹲っている。
 バイクの音が止まって、足音が聞こえて、それすら気のせいだと思った。
 そうでないと顔を上げてしまう。もしかしたら、なんて都合のいい考えで期待してしまう。
 足音が止まる。すぐ近くで。
 それでも顔は上げない。コンクリートの壁に背中を預けて蹲ったまま、私は顔を上げない。
「ねぇ」
 だけど、声を聞いたら。その声を聞いたら、のろのろとした動きで、顔を上げてしまった。
 眩しい月を背負って誰かが立っている。バイクの音と足音、そしてその声で、相手が誰かなんて分かっていた。月を背負っているせいで表情はよく見えないけれど、間違いなく、雲雀恭弥その人だ。
「そこで死なれると困るんだけど」
 淡々とした声とこっちを見下ろすその顔を見上げて、私は一度息を吸って吐いて、言ってみた。「ここは、ぎりぎり、並盛町ではないはずですけど」と。
 彼は私の二メートル先に立っている。コートのポケットに手を突っ込んでこちらを見下ろしている。多分彼が立っているところが並盛と隣町の境界線だ。だからここは並盛じゃないはず、なんて考える私に彼は言った。
「こんな境界線のある場所で死ぬくらいなら、もっと遠くへ行けばよかったんだ」
 …それもそうなのかな、とぼんやり思う。境界線付近だといざこざとか押し付け合いとかが起こったりするのかもしれない。ああ、そこまで考えていなかった。浅薄だ、私。
(でも、最後に、あなたに会った場所を見て逝きたかったのです。それだけできっとしあわせに逝けたはずだから)
 彼はそこからこちらへは来なかった。見えない壁があるように立ち止まって私をただ見つめている。
 寒い、凍えるような時間が通り過ぎて、私は俯いて膝頭に顔を埋めた。
 彼はきっとチェックメイトしに来たのだ。私にもっと遠くで死ねと言いに来た。僕の迷惑のかからない場所で死ねと、最後通告をしに来た。それだけなのだ。
 …それなのに、彼の姿を見て、その声を聞いて、嬉しくなった。私は馬鹿だ。

 催促する彼の声がする。
 私はもう顔も上げられず、すっかり縮こまって固まった身体で、彼の言葉を聞くしかない。
「僕が立っているところまで来たら、並盛だ。ここまで来るなら、僕はまた君を拾う」
「…え?」
 掠れた声が漏れた。のろりとした動作で顔を上げる。彼は私から顔を背けていて、不服そうに眉根を寄せて明後日の方を睨みつけていた。
 今、彼は、なんて言ったろう。聞こえた言葉は私の幻聴だろうか。
「もう一度だけ言うよ。ここまで来たら。この手を取れたら、僕は君を連れて帰る」
 宣誓するような言葉が降ってきて、それと一緒にぶっきらぼうに差し出された手が一つ。私は穴が開くくらいその手を見つめて、強張ってがちがちになっている身体でなんとか膝を伸ばした。普通に立って歩く自信がなくて、冷たいコンクリートに手をついて四つん這いで進もうと試みると、力の入らない腕が折れてみっともなく転んだ。痛かった。涙目になりながらずりと腕を這わせ、手をつく。冷たくてかじかんで感覚のなくなった手で、コンクリートの地面を這って、みっともないと知りながら這いつくばって進んだ。
 私が転んだ辺りから彼がこちらを見ていて、相変わらずの無表情で、醜態を晒す私を黙って見つめていた。
 あと少し、というところでまた腕が折れて転んだ。痛い。
 はぁ、と溜息のようなものが降ってきて、痛み以外の色々なものが自分の内に溢れて、涙がこぼれた。
「…世話が焼ける。本当に」
 ぼやく声のあとに、差し出されているだけだった手が伸ばされて私の腕を掴んで引っぱり上げた。ずるずる引きずられるようにしながら私は並盛町へと入り、ずるずる引きずられて、そのまま彼の腕に抱かれた。
 視界がぼやけている。黒い色で。彼の着ているコートの色だ。
「ひ、ばり、さ」
「君の小言がなかったから、今日はハンカチを忘れたんだ。いると思ったときにないのは困るものだね。それから、冷めたご飯は嫌いだ。おいしくない。お風呂の用意もされてないからシャワーで済ませたんだけど、やっぱりお湯に浸かりたい。…ねぇ、僕が言ってること分かる」
 冷たい声は淡々としていて、およそいつも通り。だけど話していることは私のことだ。少なくとも、そのどこかしらに私はいた。
 私は何度も頷いて彼の言葉を首肯した。彼はそんな私に吐息して、不器用な手つきで、私の頭を撫でた。
「僕は君のことを好ましいと思ってる。だけどどこかでイラついて、嫌いだとも思ってる。…矛盾してる。そういう自分が鬱陶しい」
 でも、君がいないと、ご飯がおいしくないし、家が機能しない。
 だから僕は君を連れて帰る、とこぼして彼は私をバイクに乗せた。
 …十分だった。私にはその言葉だけで十分だった。十分、彼に自分を捧げると決めることができた。そのための努力を惜しまないと誓うことができた。
 今まで以上に身を粉にしていこう。彼が不愉快にならないようにベストを尽くそう。
 こんな私のことを好ましいと言ってくれたあなたのために、私にできることは、きっとたくさんある。