テスト期間が終了し、放課後、彼女が受け損ねたテストをもう一度受けている間、僕は暇だった。何度となく欠伸が漏れて、それを何度も噛み殺す。そのうち外を眺めているのも見飽きて、ああ退屈だ、と思いながら適当な席の椅子を引いて座り、机に頬杖をついてテストを受けている彼女のことを眺めた。
 すっかり生徒が下校して、部活動も今日はどこもないに等しい。普段はあんなに人で溢れてうるさい校舎が今日は死んだように静かで、かちん、と壁掛け時計が時間を刻む音がやけに大きく聞こえた。
 彼女が今受けているのは数学らしい。眉間に眉根を寄せて、問題が解けたらほっとした顔をするし、解けなかったら難しい顔のまま延々と計算を続ける。
 ちらりと視線を投げると、教師は教室の隅にある灰色の机で他の生徒のテストを採点している最中だった。
 すぐに興味をなくす。この空間に僕がいるから、を理由に教師が張り詰めた顔をしているのが鬱陶しい。
「……、」
 テストに集中して僕のことなど忘れ去っている彼女の名前を呼ぼうとして、これは彼女にとって大事な時間なのだから、邪魔してはいけない、と思い直して開きかけた口を閉じる。
 …あと何分、僕はこうしていればいいのだろうか。
 早く終われ、と思いながら机に頬をつける。背中を丸めてぼんやりその横顔を眺めていると、彼女が教師の方を窺う視線でちらりと前を見たあと、僕のことを見た。淡く微笑むと彼女の意識はまたテストへと戻り、消しゴムでくしゃくしゃとさっき書いた解答を消していく。
 ……馬鹿だな、僕も。
 たった一瞬笑いかけられたくらいで、何をこんなに。嬉しいと思っているんだか。
(…早く終わればいいのに)
 ごつ、と机に額をぶつけて目を閉じると、かちん、とまた時計の針が進む音がした。
想い出は
「終わったぁー」
 テストが全て終わった帰り道、すっきりした顔で組んだ手を頭上へと伸ばしてぐっと伸びをするの隣を歩きながら、公園に寄った。休憩したかったとかではないけど、このまままっすぐ帰ればすぐに彼女の家に着いてしまい、別れなくてはならない、と思ったのが理由だった。
 彼女は僕に笑いかける。「きっと前よりは平均点とか上がると思うんです」と。僕は「そう」としか返せない。僕はテストなんて受けたことがないのだ。それが学力を計るものだと知ってはいたけど。
 は毎週火曜と木曜に塾に通い、土日の休日のうちの一日は勉強の予習復習をしたりして過ごす、ということも知っている。彼女の成績は中の上くらいだけれど、それでも努力を重ねているのだ、ということを僕は知ってる。だから、僕が好奇心で彼女と同じテストを受けて、彼女よりもできてしまったらいけないのだ。それは、彼女の努力を踏み躙るような行為だと思うから。
 彼女がベンチに座ったから、一人分の空間を開けて隣に座った。彼女は鞄からテストの問題用紙を取り出しかけ、途中でやめる。
「雲雀さん」
 呼ばれて顔を向けると、彼女は逆に俯いていた。僕よりも小さな手で細い指を忙しなく組み換えて、「あの」と何かを言いかける。僕が首を傾げて「何」と促せば、彼女は顔を上げ、意を決したという表情でこう言った。
「雲雀さんのこと、恭弥さんて呼んでいいでしょうか」
「え?」
「雲雀さんが私のこと名前で呼ぶのに、私は雲雀さんのこと苗字で呼ぶのは、なんというか、フェアじゃないというか、そんな気がして」
 後半になるとその声は小さくなり、語尾はもう掠れていた。
 何度か瞬きしたあと、僕は自分が笑っていることに気がついた。
「いいよ」
「えっ」
 ぱっと顔を上げた彼女に「呼んでよ」と言えば、彼女はもごもごと口ごもる。自分から言い出したのに、頬の辺りを赤くして「き、恭弥さん」と僕のことを呼ぶ。恥ずかしそうに視線を俯けるその姿が胸に食い込んだ。「もう一回」と言うと彼女がはにかんだように笑って「恭弥さん」と僕を呼ぶ。その声と笑顔に誘われて顔を寄せ、少し身を引いてベンチに手をついた彼女の手に自分の手を重ねた。
 花に誘われる蝶のように君に口付けた。
 ぎゅっと目を閉じた君を眺めて少し顔を離すと、ほっとしたように薄目を開けた瞳と目が合う。
 目を逸らすことがなかったに、嫌ではない、という意思を汲み取って、僕はもう一度キスをした。
 キスだけでは物足りなくて、一人分開けていたスペースを詰めて君のことを抱き締めた。
 左胸がとても騒がしい。
 君の温度がとても懐かしい。とても嬉しい。とても好ましい。
 きっかけはアラウディという僕にそっくりの幽霊を見たことから始まった。出会いというほどのものはなかった。僕は生徒としての君を知っていたし、君は風紀委員長としての僕を知っていた。それ以上はお互い何も知らなかった。知ろうと思うきっかけをくれたのはアラウディだ。もし彼がいなかったら僕は彼女のことを気にしなかったのだろうか? そんなことを考えながら彼女を抱き締め続け、僕よりも細い腕が僕の背中をそっと抱き返した現実に小さく笑った。
 ああ、幸せだ。そんな言葉が頭の中に浮かんで溶けていく。

 彼女の名前を呼ぶだけで、僕はこんなにも。そして、彼女の声で「恭弥さん」と呼ばれるだけで、僕はこんなにも、幸せだって思える。
「いいよ。いらないよ。さんとか。敬語もいらない」
「う、はい。じゃなくて、うん」
 何度も頷いた君がほろりと涙をこぼした。この間のようにぽろぽろ泣き出すことはなかった。一筋だけ流れた涙の跡を指先で辿って拭えば、君が笑う。それで、僕も笑うことができる。
 君が笑ってくれるなら、僕だって笑うことができる。
 君がいてくれるなら、僕はなんだってできる。どんなことだって。
 こんな僕は、この間までいなかった。想像もしなかった。他人に感化された自分など。自分よりも優先したいものが生まれた自分など。

 頬を寄せれば彼女が笑う。くすくすと笑って僕の腕の中で「恭弥」と僕を呼ぶ。どこか甘いと感じるその声が僕の頭をじんと痺れさせ、君以外もうどうだっていい、とさえ思わせる。

 愛しているよ。ずっと愛し続ける

(…その通りだ)
 彼女を家まで送り届け、明日の休みは一緒に出かける約束をして別れた。名残惜しそうに小さく手を振った君に小さく手を振り返し、僕だって離れたくない、と思いながら学校へと向かう。
 最近サボりがちで書類が滞ってる。僕が風紀よりも彼女のことを優先しているせいだろう。今日こそは片付けなくては、と学校に戻って応接室に行けば、机の上には山のような帳簿と書類が積まれていた。少し憂鬱になったけど、仕方がない。自分の不始末だ。自分で片付けよう。
 そうして書類にサインをしたり帳簿を斜め読みしていると、草壁がやって来た。新たに詰まれた帳簿に息を吐くと、草壁が「委員長」と僕を呼ぶ。視線だけ投げると草壁が躊躇ったような間を置いてからこう言った。
「自分の主観と、周りからの言葉なのですが」
「…何」
「委員長は変わられた、と」
 ぱらり、と帳簿のページをめくって斜め読みする。「そうでもないよ」とこぼしてぱんと帳簿を閉じて側に積んだ。新しいものを開きながら「ただ思い出しただけさ」とこぼすと草壁は変な顔をしてみせた。
 …僕はきっと知っていた。ただ、忘れていただけだ。人間らしい僕を。
 自分で思っていた。僕は人間じゃないのだろうと。人間として生まれてきたけれど、人間とは違う生き物として育ったのだろうと。
 幼い頃から、同じ人間が鬱陶しいと思い、会話の必要性を特に感じず、誰かに執着もしてこなかった。同じ年代の子供を眺めながら、僕は遠い場所に立っていて、あれと自分は違う、と漠然とした気持ちで立ち尽くしていたのが僕だった。
 ……どこへも行けず立ち尽くす僕に見えた、君は。僕を認めた君は。僕が認めた君は。そうであるべきように僕の隣に来て、僕の手を取って、導くように前方を指して笑う。
 君に笑いかけられて。ただ立ち尽くすだけだった僕が、歩くということを思い出し、やがて、笑うということを思い出す。
(愛しているよ。ずっと、愛し続ける)
 ぱん、と帳簿を閉じて側に積む。草壁がまだそこにいたから視線を投げると、びしっと姿勢を正した相手が「警護の必要はありますか」と問うた。なんのことかと眉を顰め、すぐに彼女のことを言っているのだと気付く。
 アラウディが守っていた背中。今度は僕が守る背中を誰かに任せるつもりは毛頭なかったけど、僕だけで不足な場合もある、と頭のどこかで冷静な声がする。駒があるなら使うべきだ、という声が。新しい帳簿を開きながら「それとなくね。大げさなものはいらない」とこぼすと草壁はびしっと敬礼したあとに応接室を出て行った。
 君を守るためならなんだってしよう。なんだって利用しよう。今そう決めた。
「…明日は、どこへ行こうかな」
 帳簿を斜め読みして片付ける作業を続けながら、明日のことを考えた。
 僕が迎えに行くというところまで決めて、そこから先は何も決めていない。僕は彼女と一緒の時間が来るならどこだっていいしなんだっていいから、考えらしい考えも出てこない。
 それでも、どうしようか、とこぼす僕の口元は笑っている。
 明日もと同じ時間を過ごすのだと思うと、それだけでもう幸せだと思えた。
 ぎ、と革張りの椅子を軋ませて椅子を半回転させると、窓の向こうには星空が見えた。彼女が好きな空。休憩がてらその空を眺めていると、いつかに山に登って流星群を見たあの夜を思い出し、溶けるように消えたアラウディを思い出して、目を閉じる。
(あなたに言われるまでもない。は、僕が守っていく)
(どうしよう、デートだ。これってデートだ。どうしよう)
 あまり眠れないままで起き出したわたしは、クローゼットを開け放った。最近ショッピングとかしてないせいかクローゼットにある服がどれも物足りなく思えたけど、恭弥とデートするんだから、と自分に気合いを入れる。立ち鏡を引っぱってきてセットし、クローゼットを引っくり返す勢いで服を出しては鏡の前で自分に当ててみて、気に入らなかったらベッドに放り出しては次の服を肩に当ててみてやっぱり気に入らずベッドに放り出し、を繰り返す。
 三十分たって候補に残ったのは、黒のワンピース一択だった。
「え、えええー…」
 愕然とする。まさかここまで、何もないとは。
 随分着ていない気がする黒のワンピースを掲げて、パジャマから着替えてみた。膝丈でAラインのワンピースは余分なものが何もなくて、やっぱり寂しいかなぁと鏡の中の自分を見る。
 でも、なんか気分なんだ。黒のワンピースって気分。あとは気に入らないと思ったし、今日はもうこれで行こう。
 ベッドに放った服の中から白いカーディガンを引っぱり出す。上に羽織っていけば大丈夫。そう変じゃない。
 時間が時間だったのでもう一回パジャマを着て慌てて階下へ下りた。「あら、今日は早いのねぇ」なんてお母さんののんびりした声に「うん、ご飯食べる」と返して冷蔵庫を覗く。オレンジジュースを取り出してコップに注ぎ、ご飯をよそい、焼いてくれたハムエッグが今日の朝食だ。
 歯磨きをして、なるべく丁寧に髪に櫛を入れ、ばたばたと二階に上がる。ワンピースを着てカーディガンを羽織り、携帯を鞄に突っ込んだ。ばたばたと下りていくとお母さんがいて、わたしの格好を見るとにやっと笑う。
「デート?」
「う」
 隠し事が苦手なわたしは言葉に詰まってしまった。お母さんがぱちんと手を合わせて「まぁデートなの!? どんな子? お母さんに紹介してちょうだいよ」と言うからぶんぶん首を振る。まだそういう関係じゃない。じゃないと、思う。昨日キスしちゃったけど。
 携帯で時間を確認するともう十時になろうとしていた。「ねぇねぇ」と離れないお母さんに「もー時間なの、きっと待ってる」とちょっと怒ってみせても、お母さんはうふふと笑っている。
(もう、からかって)
 お母さんを振り切ろうとブーツに足を突っ込んで速足で玄関の扉を押し開ける。追いかけてこようとするお母さんを遮ってばたんと背中で扉を閉じて、一息。もう。朝から疲れる。
 はぁ、と息を吐いて門扉をくぐってびっくりした。脇にしゃがみ込んでいる恭弥がいたから。
「え、恭弥? どうしたの、ぐあい悪いの?」
「…違うよ。待ちくたびれただけで」
「え? 嘘、わたしそんなに遅刻した?」
 彼は緩く首を振ったけど、わたしは携帯を取り出して時刻を確認した。今十時になったところだ。約束は十時だった。遅刻はしてない。でも、恭弥は待ちくたびれたって今。
 のろりと顔を上げた彼が目を丸くしてわたしを見上げた。ぽかんとした顔にワンピースの裾を引っぱる。
「えっと、似合わない?」
「違う。よく似合ってる」
 似合ってる、とこぼした彼がふらりと立ち上がって、ぎゅうとわたしを抱き締めた。苦しいくらいに。
 …朝から抱き締められてしまった。なんだかすごくどきどきしてきた。
 わたしを解放した彼が「僕の勝手だけど、待ちきれなくて、一時間前からここにいたんだ」「えっ、一時間!?」浅く頷く彼にわたしは驚いたし呆れてしまった。それならそうと携帯に連絡をくれれば、わたしだってもっと早く出てきたのに。
 学ランを着ていない彼は普通の子と同じ格好をしていた。それでもかっこよかった。そんな彼の隣に並ぶのがわたしなんて、もったいない話だ。本当に。
「今日はどこへ行こうか。どこがいい?」
「わたし、どこでもいい」
「それは困る。僕は行きたいようなところなんてないんだ。が提案してくれないと」
「う。うー…じゃあ、買い物、したいなぁ」
 ちらりと彼を見上げる。わたしの手を取った彼が諦めたように笑った。そう言われることを予想していたようだ。「いいよ」と言う彼にぱっと顔が明るくなる。クローゼットの中に愕然としたところだったし、買い物がしたい。服を買いたい。服以外だって色々見たりしたい。
 そうして、わたし達は隣り合って歩き出す。
 手を繋いで、他愛ない会話をしたりしながら、電車に乗って、大型のショッピングセンターへ向かう。
 彼は人混みや笑い合う人にときどき鋭い瞳を向けた。だけど、その度に少し強く手を握って彼の意識をわたしへと戻した。その度に彼は諦めたように笑う。
 その笑顔は、嫌だけど諦めるというよりは、仕方がないから諦めるというよりは、諦めてあげるよ、という、どこか優しいと感じる笑い方だった。
 あなたもそんな顔ができるようになったんだね。いつかの学ランの背中を思い出し、束の間そんなことを思う。

「気の早い話をしてもいい?」
「? うん」
「僕と結婚してほしい」
「……え? え、けっこ、ん?」
「そう」
「え、えっ、わたしと? 恭弥が?」
「うん」
「え、ぇ、ええとー」
「僕はのことがすごく好きで、大好きで、愛してるから。そばにいてほしいし、僕に笑ってほしいと思うし、他の誰かに君をあげたくない」
「え、ええと、ぅ…」
は僕のこと好き?」
「好き、だよ」
「うん。じゃあ問題ないよね」
「ぇ、と、えーと」

 ぶっ飛んだ話にわたしが呆然としていると、彼は笑い出した。声を上げて笑って「まだ先だよ。今はこれでいい」と笑ってわたしの手の甲にキスをする。がーっと顔が熱くなって思わずぶんぶん手を振って彼を振り払ってしまった。そんなわたしに彼はまた笑う。
「愛しているよ。ずっと愛し続ける」
 笑ってそう言う彼に、わたしはどんな顔をすればよかったろう。
 もう恥ずかしくて仕方がなくて、逃げ出したい、と思いながら彼の隣で俯いた。
 …恥ずかしくて仕方がないと思うのに、わたしは笑っていた。
 そんなの、本当に気の早い話だ。わたしはまだ中学生で、あなただってわたしとそう変わらないはずなのに。
 ……でもね、見えるよ。あなたと一緒にいる未来が、こんなにも鮮明に。
 想像できるよ。あなたといるわたしが、いつも笑っていることが。
 きっとあなたと生きることは、わたしの運命だった。