いつものように雲雀さんと休日を過ごして、本来なら仕事である次の日、家を出ないとならない時間帯に、私はまだベッドの中でまどろんでいた。
 後始末は僕がするからと言った彼がどんなふうに会社に話をつけたのかは分からない。けれど、私は今日付けで会社を早期退職という形になっていた。
 ぼんやりとハンガーからさげられたいつもの仕事服を眺める。
 もうあれを着てあの会社へ行くことはないんだと思うと、妙な気持ちだった。

 僕のところに来ればいい。衣食住には困らせない。不自由はさせない。絶対にだ

「…………」
 枕に顔を埋めて細く長く息を吐く。
 あの言葉がいつまでたっても耳の奥の方に残っている。
 仕事を辞めてもいいと。私の面倒は自分が見ると。彼はそう言った。
 それってつまりどういうことなのでしょうか。私が考えすぎているだけで、本当はあまり、深い意味はなかったりするのでしょうか。昨日からそれが気になって眠れなくて、今もまだ眠くて。
 あんなに慣れていた、自分を殺すということが、いつからか苦手になってしまっていた。
 きっと雲雀さんのおかげであり、彼のせいでもある。骸さんのおかげでもあるだろう。彼のせい、ではない。
 この三ヶ月、毎週雲雀さんと過ごす時間が楽しみだった。今日はどこへ行けるだろうと楽しみにしていた。私の希望が通ることもあれば通らないこともあったけど、そうやって自分が否定されても、傷つけられても、雲雀さんならと受け入れている自分もいたことに、私は気付いていた。
 雲雀さんなら。そんなふうに思える人に出逢えたことを幸運に思った。彼と過ごせた時間は総じて幸せで、家に帰ってから彼とのことを思い出して、自然と笑っていることもあった。
 幸せだと思った。生きていることを。
 これでよかったのだと思えた。全てを、これでよかったのだと思うことができた。
 …これからもそう思えるのかは、分からないけれど。
 ぐっと拳を握ってベッドに手をつく。起き上がってベッドを抜け出す。
 落ち着かないのなら、出かけよう。しっかり支度をして、たまには一人で行こう。そう決めてしまえば眠い目もいやにはっきりした頭も動いてくれた。いつもより丁寧に化粧をして服を吟味して選び、ホテルのディナーに招待されても大丈夫だと鏡の中の自分に頷いた頃には準備を始めて軽く二時間が過ぎていた。髪のセットに戸惑ったせいかな、と家を出て、正面に憶えのない車が停まっているのに気付いて足を止める。
 雲雀さんのものとはまた違う高級車。彼のは黒塗りの、墨のような色をした黒い車だったけれど、目の前に停まっているものは金色だった。派手、だ。
 そろりと横を通り過ぎたとき、「」と懐かしいような声で呼ばれて足を止めた。
 振り返れば、金色の高級車の窓から手を振っているのは憶えのある人。
「骸さん?」
「お久しぶりです。お出かけなら僕がお送りしますよ」
「いえ、でも」
 ぱちんとウインクされて、迷ったけれど、甘えることにした。「海外のお土産だってありますよ」という言葉に関心が引っぱられてしまったのだ。
 ドアを開けるために下りてきた骸さんとは三ヶ月ぶりに会ったけれど、以前と何も変わっていなかった。
 そろりと助手席に腰かけて、鞄を抱える。後ろの席には色々とお土産の袋が転がっていた。仕事だとは聞いたけれど、彼はどんな仕事をしているのだろう。
 運転席に乗り込んだ骸さんがドアを閉めた。「元気にしていましたか?」と笑顔を向けられて頷いて返す。「はい。骸さんの方は?」「ええ、何も心配するようなことはありませんでしたよ。随分雲雀くんが迷惑をかけているようですね」さらりと言われてぱちと瞬く。「いえ、そんなことはないです」「今日はお仕事の日だったでしょう? 彼が無理強いをしたのでは?」その言葉に首を振る。オッドアイの瞳を見返して「いいんです」としっかりとした声で言えば、数秒ののち、彼は息を吐いた。「そうですか」という言葉には、説明しなくてもこれまでの三ヶ月のことを解っているような、そんな気さえした。
 走り出した車の中で、私は前を見る。助手席という位置に慣れた目を細めて、光が沁みることに寝不足を痛感した。
「骸さん」
 どこへ行くとも言わずにハンドルを切る彼を呼ぶ。「なんでしょう」と穏やかな笑みを浮かべる彼に、一つ、訊いてみたいことがあった。
「私はまだ、淋しい生き方をしているでしょうか」
「…憶えておいででしたか」
「はい。自分で気付いていて、知らないことにしていた言葉ですから。骸さんに言われて、雲雀さんと会って、ようやく向き合えた現実ですから」
 そっと両手を組んで、これまでの自分と、この三ヶ月の自分を振り返る。
 どうだろうか。少しは生きているだろうか、私は。相変わらずあまり表情は動かないけれど、口元がほころんだり、涙が出たり、動いたこともあった。雲雀さんを困らせたこともあった。二人で笑ったこともあった。手を繋いだこともあった。抱き締められた、こともあった。
 …もっとたくさん。彼と時間を過ごしてみたい。もっとたくさん話をして、私の事を話して、彼のことを知って、もっと理解し合いたい。今よりももっとずっと。
「生きていますよ。。あなたが今想っていることが、生きているということです」
 まるで心の中を見透かすような言葉に、私は小さく笑った。「骸さんは仙人か何かなんですか?」「そんな位はありませんが、少し似ているのかもしれませんね」茶化したように笑う骸さんは街の中心地から離れていく。そして微笑みを消した彼は言った。「最後に雲雀くんを試します」と。試す、という言葉が理解できずに首を傾げた私に骸さんはまた笑う。微笑って言う。
には危害を加えませんからご心配なく。たまには友人同士本気の喧嘩も必要でしょう」
「…そう、なんですか?」
「そうなんです。特に彼の場合、力には力でしか語ってくれませんからねぇ」
 やれやれ、困った人だ。そんな仕種で肩を竦める骸さんが何をしようとしているのか私には理解できず、友人同士の喧嘩、という言葉を頭が復唱した。
 それは、私にはどうやってもできないものだな、と。骸さんと雲雀さんの間を思い、憧れもした。
 お昼を高速のパーキングエリアで過ごし、車は走り続けて、いつしか空は暮れ始めて夕方になった。
 骸さんの要望で切ったままの携帯にはきっと雲雀さんからの連絡が入っている。電話だってかかってきているだろう。でも電源を切ってあるから繋がらない。彼のことだから、きっと心配して行動を起こしているだろう。たとえば、私のアパートに行って部屋の扉を破る、くらいのことは平気でしそうだ。
 ドライブの間、私は骸さんから雲雀さんの今までの話を聞いていた。
 私がまだ知らない彼の凶暴性。今までの暴力と統治の日々。彼の仕事のこと。
 そして、私がいることで抑えられるというその性癖。
 私は骸さんという語り部の話を聴いて、雲雀恭弥という人のことを少しでも理解しようと、寝不足でまどろんできた頭を回転させている。
「…驚かないのですね」
 話に一区切りついたとき、そう言われた。目頭をもんで「驚いて…います。これでも。ただ、彼の言動で気付くところがあっただけで」「おや、案外鋭いと見える」「…案外は余計です」「くふふ、これは一本取られました」笑う骸さんを睨んでいた視線を夕焼けに流す。今頃雲雀さん、どうしているだろう。
 骸さんが車線変更をしてスピードを落とした。隣をすり抜けていくバイクは百キロほどは出ていそうなスピードで高速道路を突っ切っていく。
「雲雀くんは今頃必死になってあなたを探しているのでしょうね」
「…そうでしょうか」
「そうですよ。あの雲雀くんが自分以外に執着したのはこれが初めてですから、僕もまだ驚いています。……ああ、今あなたの部屋を飛び出したようですね。鍵もかけないで」
 きょとんとして骸さんを見る。彼は電話も何もしていないのに状況が分かっているようだった。「雲雀さんが、ですか」「ええ。部下に片っ端から電話をかけてあなたのことを探させるようです」含み笑いをした骸さんの横顔が夕暮れで赤く照らし出される。それが血に濡れているようだなんて表現してしまうのは、映画を見たせいだろうか。
。僕も雲雀くんもきれいな手の人間ではありません。人を殺したこともあります」
 骸さんは言う。血に濡れたような顔に微笑みを浮かべて、幻のような言葉を重ねる。
「そんな雲雀くんでもいいのですか。いつかあなたに厭きたとき、彼が取る行動など一つしかない」
 …そんな恐いことを、きっと、わざと、言っている。私のために。そして、雲雀さんのために。
 目を閉じて、一つ深呼吸した。
 思い浮かんだのは彼の顔。
 だから大丈夫、と思った。
 今まで、他人に傷つけられるのが嫌で、人に傷をつけられるくらいならと自分で自分を傷つけていた。他人に否定されて自分を殺されるくらいならと、自分で自分を殺していた。
 雲雀さんになら傷つけられてもいい。彼になら、殺されたって、きっと文句ない。
 だから私は笑った。
 いつかの未来に後悔するのだとしても。今ここで、いなくなった私を必死に探しているのだという彼を、諦めることも、捨てることも、できない。