という君に出逢って三ヶ月めに入った。
 毎週彼女の仕事が休みの日に会いに行き、どこかしらへ行くことが僕らの、所謂デートというやつで、今日は彼女の要望で映画を見に行くことになった。僕はに出かけようと誘うけど特別どこと決めているわけではなくて、だいたい会ってから話してどこへ行くと決める。今日もその流れで映画館へ足を運び、人が多いことにうんざりしながら彼女の手を取って暗い劇場内を先行した。
 足元がいやに暗いな、と思って視線を落とせば電気がついていないところがあり、そりゃあ暗いと納得して「、足元」気をつけてと言おうと思ったらそこで彼女が蹴躓いた。ほぼ反射で腕を伸ばして抱き止めてから数秒、注目されていることに気付いてじろりと視線をやる。睨めばそそくさと他人の視線は剥がれた。全く鬱陶しい。そもそもここが暗すぎるのが悪い。あとで注意してやろう。
、怪我は」
「大丈夫、です。ありがとう」
 そろそろと腕から抜け出した彼女が靴先に気をつけながら歩いて行く。
 たどたどしかった言葉を思って、それが照れくささからきているのだと気付いて、僕まで照れくさくなった。

 …馬鹿みたいだ。
 他人の行動がこんなに気になって、週に一度の逢瀬を楽しみに日々を過ごして、君といる時間をこんなに望んでいる自分が馬鹿みたいだ。
 週に一度のデートだけで満足できなくなってきた自分が、馬鹿みたいだ。本当に。

 チケットで指定されている席に隣り合って座る。チケットに印字された映画の題名を見ても僕には何も思い浮かばない。今日封切りの映画と言われても、あまり実感も湧かない。
「どうしてこれが見たいと思ったの」
「私、この監督の映画が結構好きで。今度はどんなの作ったのかなって思って」
 まだ何も映っていないスクリーンを見つめて手を合わせた彼女の言葉に納得した。映画監督の制作が彼女の好みなのだろう。それなら僕も把握しておこう。
 薄暗い劇場内に視線を投げれば、開演までに人はそれなりに入った。僕の隣も彼女の隣も埋まった。僕の隣が女で彼女の隣が男。それが気に入らなくて途中で席を交代した。僕に向けられる女の目が鬱陶しいし、彼女の隣に男が座っているというのも嫌だった。
 映画自体は未来を舞台にしたフィクションのようなもので、映画らしく舞台が大きかった。それも普段から喧嘩を生業にしている僕にするとあまり味気のあるものではなく、はっきり言って都合のいい話だなで終わってしまうようなもの。
 一度だけ欠伸を咬み殺したけれど、彼女のいる手前、下手なことも言えないし、できない。あまり映画に入り込むことはできず、一歩引いた目線からスクリーンを眺めながら、僕の意識は隣のにばかり向いてしまう。
 喧嘩事で仕事をしている僕のことを知ったら、はどんなことを思うだろう。
 二時間と少し、身体が凝ってきた頃に映画はようやく終わった。エンドロールの流れるスクリーンに両手を合わせて考え事をしているような彼女に顔を寄せる。「ねぇ」「え、」ぱっとこっちを向いた彼女と、キスしそうな近さで、お互いに息を止めてしまった。
 近すぎた。音が大きくて声が聞こえないかと思って顔を寄せたんだけど、そんなに急に振り向かれると思ってなかった。
「…携帯が、さっきから鳴ってるって、言おうとした」
 身体を引きつつ彼女が抱えている鞄を指で示す。慌てた様子で鞄を探った彼女が携帯を取り出し、表情を曇らせた。「会社…ですね」という呟きがクラシックの音楽に掻き消される。
「会社?」
「最近業績がよくないって、残業が多くて…多分、今から出てこいって電話だと思います」
 あまり表情を動かすことのない彼女が嫌だなぁって顔で携帯を見つめている。よほど嫌なのだろう。好きでしている仕事ではないってことだ。僕はしたいことをしてればお金が入るんだから楽なものだけど、彼女はそうじゃないのだ。
 言おうと思った。仕事なんてやめてしまえと。それで生活できなくなるというのなら、僕が面倒を見る。それで君がずっとそばにいてくれるなら僕はそれがいい。君ともっと一緒にいたい。週に一度だけじゃなくてもっと時間を過ごしたい。言葉を重ねたい。君の声が欲しい。体温が欲しい。僕のことを呼んでほしい。もっとずっと。
 尽きることなく溢れそうになる欲望を抑え込むのに数秒かかって、僕はどうにか、言葉を吐き出した。
「取らないといけないの。それは」
「いえ。一応お休みですから、義務はないです」
「なら放っておけばいい。携帯が手元になくてとか、理由なんてこじつければ」
 そうですね、とこぼした彼女が携帯を鞄にしまった。僕に顔を向けると首を傾げて「雲雀さん?」と僕のことを呼ぶ。
 今、君を抱き締めたくてたまらないんだと言ったら、はどんな顔をするんだろう。どんなふうに、何を思うのだろう。
 タイミングの悪いところで六道の奴が長期の海外の仕事から帰ってきた。空港に降り立ってまず僕に電話してくる辺りが本当にうざい。
 海外土産があるとかいう話から始まってその後とはどうですかとか笑った声に言われて通話を切ってやったけど、あいつのことだから僕らの居場所を突き止めて勝手にやってくるだろう。迷惑な男だ、本当に。
 はぁと溜息を吐いてポケットに携帯を突っ込むと、向かいの席でパンフレットを眺めていたが顔を上げた。
「骸さんですか?」
「そうだよ。仕事から帰ったからお土産があるとか言ってた」
「お土産…どちらへ行かれたんでしょうね」
「さぁ。海外としか知らない」
 キッシュにフォークを刺して適当に切って口に運ぶ。パンフレットをたたんだ彼女の鞄の中で、また携帯が震える。その度に彼女の表情は微妙に曇った。
 …君にそういう顔をさせる仕事先が、嫌だ、と強く思った。
 手を突き出して「貸して」と言えば、彼女がパンフレットを渡そうとする。「違うよ。携帯」と鞄を指せば、困った顔をされた。
「でも」
「言ってあげる。迷惑だって」
「いえ、それは、困ります」
「僕が嫌なんだよ。そんなところで働かないで」
「でも、ですね…あの」
 …彼女が困惑するのも当然だった。これではまるで子供のようだ。よく人に言われるけど、自覚したのは初めてだ。
 ばんとテーブルを叩くと彼女はびくっと大きく肩を震わせて縮こまった。
「僕のところに来ればいい。衣食住には困らせない。不自由はさせない。絶対にだ」
 イラついた声で言ってしまったあとで我に返った。僕が大きな音を出したせいで静まり返ったカフェ内で僕の言葉を聞かなかった人間はいないだろう。睨んでやれば皆わざとらしく顔を逸らしたりしたけどひそひそと僕らのことを耳打ちしている。
 咬み殺してやりたい、と拳を握ったとき縮こまっていた彼女が恐る恐るというように僕を見上げた。その瞳に捉われると僕の凶暴性は失われて、握っていた拳も解けている。
「あの」
「何」
「今の、言葉の意味は。なんですか?」
「…意味って何が。言葉の通りだよ。君があんな顔して仕事をして暮らしていくくらいなら、僕が君の面倒を見ていくって言ったんだ」
「…でも。それは、なんだか」
 彼女が視線を俯ける。あまり表情の浮かばない顔に、頬を僅かに赤くして、もごもごと口ごもってしまう。
 そんな彼女を見ているうちに気付いた。今更ながらに、自分が言った言葉の、彼女が言ったところの意味というやつを。
 …一分前の自分を殴りたくなった。
 場所っていうのがあるだろう。こんな、告白じみた言葉を、人の多い昼時のカフェで大声で言うもんじゃない。せめてディナーとか夕食の席の、夜景がきれいなホテルのレストランとか、料亭とか、そういう然るべき場所で告げるべきことであって。こんな口ばかりが先走って、意味を理解するのがあと、なんて阿呆みたいなこと、いい加減控えるべきだ。もう僕も子供ではないんだから。とっくに成人して、子供のときと変わらずにやっているだけで、本当は大人にならないといけないのだから。

 嫌だった。大人なんて生き物は嫌いだ。今も嫌いだ。だから僕は僕のまま、子供でも大人でもないまま、雲雀恭弥のままで生きていく。この先もずっと。そう思っていた。
 嫌だったんだ。周囲に溢れる大人が。愛なんて分からない僕には、何もかも理解できなかった。
 理解できる日など来ない。そう思っていた。

「…
 一つ呼吸して彼女のことを呼ぶ。
 僕は衝動を抑えるのに慣れていない。自分を突き動かすものには正直になって生きてきたから。君を思って我慢して言葉を呑み込んだりすることを憶えてきたつもりだったけど、まだまだ、足りないみたいだ。
 そろりと顔を上げた彼女が僕を見る。
 いつか君にちゃんと笑ってほしい。今はまだ無理でも、僕が見ているから、大丈夫。恐いものがあるなら守ってあげるし、欲しいものがあるなら買ってあげるし、嫌いなものがあるなら退けてあげるから。君の願いなら聞いてあげるから。他の誰にもそうはできないけど、君になら、優しくしてあげられる。
「明日も僕に時間をちょうだい。仕事はもういいから」
「え…」
「後始末は僕がするから心配しないで」
 だから、明日も僕に時間をちょうだいよ。そう繰り返すと、彼女は困惑したけれど、最後には頷いてくれた。
 …そうと決まれば、今日は帰ったら明日のためにレストランの予約や、他にもすることがたくさんだ。
 戸惑ったような顔でタルトパイを食べた彼女が、早く行こうと言う。微妙に注がれる視線に耐え切れなくなったらしく、僕もキッシュを片付けてカフェを出た。
 早足で歩く彼女の手に引かれている自分の手は、彼女の手より大きくて、包み込んでしまえる。
 きっとその手と同じように、君のことも全部、包んであげられるだろう。
 生まれて初めて、人間のことが、人のことが、愛しいと、肯定できたのだから。