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平日の休みの日、家で朝食後のティータイムとしてコーヒーを飲んでいると、携帯が鳴った。手を伸ばして画面にタッチして相手を確かめると、雲雀さんからだった。 はて、と首を傾げてコール音の続く携帯を耳に当てて通話を繋げる。「雲雀さん？」『お早う』「お早うございます。どうかしましたか？」『買い物がしたいんだけど、付き合ってよ』「…買い物、ですか」ぽつりとこぼして視線を天井に投げる。私も食材を買出しに行かないとと思っていたところだ。断る理由のない話だ。 二言返事で了承して、部屋着のままの自分を見下ろした。 …彼は思い立ったら吉日な人で、迎えに来ると言ったからには三十分後には到着すると見ていいだろう。三十分でどこまでできるだろうか。 スリッパをぱたぱたいわせながら洗面所へ行ったりクローゼットの前に行ったりを繰り返して着替えたり軽く化粧をしていたらピンポーンとチャイムが鳴った。きっかり三十分。イマドキから遅れたアパートのインターフォンは音声しか通じないことが助かった。まだもう少し、せめて五分、化粧を整える時間がほしい。 「ごめんなさい、あと五分だけいいですか」 『…車にいるから、終わったら来て』 「はい」 ぶつっと音声が途切れた。窓に駆け寄って下を見れば、このアパートには似つかわしくない高級車が停まっていて、その車に背中を預けて腕を組んでいる人が見える。 雲雀恭弥さん。この間駅で声をかけてきた骸さんの、多分、友達。少なくとも知り合い。 ホテルで夕食をご馳走してもらったあのときから一月。私は休みの度にこうして雲雀さんと時間を過ごしている。私も、それが苦ではない。 骸さんのことを一度だけ訊ねたけれど、仕事だの一言だけ返された。どうやら雲雀さんは骸さんのことをあまりよく思っていないらしく、名前を挙げるだけで気分を害させてしまうようなので、今は極力口にしないように気をつけている。 …なんだか妙なことになった、と、鏡に映る自分を見て思った。 つい一月前まで、生ききることもできず死んだように生きていた私なのに。最近はこうして休みの度に出かけては、雲雀恭弥という、私に似通った人と一緒に時間を過ごしている、なんて。 必要最低限なものをバッグに詰めて部屋を出て、パンプスをかんかんいわせながら階段を下りて、ようやく階下に到着した。ロックを外してエントランスを抜ければ、道路に停まっている高級車があって、車から背中を離した彼がいる。 私とよく似て、あまり表情の動かない人。興味のあるものとないものの差が激しい人。興味のあるものにはとことん貪欲に走るのに、どうでもいいものは本当にどうでもいいと適当に流してしまう人。 「お待たせしてしまって、ごめんなさい」 「いいけど。乗って」 いつものように開けられた助手席のドアに、そろりと車に乗り込む。座り心地のいいシートに背中を預けると心地がよかった。 ドアを閉めて、運転席側に回る雲雀さんの姿をガラス越しに眺める。 控えめに言っても整った容姿の人で、彼が歩いているだけで、振り返る女性はたくさんいるだろう。 ドアを開けて乗り込んだ彼がシートベルトを締める。その姿を見て自分のシートベルトも着用した。 「今日はどこへ？」 「どこにしようか」 「決めてはいないのですか？」 「どこでもいいんだ。君と行けるなら」 そうこぼしてから自分で自分の言葉に驚いたように動きを止める彼と、そんな彼を目を細めて見つめる私と。そして、きっと、そんな私達の乗り込んだこの車を、似つかわしくない場所に似つかわしくないものがあると、アパートの住人が見下ろしていることだろう。 期待してしまうような言葉を、さっきみたいにぽろりと口にする、雲雀恭弥という人。 この人は優しい人ではない。骸さんとのやり取りを見ていれば分かる。基本的にこの人は他人に興味がなく、苛立ちを抱く人であり、その苛立ちを隠さない。自分に正直なのだ。だから苛立ったらそれを解消しようとするし、思ったことは口にする。口にして思ったことに気付いたときもあるのかもしれない。それがたとえば今、とか。 会話がそれきり途絶えてしまうのはきっと彼にとって気まずいはずだ。そう思った私はあえて自分からこの空気を壊す。 「今日お誘いしてもらってよかったです。実は、冷蔵庫が寂しい状態で。買い物しないとなって、」 思っていて、と続けようと思った私の手を握った雲雀さん。それで途切れてしまった言葉。 斜め下辺りを睨んだまま私の手を掴んで、握って。強い力は、人の手を握ることになんて慣れていないと、そう言いたげで。それでも握っていたいのだと、そう言いたいようで。 口元がほころぶ、というのはきっとこういうことを言うのだろう。自然に笑うということはきっとこういうことなのだろう。 私も、彼も、口下手だ。本当に言いたいことには口を閉ざしてしまう。上手に言葉が出てこない。考えれば考えるほど言葉が喉に詰まってしまうのだ。その感覚がよく分かる。彼もきっとそう。 もう片手を彼の手に重ねる。 …人の体温。肌の感触。指を伝わせれば、私と同じ五本の指がある。同じ、人の手が、こんなにも近くに。 �眦膕阿惻屬鯀�らせ、屋上に停めて、上から順番に見て、最後に荷物になるだろう食品を買うことにした。 今日は平日だからそう人出があるわけでもない。きっとデパートの人も時間があるのだろう。私達の姿を認めるとにこりとした笑顔を浮かべて「いらっしゃいませ」と挨拶をくれる。雲雀さんはそれをスルーして歩いて行くので、私もそれについていく感じ。 興味のないことには本当に意識を割かない人なのだ、とその背中を見ていて思う。 と、彼が立ち止まった。つられて私も足を止める。彼が眉間に皺を寄せてこっちを振り返り「どうして後ろにいるのさ」「え」「横に並べばいいだろう」どうやら彼にはそれが気に入らない点だったようだ。 いいのかな、と思いつつそっと一歩を踏み出して隣に並んでみる。 …整った容姿の隣にいる私が貧相では、彼の何かを損なう気がして。だから斜め後ろ辺りを歩いていたのだけど。 腕を組んだ彼の不機嫌そうな顔が少しよくなった。それで「今日は君についていく」と言われて、瞬きしてから振り仰ぐ。頭一つ分身長の違う彼のことはどうやっても見上げねばならず、「買い物がしたいのでは」「うん。君の目線でね」「…私の？」さすがに困惑して視線が迷った。 少し前なら殺していたこの感情を生かしている今の私は、確かに、彼に会うことで変わったのだ。私に似ていて違う、雲雀恭弥という人に出逢ったことで、何かが変わった。 彼が譲らない性格だということはもう知っていたから、私は彼の言うとおりにデパート内を順番に回ることにした。それこそ、一日かけるくらいにゆっくりと、普段は見ないようなところまで。 隣に、自分のことを見てくれている人がいると思うと、いつもより余裕のある気持ちで在ることができた。 もし何かがあったとき、雲雀さんなら私のことを守ってくれるのではないのか、なんて、甘えたことを思う自分がいて。期待にも似たそれを、今までなら問答無用で殺していた。期待した分だけ沈む心を知っていたから、そうなる前にと殺していた。 それが今は。 「……あの」 「何」 「お腹が、空きました」 私のお目当ての食品街に辿り着いた頃にはもうお昼もいい時間を過ぎていた。彼が腕時計に目をやって「ああ。気付かなかった」とこぼして私の背中を押した。「上に行こう。空いてるところでもいい？」「あ、はい。でも私、給料日前なのでそんなにお金がないです」困ったなと思ってそう言ったところ、彼は唇の端を持ち上げて笑ってみせた。「払わせないよ」なんて言って私の背中を押し、背中を押していた手がやがて私の手を引いて、エレベータへと乗り込む。 …こんなふうに手を繋ぐことに、憧れていたことがあった。 指を這わせれば自分の指とは違う、少しごつごつした細長い指があって、私がその指を撫でていると、耐えかねたように私の手を握り込む。 私達の視線はお互いに違う方向を向いたまま、顔も合わせず、ただ手だけを繋いでいる。 こんなふうに手を繋ぐことなんてできないのだろうと諦めていた。 私は人の集団に溶け込めない。それが私。これからもずっと孤独を抱えて生きなくてはならない。一人で立って、笑い合う誰かの隣を通り過ぎて歩いていかなくてはならない。そうやって諦めていた。 こんなふうに手なんて繋げないと。そんな人、私には永遠に、と。思っていたのに。 「…、」 見つめていた床に、ぽた、と水滴が落ちた。自分の目元に指をやると濡れていて、それに自分で驚いた。 涙が。涸れていたと思った涙が、私にも。あった。 ぽた、ともう一つ床に落ちた水滴で彼も私が泣いていることに気付いたようで、「？ 何泣いてるの」と珍しく戸惑った顔でハンカチを取り出して私の片目を覆った。涙の拭い方すら不器用な人だった。したことがない、だから分からない、というような手つき。それじゃあ化粧まで取れてしまうのに。 「…こんな、ふうに」 繋いだままの片手、彼の手に包まれた自分の手を小さく揺らす。 口にしなければ伝わらないこの涙の理由を、頑張って、彼に伝えなくてはならない。 かっこ悪くても、情けなくても、それが、生きるということなら。 「手を、繋げる人が。いることが…うれしくて」 不器用に涙を拭う彼が言う。「そんなの泣くほどのことじゃないだろう」と。 私は緩く頭を振る。 すっかり諦めていた世界で出逢ったあなたという人がいることで、私がどれだけ、生きることを思ったか。あなたは知らないから。 やがて、音を立ててレストラン街に到着したエレベータの扉が開いた。手を引かれて外に出て、まだ戸惑った顔のままの彼にまた涙を拭われる。 「お昼は何がいい？」 「…お寿司が、食べたいです。サーモン」 「分かった」 彼もお寿司は好きだったはずだ。出してくれるというのなら、せめて彼も好きなところで食事をしよう。 止まってきた涙を指で拭う。「大丈夫です」と言うと彼はようやくハンカチをしまってくれた。化粧がうつっていそうですごく申し訳ない。 あまり人のいない、回転レーンのないお寿司屋さんに入って、奥の座敷を選んだ。こういうお寿司屋さんはよく分からなかったので、彼に食べたいネタを伝えて、あとの注文は任せた。 カウンターの向こうの白いはちまきタオルを巻いたおじさんがお寿司を握っている間、私は落ちてしまっただろう自分の化粧を気にして、雲雀さんは、机の上で手を組み換えて、二人とも落ち着きがなかった。 やがて、彼の灰の瞳が私を捉える。よく似ていて違う瞳からは、今は強い意志のようなものを感じた。 「…初めて、思ったんだけど」 「はい」 言いにくそうに口を開いた彼に首を傾ける。視線を泳がせた彼はぼそぼそと、「…を、守らないと、って」小さくそう言った彼に瞬く私。次には、胸がじんわりと熱くなり、また涙が溢れてきて、私は今日だけで二度彼を困らせてしまうことになる。 本当に。こんなふうに私のことを慰める手があることが嬉しくて、声があることが、その存在があることが嬉しくて、仕方がなかったのだ。 |