並盛町に暮らしている人で、雲雀恭弥を知らない人はいない。彼という人はそれくらい裏からも表からも並盛という町を仕切っていて、支配していて、そのルールに逆らった者は容赦なく咬み殺される。 咬み殺す、というのが彼の口癖らしい。 わたし達とそう変わらない年齢であると噂のその人は、鈍い銀色に輝くトンファーなる武器を持って、他を上回る圧倒的な強さで他者を制圧する。 ついこの間は隣町からこの並盛まで支配を広げようとしていた、名前を忘れてしまったけど、不良の集団がいて、その集団を一人で撃退したのだそうだ。わたしはその話を小学五年生の頃に友達から聞いた。 「怖いよねぇ」 「うーん…そうだね」 わたしはそのとき頷いてみせたけれど、実のところ、雲雀恭弥という人がどんな人なのかなんて全然知らなかったし、あまり興味もなかった。ただ、友達が「まぁ目につくことしなきゃいいだけだよねぇ」なんて茶化したふうに笑うから、同じように笑ってみせただけだった。 そうして、雲雀恭弥という人は話に聞くだけの遠い人、という認識で小学校を卒業した。 並盛中学に入学して、わたしは初めて彼を見た。 校長先生が挨拶すべき場所で教壇に上がる、わたし達とそう変わらない年齢の、冷たい目をした人を。 『僕の並盛で妙なことをしたら咬み殺すから』 学校の制服ではなくて学ランを羽織っている彼はそれだけ言って教壇を降り、体育館を出て行った。スピーカー越しでも分かる温度のない声と温度のない瞳は、彼が話に聞く独裁者なのだということを証明しているような気がした。 わたしだけでなく色んな子が彼の背中を追っていた。ひそひそと声も交わされる。「今のが?」「みたい」「えっ、ちょー美形じゃん!」「でも怖いらしいよぉ。女相手でも喧嘩も容赦しないって」ひそひそ交わされる声を聞きながらわたしは去り行く彼の背中をいつまでも眺めていた。軽く咳払いをして教壇に上がった校長先生が『えーでは、新入生の皆さん、ようこそ並盛中学へ』と挨拶を始めてもそっちを見ることなく、見えなくなるまで、彼の学ランの背中を眺めていた。 …すごく寂しい背中だと。わたしはそう思った。 彼の無感動な瞳と無感動な声は、大切な何かを忘れてしまっているような気がした。 わたしには、彼が、整った容姿とは裏腹に、すごく欠けてしまっている人なんじゃないかと思えて仕方がなかったのだ。
想い出はメテオ
ぎ、と何かが軋むような音がして薄目を開けると、天井が見えた。ぼけっと天井を見上げたままでいると、ぬっとわたしの上に影ができて、まだぼやけている視界でなんだろうと目を凝らすとそれが雲雀さんだと分かって、面食らった。「ひ、ば、り。さ」 「倒れたって聞いたから」 「え、あ……」 倒れた。わたしが。 さっぱり記憶にないことだった。視線を巡らせるとそこが保健室であることが分かって、自分がベッドにいて、今目が覚めたのだということを理解した。 意識が途切れる前に見ていたのは夢で、夢を見る前に見ていた現実は、と記憶を手繰り寄せる。 今日はテストだった。いよいよ本番だ。ここまでの成果を発揮すべきとき、とはりきっていたはずなのに、それがとんだ空振りに繋がった。 確かに朝から食欲がなくてちょっとふらつき気味で、友達にも何度も大丈夫って訊かれたっけ。それに私は大丈夫大丈夫って笑って。 (こんなつもりじゃなかったのに) 本番のテストを棒に振ったのだと思ったら悔しさで涙が出てきた。 塾で勉強家でも予習復習、勉強ばっかりしてたわたしの日々が、費やした時間が、試される前に終わってしまった。あんなにたくさん勉強したのに。 わたしを覗き込んだまま雲雀さんが目を瞬かせて、多分、少しだけ慌てた顔をした。 「なんで泣くの」 「て、テストがぁ」 「何? 受けたいの?」 「だって、いっしょうけんめ、べんきょ…っ」 ぐずぐず泣くわたしに彼が困ったような顔をした。それでポケットに手を突っ込んで、そこから白いハンカチが出てきてわたしの目元に押しつけられる。ちょっと痛い。力任せに押しつけられても痛いだけで、涙が止まるわけじゃないのに。 「い、痛いです」 さすがに音を上げると彼は私から手を離した。中途半端なところで手離されたハンカチがぱさっと音を立ててベッドに落ちる。 そのハンカチをありがたく使わせていただくことにして、自分で涙を拭った。目頭を押さえたり目尻を拭ったり、テスト棒に振ったくらいで泣くなよ、と自分に言い聞かせたり。 「…受けたいのなら、あとでそう手配しておくけど」 ぼそぼそとした声が聞こえて「え?」と顔を上げれば、雲雀さんが苦い顔をして床かどこかを睨んで腕を組んだ。「受けたいんだろう。テスト」「はい、受けたいです」「…たくさん勉強したものね」彼がそこで少しだけ笑うから、わたしは首を傾げる。そんなこと、あなたが知るはずないのに、と。 …でも、相手はあの雲雀恭弥さんだから。並盛で彼の手の届かない場所なんてきっとないから。だから、知ろうと思えば知れるものなんだろう。誰のことも、どんなことも。 そんなふうに自分を納得させて、少し涙の滲んだハンカチを見つめた。 ちゃんと洗って返そう。うん。 今日できなかったテストは後日受けさせてもらえることになり、わたしはほっとした心地で教室を出た。 保健室でぐっすり眠って薬も飲んだせいか、もう体調は回復していた。明日はこんな失敗しないようにしなくちゃ、と一人拳を握って下駄箱からローファーを取り出してぱこんと床に置いて、さあ帰ろうと校舎を出てグラウンドを歩きながら、ふと気付く。校門に差し掛かる辺りで下校の人の波がなぜか右側に寄っていた。不自然なぐらい左側が開いている。 変なのと首を捻ったけど、一人だけ左側を通る勇気もなかったから右側通行の人の波に加わって校門を抜けたところで「」と呼ばれた。はたと足が止まる。 どうして左側が避けられているのか分かった。それから、どうしてみんな無言で、速足で校門から遠ざかっていくのかが。 顔を向ければ、門扉のそばに雲雀さんが立っていた。 みんな彼を避けて右側通行になっていたのだ。なるべく早く遠ざかろうと速足で立ち去ろうとしているのだ。間違っても群れてるなんて思われないように無言なのだ。なるほど、納得した。 「もう平気なの」 「薬が効いたみたいで、もう大丈夫です」 「そう」 立ち止まっていると通行の邪魔のようなので、そろそろと彼のそばに行った。気のせいかみんなの視線が行けと言っているような気もしたし。 そろりと彼の隣に並ぶ。 わたしよりも目線の高い人を少し見上げて、雲雀恭弥という人はやっぱり整った人だな、と思う。顔も、姿形も。涼しい目元も温度のない声も彼にとてもよく似合っている。 けれど、その心だけは、人よりとても欠けている。 (…? どうしてそんなことが分かるの?) 自分で思ったことに疑問を持つ。うーんどうしてだろう? どうしてだろう。そういえば並中の入学式、教壇に立って一言残して出て行った彼の背中を見たときも、同じようなことを思った。ような。 ふいに視界の左端でさらりと揺れる黒髪が見えて、「?」という声がとても近くて、びっくりしたわたしはずざっと後退った。 そんなわたしを見て彼が笑う。とても自然に。この間までは想像もできなかったような顔で微笑う。 この間の、冬休みの、天体観測辺りから。それまで苗字で呼ばれていたのが名前呼びに変わって、会話したって彼は表情のないことが多かったのに、こんなふとしたことで笑うようになった。 「帰るでしょ」 「は、い」 門扉から背を離した彼が歩き始める。下校集団に混じりそうで混じらない背中を見ていると、足を止めた彼がわたしを振り返る。「」と呼ばれてはっとして小走りで彼に追いついた。そんなわたしに少し顔を顰めて「まだ走ったら駄目だ」なんて言う彼。あははと笑って「すみません」とこぼし、わたしは前を向いた。 みんなわたし達を避けている。正しくは雲雀さんを。 …わたしとこうして下校することは、彼の中で群れるという行為にならないのだろうか。 みんなが避けて最低一メートルは幅を取って歩く中、わたしは彼と並んで家に帰った。しっかり送り届けられて、「今夜は早く寝るんだよ」と言われて「はい」と苦笑いしてわたしは玄関の扉を開けた。 明日もテストだ。もう調子は戻っているけど、雲雀さんの言うとおり、今日は早く寝ることを心がけよう。 どうしてそんなに星が好きなの 温度のない声にそう言われて、わたしは目を開ける。 そこは海だった。わたしは海に足を浸していた。だけど冷たいのかあたたかいのかよく分からない。温度を感じられない。聞こえた声のように。 足元に落とした視線を上げれば、夜に沈む黒い海が。さらに視線を上げて頭上を仰げば、星が、怖いくらいに輝いていて、今にも降ってきそうな輝きを持ってきらきらとわたし達を照らしていた。 月も好きです。でも、月は満ち欠けして、いなくなってしまう夜もあるから。それを思うと、星はいっつも夜の空にあって、見上げれば必ずいてくれる。見てくれてる。太陽は眩しすぎるから、わたしには星くらいがちょうどいいんです だから星が好き、とわたしは言う。自分でそう喋っているはずなのに、その声にも温度がなくて、どんなことを思いながらそう言ったのかもよく分からない。 前を向いて真っ黒の海を眺め、振り返る。砂浜に立っている人がいる。春物のコートを着ているその人は雲雀さんにとてもよく似ていた。だけど違う、と分かるのは、その人の髪が黒ではなかったことと、その瞳もわたしの知らない色だったからだ。 どうして泣くの 温度のない声がそう言う。雲雀さんによく似た別人の人がそう言う。 わたしは、自分が泣いているのかも分からないまま、そうすべきだと笑ってみせる。 私は泣いていませんよ 精一杯の強がり。そして黒い海に向き直り、ざぶ、と一歩踏み出す。 と呼ばれた。それはわたしの名前ではなかった。だけど自分が呼ばれたのだということは分かった。 ざぶ、とさらに歩みを一歩深めると、膝が波に浸かった。 このまま沈んでしまえば、なんて思ったわたしの心は黒い海しか見ていなかった。 けれど、ざば、と強く波を蹴る音にはっとして振り返る。コートを着たまま、靴だって履いたまま、彼がわたしを止めに来た。強い力でわたしの腕を掴んでとわたしを呼ぶ。温度のない声、温度のない瞳で。わたしを呼ぶ。 彼が、衣服のことを厭わずにわたしのもとへ来てくれたことが嬉しかった。 わたしが笑うと、彼は大きく息を吐いた。もう帰ろう、風邪を引くよと腕を引かれてざぶと海を蹴る。 見上げれば頭上には夜空。星空。欠けた月の浮かぶ空。 わたしが大好きで、そして、本当は嫌いな夜の空がそこにある。 「ぅ…?」 ピピピピピという目覚ましの音で目を覚まして、布団の中からもぞもぞ手を伸ばしてばちんと叩いてうるさい音を止めた。 のそりと起き上がって目をこすれば、さっきまで見ていた夢のことがさらさらと頭の中から砂のようにこぼれていく。 (…?) そう、呼ばれていたこと。わたしが知っている雲雀さんに似た人がいたこと。それから海と夜空。思い出せるパーツはそれくらいで、細かいことはもう忘れてしまっていた。 うーんと首を捻る。 不思議な夢だ。雲雀さんに似た雲雀さんでない人と、わたしは、どうだったろう。自分で自分の姿は分からなかったけれど、と呼ばれていたわたしは、わたし、でよかったかな。 うーんと悩んでいるうちにはっとしてベッドを下りた。そうだそうだ、今日はまだテストがある。夢のことをいつまでも考えているわけにはいかないんだ。 それでも忘れてはいけない気がして、携帯に思い出せるだけの単語をメモしておいた。 納豆に白いご飯に貝の味噌汁という朝ご飯を胃に押し込んで「行ってきまーす」と家を出ると、門扉の向こうに憶えのある黒い髪に学ランを羽織った姿を見つけた。「雲雀さん?」と呼べばわたしを振り返る彼がいて、「今日は調子はどう」と温度のない声で私に問いかける。 並んで歩き出しながら、「大丈夫です」と笑って、わたしは束の間夢のことを思い出した。 雲雀さんじゃないけれど、彼にそっくりな、知らない誰かがいた夢を。 「…何、じっと見て」 「えっ」 目を細めた彼にぶんぶん首を振って「いえ、すみません、ごめんなさい」と謝って、謝った拍子になんでか涙が落ちた。ぽろりと一粒だけ。あれ、と思って瞬いたら一粒だと思っていた涙がぽろぽろと溢れてこぼれ、隣を歩く彼が驚いたように足を止めた。 「あれ? あれ、こんなつもりじゃ…」 ぽろぽろと涙をこぼす目にぐっと掌を押しつけても、涙は止まってくれなかった。 何も悲しくなんてないはずだった。何も怖くなんてないはずだった。涙を流すようなことなんて何もないはずだった。 ただ、胸の奥に、熱いものがあって。頭の中に、雲雀さんによく似た人の姿があって。 「どうして泣くの」 その、温度のない声が。夢の中でかけられた言葉と重なった。 ぼやける視界で顔を上げれば、あの夢と同じように、表情がなくて、だけどすごく困ってる彼がいる。 「わかり、ません」 「……はぁ」 大きく息を吐いた彼にわたしはなんとか笑って「わたしは泣いていませんよ」と夢の中の言葉をなぞらえると、伸びた腕に腕を掴まえられて、引き寄せられて、そして。「馬鹿言わないでよ」という声がどこか懐かしいような響きを持ってわたしの耳朶を打ち。 わたしは、無意識に彼の腕に縋って、声を上げて泣いていた。 テストが不安だったわけじゃない。特別悲しいことがあったわけじゃない。 ただ。夢で見た名前も知らないあの誰かが、遠い人で、もう会うこともない人なのだということを。もう二度と届かない人なのだということを、わたしは理解していたのだった。 |