ああ、ほら、そんなとこにいるとまたダメになるよ

 そんな言葉とともに右手首を握られ、手を引かれた。光が眩しくて目を細める。この声をよく知っているはずなのに、誰だったろうかと考える。光は僕の目の前から僕の目を焼くように射しているから、僕の手を引いている誰かの姿を確認することはできなかった。
 ただ唯一、僕の手首を握る手がほっそりとしていて、光の色にとけてしまいそうなほどに白いことだけが印象的だった。

 せっかくあっち側に返してあげたのに、またこっちに来ちゃって。ダメね恭弥

 恭弥、という響きに、心臓が疼くのを感じた。僕の全身から力が抜けていくのが分かる。
 懐かしい響きだ。恭弥なんて、一体いつ誰に呼ばれたんだったか思い出せないけれど、とても懐かしい響き。
 君は誰、という言葉を、僕は言えずにいる。

 これでもう三度目。二度あることは三度あるっていうけど、その度に助けてるあたしの気持ちにもなってよ

 くすくすと含み笑いをするような、ころころと鈴の鳴るようなその声に。僕の意識がどこか薄れ、けれどどこかでより色濃くこの声の主の記憶を捜し求めた。
 僕は肩越しに光の射す方向とは反対、つまり背後を振り返る。そこはただぽっかりと暗く、僕の影はその暗さに半分くらい呑まれていた。僕の手を引く誰かが歩む度にその影から僕は抜け出していく。ゆっくりゆっくりと、気付かれないように、逃げるように。
 僕は光の方向に顔を向けた。相変わらず眩しすぎて、目を開けていられないほどの光を浴びて、僕の手を引く誰かがいる。細い手からは体温は感じられない。ただどこか懐かしい、とだけ。

 ねぇ恭弥。もうこっちに来ないでね。あなたは生きるの。あたしのことは心配しなくていいから。だから

 静かな声が響いた。僕は思い出せない誰かに掴まれている手首をじっと見つめ、「君は」と呟いた。その誰かはこっちを振り返ったようだ。僅かに揺れる、茶色い髪が見えた。
「君は、どうして、僕を心配する」
 そう言ったらその誰かは微かに笑ったようだった。

 いいのよ。あたしのことは、忘れてくれれば

 響く声に少しだけかなしさのようなものがまざる。僕は光に負けじと前を向いてその誰かを見つめた。僕からはやっぱり顔が見えないし姿も見えない。光にとけて、消えて。

 恭弥

 その誰かのもう片方の手が僕の頬を撫でた。それから影ができて、僕はその誰かに口付けられた。それでようやく光にとけていた誰かの顔が判別できて、僕は目を見開いた。
…」
 ふっと意識が浮上し、瞼を押し上げた。ぼんやりとした意識のまま視線をめぐらせて、そこが並盛中央病院で、自分が個室にいてそしてまだ生きているんだということが分かった。
(ああまた…死ねなかったのか、僕は)
 目を閉じて、息を吐き出す。からだのあちこちが痛いのにそれでもまだ生きていた。腕を持ち上げて自分の目に蓋をするようにのせる。
 自分がまだ生きている、そのことに絶望していた。
 何度も何度も死のうとしてきた。それなのにその度に彼女は僕を助ける。絶対に死んでやると思って無茶な戦いをして大怪我を負ったり瀕死状態になったりしてみたのに、それでも彼女はしつこく僕を助けた。
 気付けば、僕は決まってあの光の道を彼女に導かれて歩いている。影に、死の影にさよならをしながら。
「……僕は死にたいんだよ。
 こぼしても、答えはない。当然だ。だって彼女は死んだ。
 だから、僕もそっちへ行こうとしているのに。彼女はそれをダメだと言って僕を現実に連れ戻す。しつこいくらいに何度でも。
「死なせてよ……
 君のもとへ行きたいんだ。たとえ君に馬鹿だって言われようが、泣かれようが。僕が耐えられないんだよ。君の努力を踏み躙る行為になるのかもしれない。だけどね、僕はもう限界なんだ。
(……今度は絶対に死ぬから)
 暗い希望を持って、僕は腕に突き刺さっている点滴を引き抜いた。それからからだ中にぺたぺたと貼ってあるよく分からないコードやらを引き千切る。ぴーと側にある機械からうるさい音が出て、トンファーで潰してやろうと思ってから手元にないことに気付いた。誰かが取り上げたのだ。僕が何をするか分からないからと。
 舌打ちしてベッドから這い出て、足をついて立ち上がった途端にからだがいう事を利かず座り込んでしまった。「くそ」と毒づいて前のめりに体重をやり、転ぶように足を踏み出して窓にだんと手をつく。それだけでからだは悲鳴を上げていた。ぴーと機械の音がうるさい。
「今…行くから。今度、こそ」
 がらりと窓を開ける。トンファーを取り上げて僕が暴れないとでも思ったのだろうかこの病院は。トンファーがなければ僕が何もできないとでも。
 甘い、と思いながら窓の外を見た。最後の眺めが朝焼けというのも酷なものだ。彼女は光のある方に導いてくれたのに、今僕はその光に向かって落ちようとしている。
 ごめんね、僕は君がいないとダメな男なんだよ。ぴーとうるさい機械の音を背景に、僕は窓枠に手をかけた。乗り越えるだけの力は残っていた。ここを乗り越えれば一瞬だ。一瞬で僕は地に落ちて死ぬだろう。このからだはもう死んでいる。僕の心が死んでいるのだから、もう仕方ない。
 何階分の高さか分からないところから、僕は朝陽に目を細めた。
 彼女が導いてくれた世界。だけど君がいないのなら、僕はこの世界に用はない。
「さよなら」
 短い別れの言葉とともに、僕は窓枠を乗り越えた。からだが宙に投げ出され一瞬の浮遊感のあとすぐに風を切って落下を始める。
 僕は最後まで朝陽を見ていた。僕のからだがついに地上に到達し、意識がぶつりと途切れるそのときまで。

だから僕はいく