家に帰ると必ず僕を待っている女がいる。
 …いや、この言い方はきっと正しくないのだろう。僕がそう思っているだけで、彼女はきっと僕のことなど待ってはいないから。
 僕が囲っている女は雲雀の敷地内から一歩も外へ出ることを許していない。けれど、外の世界を知っている彼女は外に焦がれている。僕はそれを知っていた。そのくせ家を空け、誰もいない状態にし、彼女が外に出た頃を見計らって屋敷へ戻り、許可なく外出した彼女を詰る。その頬を平手で打ち、彼女のことを責め立てる。僕に抗うということを忘れた彼女は僕の気が治まるようにと僕の言葉を全面的に受け止め、受け入れ、肯定し、諦めた顔でうなだれる。言いつけを破った自分が悪いのだ、と諦める。
 僕がどんな理不尽を強いているのか忘れたわけではないだろう。けれど、この屋敷にいる限りここは僕の城で、僕の手の届く場所にいる限り僕は彼女の支配者だ。彼女は愚かな女ではないので、支配者の僕に逆らわない。賢い女なのだ。どうすれば僕が怒りを静めるか、どうすれば僕の気がすむのかをよく知っている。最も、それを教え込んだのも僕なわけだけど。
 ふっと意識が戻って視線をずらす。枕の感触は硬く、無機質で、物足りなさを感じた。昨日彼女に膝枕なんてさせたせいだ。ぬくい温度とやわらかい感触がまだ肌をくすぐっている。
「……クリスマス…」
 掠れた声で呟いた、自分の口には到底似合わない単語のことを考える。
 クリスマス。街がその言葉で浮かれ騒ぎはしゃぐ頃も、年越しで神社へお参りに行く頃も、桜の舞う春も、湿気で空気が鬱陶しくなる梅雨も、うだる暑さの夏も、短くなった秋も、彼女は全てここで過ごす。この屋敷の中だけで。僕の身勝手につき合わされて今までずっと、もう何年もそうやって生きてきた。
 クリスマス。それがいい節目だと思った。
 その日にこの関係を終わりにしようと、もう随分前から計画していた。計画というほど大げさなものなんて何もいらないのだけど、一つ、冷たい鉄の塊が手に入れば、それで準備は終わり。あとはその日にプレゼントだと言ってあげるだけ。
 のろりとした動作で起き上がる。着物の裾を引きずりながら起きて、ずるずる引きずりながら廊下に出た。
 謹慎は昨日一日。だから今日は彼女の作ったご飯が食べられる。
 遅い動きで台所に顔を出すと、エプロンをつけた彼女の姿があった。僕に気付くと浅く会釈して「お早うございます」と言う。「お早う」と返して席についた。なんだかダルい。着物を直す手つきも遅い。ダルいな。枕が硬かったせいで眠れなかったんだろうか。毎日あれで寝てるのに。昨日、彼女の膝を借りて少し眠ったくらいで、その感触が忘れられないだなんて。
「今日はけんちん汁と麦ご飯です。お魚、昨日が賞味期限で…調理、できなかったので」
「そう」
 汁物とご飯に漬物、という寂しい食事ではあったけど、彼女と向かい合って食事を摂ることができれば、腹に入るのはなんだってよかった。
 今日はクリスマスの前日だ。だから、夜の十二時をまたげばそこでクリスマス当日になる。
 部屋の机の引き出しに放り込んである鉄の塊を思った。思い浮かべながら食事を摂り、終えて、気紛れに片付けを手伝うことにした。彼女はひどく驚いた顔をしていたけど、僕の言葉を否定することはしない。少し戸惑ったような顔の彼女と二人分の少ない食器を洗い、拭いて、戸棚にしまった。
 それから着替えるのも面倒なので着物のまま出かけた。もちろん彼女は屋敷で留守番だ。
 クリスマスっていうのはケーキを食べる日らしい。あちこちでクリスマスケーキとやらを見かける。華やかな空気も装飾できらきらと飾っている場所も僕には興味の対象にならず、下駄を引きずりながらデパートの地下へ行って一番高いケーキを選んだ。ケーキのおいしさの基準なんて僕には分からない。
 ケーキを買って箱をぶら下げて帰る途中、群れてる人間が多くて咬み殺そうかと何度か考えた。
 手を繋いで歩く男女。歩きにくいだろうと思うくらいお互いに引っついて歩く男女。邪魔だなぁと考えて手を伸ばした袖が着物で、トンファーを携帯していないことに今更気付いた。
(……まぁいいか。面倒くさい)
 僕には関係ない聖なる日。ただ、今日だけはその名前を借りるけれど。
 寒さにも暑さにも強い僕は大して寒い顔も見せずに帰宅した。彼女は僕が薄着のまま出かけたのを見送ったので、半纏を用意して僕を出迎え、ケーキの箱を見ると今日二回目の驚いた顔をしてみせた。思わずその手から半纏が落ちるくらいには、驚いたらしい。
「それは、ケーキ…ですか?」
「それ以外に見えるの」
「いえ、見えません。ケーキの箱です。クリスマスケーキです…」
 どこかきらきらしている目で箱を見つめる彼女に一つ吐息し、ずいと差し出した。「夜に食べよう。冷やしておいて」と言えば彼女はぱっと明るい顔をして「はいっ」と箱を抱えて速足で台所の方へと消えていく。
 手を伸ばして半纏を掴んで羽織った。こたつにでも入れていたのだろう、半纏はぬくい温度で僕を包んだ。
 彼女が僕の支配化にあるという現実がもたらすのは、酔いしれるような幸福感。陶酔感。
 彼女の全てが、何でも思い通りになる。
 それは喧嘩で相手を打ち負かすこととはまるで別種の昂揚感。
 ここが僕の城である限り、ここでは僕が絶対のルール。ルールに逆らうのなら罰を与えるし、僕に背くのなら、相応の仕置きをする。
 彼女はすっかり僕に抗うことを諦めた。そうやって生きていくしかないのだと絶望している。あの目はそういう目だ。知っている。ああいう目をさせてしまったのは僕なのだから。
 僕が彼女の自由を奪った。僕が彼女の笑顔を奪った。代わりに与えたものはただの絶望。ただの悲しみ。ただの苦しみ。ただの寂しさ。
 まるで、物語の中にいるように、何もかもが上手く伝わらず、上手くいかず、そのままずるずると引きずってきたこれまでの日々。
 僕にとっては淡い希望で、淡い幸せで、甘い時間。けれど彼女にとっては絶望で、孤独で、苦しくて寂しくて悲しかった時間。

 僕が与えた絶望。僕が奪った希望。
 だからね。君に与えたその絶望から、解放するのも僕の役目だ。
 君から奪った希望を、その手に返してあげる。
 夜、彼女の部屋でケーキを食べた。ホールのケーキを適当に切り分けて二人でフォークでつつく。紅茶をすすって甘いと胸中でこぼし、袖の中に手を入れた。そこに入っている冷たく重いものを指でなぞる。
 とても幸せそうな。そういう顔でケーキの二切れめにフォークを入れた彼女を眺めて、口を開く。
「僕は身勝手な人間だから、君の幸せより自分の幸せを優先した。だから君は望まずここに縛りつけられている」
 唐突すぎる話に彼女はフォークを口に入れたまま何度も瞬きを繰り返して僕を見つめた。僕もその瞳を見つめ返した。誰かの目を見ていたいと思ったことはなかったのだけど、君の目なら、いつまでだって見ていたかった。
 君が僕しか見ないようにと君をここへ閉じ込めた。
 君が僕だけと話をするようにと君をここへ閉じ込めた。
 君の中が僕だけになるようにと、君をここへ閉じ込めたのだ。
「僕はね、生きている限り、きっとこれを続ける。君に理不尽を強いて、ここに閉じ込め、囲い、病気になっても、老いても、ずっとそばに置く」
「……………」
 彼女は口から離したフォークをケーキに刺した。肯定も否定もない沈黙は、絶望一色というふうに感じた。
 袖の中に隠していた鉄の塊を握り締め、引き抜く。冷たくて案外と重い、普段は使わないものを。
 口か、喉か、どちらかが異様に渇いている。ケーキなんて普段食べないものを食べたせいだろうか。それにしたって渇いている。渇いているせいで上手く出せない声で言う。
「でも、君は望まないでしょう。そんな未来」
 彼女は何も言わない。俯いて切り分けたケーキを口に運んだ。肯定も否定もない沈黙は、すでに何もかもを諦めていた。
 君が笑うことを知っている。外の世界で笑っていた君を知っている。
 ありふれたものに囲まれ、ありふれた笑顔を浮かべて、ありふれた場所で笑っていた。君は普通の人だった。
 僕が君を切り取った。世界から引き離した。僕の身勝手な想い故に。
「だから。僕から君へプレゼントだ」
 顔を上げて、と囁くと彼女は恐る恐る僕を見上げ、そして目を見開いた。その手からするりとフォークが抜け落ちて畳の上に転がる。
 自分の頭に押し当てた銃口。引き金にかけた人差し指。弾は装済み。安全装置も解除済み。
 渇いている喉とは裏腹に、目が、なんだか濡れている。視界が濁っている。熱い気がする。それはなぜだろう。
 いつだっていつまでだって見ていたい君の顔が歪んで見えるのはどうして。
 彼女が何か言おうとする。その口を掌で塞ぐ。必死に抵抗する彼女を畳の床に押し倒し、力で女が男に敵うはずがないだろうと笑いながら、引き金にかけた指に力を込めて。
 必死に抵抗して僕の手を掴む彼女の力を、体温を、どうしてか涙をこぼすその瞳を見ながら僕は。

「君に、僕のいないこれからを、あげる」

パン