ぱん、と頬を張られた。思っていたよりもずっと強い力で。
 いつもより強い平手打ちに耐えられなかった身体が傾ぎ、わたしは簡単に畳の部屋に転がった。ただの床板よりも畳の方が擦ったりしたときに痛いと知ったのはもう随分と昔のことだ。

「外出するなと、言ったはずだけど」

 温度がないどころか氷のように冷たい言葉が降ってきて、わたしが起き上がる前に、ぬっと伸びた手がわたしの襟首を掴んで引きずり起こした。まだ頭や身体をぶつけた衝撃でくらくらしているわたしはとっさの返事ができない。氷のように冷たい瞳が射殺すようにこっちを睨んでいるのに。
 一つ大きく呼吸をし、ようやく言えた言葉は「ごめんなさい」だった。自分でも消え入りそうな声での謝罪の言葉だった。
 彼はそんなわたしを睨みつける。「聞こえない」と、聞こえているくせにもう一度言えと言う。襟首を締め上げる手に急かされるようにわたしは言う。「ごめんなさい、雲雀さん」と、彼に謝る。
 …彼はさながらわたしの支配者だ。
 ここは彼の城で、わたしはそこに囲われる女。現実としてはただそれだけの、ひどく簡単な図式。
 ごめんなさい、と掠れる声で謝ることを続けていると、彼はようやくわたしから手を離した。ぺたんと座り込んでわたしは力なく頭を垂れる。彼はそんなわたしを見下ろしている。氷のように冷たい、人の温度のない目で。

「明日一日、部屋で謹慎。よく反省するんだね」
「…はい」

 頭を垂れたまま彼の言葉を肯定する。そしてやっと彼は部屋を出て行った。
 残されたわたしはしばらく頭を垂れたままの姿勢でいて、やがて脱力して畳の床に転がった。
 …ほんの少し。誰もいないようだったから、玄関に行って外を覗いて。ほんの少し、敷地を出て歩いただけだ。誰にもわたしがわたしと分からないようにマスクと眼鏡をして、帽子をしっかり被って、靴から頭のてっぺんまで変装した。出ていたのはほんの十分程度だ。ただそれだけ、だったのにな。
 彼の言う謹慎というのは、明日一日食事は与えられないし部屋から出ることも許されないということだ。その罰をすでに何度も受けているわたしは知っている。一日空腹を耐え続ける、それだけのために過ごす時間が、どれほどまでに長いのかを。
 わたしが悪い。決して屋敷から出てはいけないという彼の言いつけを破った。破ると分かっていて外へ出た。恋しさの思いに任せて踏み出してしまった。
 これは罰だ。仕方ない。仕方ないのだ。自業自得なのだ。
 そう言い聞かせても、涙はこぼれていく。冬の冷たい温度に研ぎ澄まされた肌に涙のあたたかさはやけに沁みていく。すぐに冷たくなるのに、こぼれた瞬間は熱いと感じる涙は、視界が滲むほどにわたしの中から溢れている。
 雲雀恭弥なんて人、わたしは大嫌いだった。
 わたしの自由を奪った人。勝手にわたしを現実から切り離しここへと繋いだ人。見目は麗しい人。
 だけどその心はとても凶暴で、残忍で、人でないように冷たい。 
 一日謹慎だという言葉を受けて部屋で大人しくしていると、お昼頃になって彼がやって来た。謹慎だと言った後日に彼が部屋を訪ねてくるのは初めてだったので、ぼんやりしていたわたしは少し驚いた。
 彼は仕事着のスーツではなくて家着の着物を着ていた。真っ黒い格好をするその人は着物も黒い。その手に似合わないコンビニの袋をぶら下げて、「いらないからあげる」とこっちに放ってきた。キャッチしてがさがさいう袋を覗いてみると、中には菓子パンが入っていた。朝から水しか口にしていないわたしにはご馳走だ。
 畳の部屋に上がった彼が黙ってわたしの隣に座るので、わたしは視線で彼を窺った。食べてもいいのだろうか、と。答えを待ってみたけれど返事はなく、恐る恐る手を合わせて「いただきます」とこぼす。彼は何も言わない。ただ、いつもより眉間に皺を寄せて何もない壁の方を睨んでいるだけ。
 メロンパンなんてどのくらい久しぶりに食べたろうか。変わらない味と食感についつい夢中になって、食べ終えた頃にはっとした。食べ始めた頃は彼の目を気にしていたのに、わたしを観察するようなその視線にたった今気付いたのだ。
 もしこれが食べてはいけないものだったなら、また平手打ちだ。ごくんと唾を飲み込んだとき、彼が口を開いた。「それおいしい?」と。何度か瞬きしたわたしはこくんと一つ頷く。「おいしいです」と。彼は閉口してから視線を逸らし「そう」と漏らして黙った。なので、わたしも黙った。水差しからコップへ水を汲み、パンで満たされたお腹に水分を補給する。
 …珍しいこともあるものだ。自分からわたしに謹慎を伝えておきながら、それを破るようなことをするなんて。

「ねぇ」
「はい」
「眠いんだ」
「はい」
「膝貸して」

 はい、以外に言える言葉のないわたしは彼の唐突な言葉も肯定する。
 着物の足を膝枕がしやすいように崩せば、彼が腿に頭を乗せる。木の葉の音一つでも眠りから覚めるという彼のことだから、わたしは、身動ぎ一つ許されないのだろう。足は痺れるだろうし静かに呼吸するのだって大変だ。憂鬱になりかける心で彼の横顔を見下ろして、いつもとは逆だな、ということにふと気付いた。わたしはいつでも上から見下ろされる立場だった。
 …遠くで見ても近くで見ても、彼は整っていた。全てが。それなのにその心はその分だけとても歪だ。表に出ているきれいな分だけ歪んでいる。わたしはそれを知っている。

「……頭」
「はい」
「髪、でもいい。撫でて」

 ぼそっとした呟きにはいと返して手を伸ばす。触れる機会なんてそうそうないだろう黒い髪に指を触れさせ、言われるままに撫でる。煩わしくない程度に。撫でているのだ、と伝わる程度に。
 細く息を吐いた彼が目を閉じる。
 ……そうしていると子供のようだなんて、どうして思ったのか。
 ああ、でも、彼は子供なのかもしれない。雲雀恭弥という人はいつまでたっても子供のままなのかもしれない。身体だけが成長して、心は少しも成長していないのかもしれない。なんのしがらみにも捉われず唯我独尊の道を進み、思い通りにならないことを力で押し通す彼は、質の悪い子供なのかもしれない。
 それなら彼はいつか大人になるのだろうか、と考える。眠っているのか目を閉じているだけなのか分からない彼の髪を撫でながら、大人になった雲雀恭弥という人を想像してみる。
(…うまく、いかないな)
 それも当然か。だって彼はわたしを囲い、わたしを縛り、わたしを支配している。その人がわたしを解放するところを想像なんてできない。これだけわたしを囲う彼がわたしを解放するときがくるとしたら、それはきっと、何かがよくない。これだけ徹底してわたしを囲っているのだ。解放するときもきっと徹底している。その想像をするのは少し怖い。
 怖いことを考えるのはやめにした。いくら考えたってわたしにはそんな日はこない。そう思った。
 きれいな髪を撫でているとやがて頬に辿りついて、少しだけ、その肌に指の腹を当ててみた。
 やっぱり彼は人だった。生きている人の心地がした。温度があった。あんなに冷たい眼差しを持つ人なのに、人の皮を被った怪物ではないのだ。大人になれない、質の悪い子供なのだ。人間なのだ。それが分かって複雑な心地になり、わたしは彼の肌から指を離した。