(あのパイナップル今度こそ咬み殺す)
 高速に乗って限界までアクセルを踏み込み、他の車を追い抜きながら、金色のポルシェでのことを連れ去ったのだという六道のあとを追う。
 彼女といることで忘れることのできた苛々が最高潮に達していた。
 六道のことを咬み殺さないと気がすまない。本当に、誰か殺してやりたい。
『恭さん捉えました! 次のインターを下りてください! 浜辺にポルシェが停まりましたっ』
 ナビからひび割れた音声が突き刺さり、解像度の悪い映像が一緒に送信されてきた。ヘリで探させた正解だったなと思いながら小さな画面を睨む。確かに浜辺の小さな駐車場に金のポルシェが停車して、中からあのパイナップルと、彼女が降りたのが見えた。

 ここで呼んだところで届きはしないと分かっていた。
 、と呼んでも彼女は僕に気付かない。画面の中の彼女が小さすぎて歯軋りしたところで映像がブラックアウトした。「哲?」と呼んでもヘリからの応答はない。
 ヘリに気付いた骸が手を打った可能性はある。ヘリを落としはしないだろうが、幻覚なり何なりで上手く誘導するくらいのことはやるだろう。
 舌打ちしてアクセルを踏み込む。これ以上スピードは出ないのに、気持ちばかりが急く。
 せっかく予約したレストランもこの分では間に合いそうもない。
 すっかり暮れた景色の中インターを突っ切って浜辺の駐車場に滑り込んで乱暴にドアを開け放ち、バンと閉めてつかつか歩いて行く。本気で殺り合うつもりだったから袖のボタンを外しネクタイも解いた。六道が何を言ってこようが咬み殺すつもりでいた。湿っぽい空気が鼻につく日本の狭く細い浜辺を踏んでスーツの内ポケットに手を突っ込む。空へと塊を二つ放れば、空中で展開したそれはトンファーとなって僕の手に収まった。
 六道は槍を片手に海を背にして立っていた。どうやらあちらも準備は万端らしい。
をどこへやった」
「さて、どこでしょうか」
 あくまで笑顔で応じてくる相手がこれ以上ないくらいうざい。鬱陶しい。死んでほしい。
 最高潮という限界を跳ね上がった苛々は理性を殺した。僕は目の前の獲物を仕留める猛禽類となり、相手は、この際何でもいいか。
 飄々とした顔で僕の攻撃をかいくぐる相手とは何年もやってきた。十年にはなるか。その間こういう殺し合いをしてお互い生きているのだから、本気でなかったのか、それとも、お互いの力量が同じくらいという奇跡じみた偶然が重なったのか。
 繰り出す攻撃がことごとくかわされる。あくまで笑みを浮かべたままの六道を今すぐぐちゃぐちゃに壊してやりたいのにあと一歩が届かない。
「どうしました、攻撃に精製さが欠けていますよ。ひどく直線的だ。まぁあなたはいつでもまっすぐですけどね。おかげで攻撃も読みやすい」
「うるさい」
 びゅおと空気を切ったトンファーはパイナップル頭の上を少し掠めただけで避けられた。六道は手も達者なら口も達者だ。
 リーチの長さを武器に繰り出される槍の攻撃をかいくぐって跳ぶ。浜辺の足場の悪さに舌打ちが漏れた。足が埋まる。

「あなたはに隠し事をしたまま娶ろうというのですか」

 攻撃の手を休めずに放たれた言葉の、責めるようなその口調が突き刺さった。胸か、頭か、どこかに。槍で突かれたような痛みを伴って。
 は、と息を切らせて振るったトンファーはことごとく宙を切るだけで届かない。
 六道はもう笑っていなかった。左右色の違う目で僕を見ていた。
 隠し事。こういう僕のことを言ってるのか。相手のことを殺そうとトンファーを振るう僕のことを。
 確かに彼女は知らない。こんな僕のことは知らない。知ってしまったとして、彼女が僕を受け入れてくれるとは限らない。他人にどう思われようがどうだってよかったのに、彼女の答えだけは恐くて、拒絶だったならどうすればいいんだなんて弱い僕がいて、だから、言い出せずにいる。
 胸か頭かを抉るような言葉にぐっと歯の根を噛み合わせる。
 本能に殺された理性は死に切れずにもがいている。鬱陶しいくらいに頑丈で、彼女に手を伸ばしている。
「…いつか話す」
「いつかとはいつです。都合のよすぎる言葉ではありませんか。あなたが調べればのことは簡単にデータが出てくるのでしょうが、彼女はそうではない。あなたが話さなければはあなたのことを理解できないのですよ」
「うるさいっ!」
 叫んだ。反射のようなもので。
 トンファーを振るって砂を蹴る。槍を構えた相手に突っ込んだのは正面から。まっすぐすぎると自分でも思った。
って、うるさいんだよ。彼女は僕のものだ」
「まだあなたのものではないでしょう」
「もう僕のものだ。誰にも渡さない。邪魔をするなら君だって消すだけだ」
 槍の柄とトンファーがせめぎ合う。
 力の均衡が崩れるタイミングを読んだ方が勝ちだと僕の中の獣が笑ったとき、ざり、と砂浜を踏む三人目の足音がして、「雲雀さん」と、聞きたいと思っていた、でもこのタイミングでは聞きたくはなかった、声がした。
 その声を聞いた瞬間僕は負けていた。獣が悲鳴を上げて光に溶けて消えたのだ。衝動という力と勢いを失った僕は六道に薙ぎ払われ、砂浜を転がった。
 どうしてここで。どうして、このタイミングで。
 げほと咳き込んで口に入った砂を吐き出す。手を離れて転がったトンファーを拾う気さえ起きない。顔が、上げられなかった。
「雲雀さんっ」
 それでも聞こえる声は彼女がそこにいることを告げる。
 見られたんだ。僕がトンファーを振り回す姿を。人並み外れた身体力で、人を殺すこともできる力で、彼女も見知った六道を殺そうと本気だったところを見られた。
 こんな最悪な形で、見せつけるように。
 言葉も出てこず、顔も上げられない僕の前に、彼女が膝をついた。「雲雀さん」と呼ばれても顔を見ることができない。君が次に言う言葉を恐れて、僕は何も言えなくなっている。
 君に、拒絶されるのではないかと、恐れている。
「…雲雀さん」
 何度目の呼びかけになるのか、彼女の声に呼ばれて、視線を少し上げる。いつもと少し違うワンピース姿の君を首から下までしか見られなかった。その表情を見るのが恐かった。
「……今みたいなのを、仕事にしてるんだって言ったら、どうする?」
 もう誤魔化すことだってできやしないさ。自嘲気味に笑った僕の頬を知っている温度の掌が挟み、顔を上げさせられる。逆らおうと思えばできた力でも、彼女を否定する気など起きるはずもなく、従っていた。
 はいつものように表情がなかった。片方の手で僕の顔についた砂を払って「驚きます。でも、それだけです」と言った。それだけ、という言葉の意味を頭が理解しない。
「それだけ…?」
「はい」
「人殺しなんだよ。喧嘩ばっかりして、それでお金をもらってる」
「はい」
「最低な輩のすることだって思わないの」
「思いません。私は、そう思いたくないです。雲雀さんも、骸さんも、最低な人ではないですから」
 だから思いません。彼女はそう言い切って淡く微笑んだ。少し無理のある、まだ硬い表情だったけれど、それでも確かに笑ってみせた。
 その笑顔を、惚けたように見つめることしか、できなかった。
(……想像もしてなかった。そんなふうに肯定されることも、そんなふうに、笑うことも)
 彼女が僕を受け入れたのだと分かったら身体中の力が抜けて、過度の緊張とかその辺りから解放された僕は思い切り彼女を抱き締めて、僕を支えきれなかった彼女と一緒に砂浜に転がった。
 馬鹿みたいに安心している自分がいて、本当に、馬鹿だな、と思った。
「雲雀さん? 雲雀さん、痛いんですか?」
「違うよ。別に痛くない…痛くないから……」
 彼女の細い肩に額を押しつけて目を閉じる。
 車の音がしたところを聞くに、六道は道化のピエロを演じて帰ったということだろう。
 全くあの男。余計な真似ばかりしてくれる。今度会ったらとりあえず殴ろう。蹴ろう。それくらいはだって許してくれる。
 まだぼやけている視界で瞬きをして顔を上げた。二人して浜辺に転がってなんだか馬鹿みたいだ。
 息遣いが伝わりそうなほどに顔が近かったけれど、僕も彼女も逸らすことはなかった。

「…こんなところで、こんな砂まみれで言う予定じゃなかったんだけど」
「はい」
「僕と、結婚してくれる?」

 はい、と彼女は笑った。その笑顔が欲しくて初めて人に口付けた。知識も経験も乏しい僕と似通った君は、ただ不器用に、お互いを知りたいがために唇を重ねる行為に溺れた。
 一週間後に式がしたいんだけどと出会い頭に殴ってやった六道に言ったら驚かれた。殴った頬を押さえつつ「また気が早いことで…はそれでいいと?」「馴れ馴れしく呼ぶな。咬み殺すよ」「おお恐い」トンファーを構えると六道は肩を竦めて三歩くらい引いて距離を取った。
 ともあれ、僕が自分で招待状うんぬんとか書くわけがないから、その役目は面倒なことをしてくれた六道に押しつける。そのためにわざわざ探してやったんだから。
 六道は予想していたとでも言いたげなしたり顔でリストアップした書類の束を揺らして「まぁ、僕にかかればこのくらいはお手の物ですが」とか言ってくるのがムカつく。
 役に立たなかったらただの無駄骨だったろうに。僕とが、こうなるって分かっていなければ。
「…最初のとき、僕に電話をかけて呼び出したろう。あのときどこまで分かってたんだ」
 渋々訊いてやると、六道はふっと笑みを浮かべて「どうでしょうねぇ。まぁとあなたは似たもの同士過ぎましたから、恋なんて生ぬるいものではすまないのかもしれないとは思いましたけれど」「馴れ馴れしく呼ぶな」「はいはい、そう物騒なものを突きつけないでくださいよ」トンファーを避けて六道がまた三歩下がった。
 恋なんて生ぬるいと表現したこいつが、今は当たっていると思う。
 僕らは出逢ったときからお互いがお互いに似ていると思い、どこか違うということも理解しながら、その穴を埋めようとしていた。
 僕にはないものを君がくれるように。君が忘れようとしていたものを僕が与えるように。
 はぁと息を吐いてトンファーを下げる。
 認めたくはないけど、こいつには返しきれない借りがあるようだし。
「確かに、恋なんて生ぬるい。最初から愛してた」
「…君の口から愛なんて言葉を聞く日が来ようとは……」
「咬み殺すよ?」
「遠慮しておきます」
 トンファーを構えたとき携帯が震えて着信音を立てた。ポケットに手を突っ込んで六道を無視して携帯を耳に押し当てて通話を繋げる。相手が誰かなんて確かめずとも分かっていた。
『恭弥さん』
。何かあった?」
『いえ、大丈夫です。ただ、荷物がたくさんで、私では運べなくて…』
「哲はいないの」
『買出しに奔走してるみたいです。一度連絡してみたんですが、返事はなくて。…荷物、どうしましょう』
「…今から帰るから少し見ててくれればいいよ。無理しなくていいから」
『はい』
 再三無理をしないようにと吹き込んで携帯を閉じた。六道に背を向けて「そういうことだからそっちはよろしく」「僕に任せてしまってよろしいので?」「妙なものにしたら咬み殺す」「はいはい」やれやれと肩を竦めているんだろう六道を置いて、仕事場の一つであるビルを出て車に乗り込んだ。
 飛ぶように家に戻ると彼女がダンボールを引きずっていた。「っ」と声を荒げればはっとした顔で彼女がダンボールを手離す。「あ、ごめんなさい、一つでも運んだ方がいいかと思って…無理はしてません」痛そうに手をさすりながら言われても説得力に欠ける言葉だ。はぁと息を吐いて革靴を脱いで廊下に上がり、居心地悪そうに下を向いている彼女の手を取った。慣れない作業をしたせいで手が赤くなっている。
 僕より小さな手を労わって掌で包む。赤い色はすぐには消えてくれないだろう。せめてこれ以上ひどくならないようにしなくては。
「僕がするからいい。そうでなくても人を呼ぶ」
「…はい」
「だから、君はお茶の準備をすること。場所は分かる?」
「はい」
 こくんと頷いた彼女の手が僕の手からすり抜け、その背中がぱたぱたと廊下を駆けていく。急ぐ必要は少しもないんだけど、とその背中が見えなくなるまで見つめてから玄関先に積んであるダンボールに視線を投げて、彼女が引きずっていたダンボールに手をかけた。
 彼女が希望した洋風の部屋に荷物を運び入れて、廊下を通って玄関先のダンボールを運び上げてを続けているうちに、台所の方から日本茶のいい香りがした。「恭弥さーん、お茶淹れましたー」という声に呼ばれて「今行くよ」と返し、お茶の香りに誘われるように歩き出して、振り返る。
 玄関先には彼女のアパートにあった全ての荷物が。そして、向かう先の台所ではその彼女がお茶を淹れて僕を待っている。
 過去にも現在にも未来にも感じるものはなかった。今がよければどうだってよかった。そうやってずっと生きてきた。
 少しずつ埋めよう。僕にないものは彼女に教えてもらおう。彼女が忘れたものは、僕ができる限り一緒になって思い出そう。笑うことも怒ることも泣くことも二人でやっていこう。一人では無理だったことも、二人でならきっとできる。
 みたらし団子が一本と淹れたての日本茶の湯飲みを前に、彼女が手を合わせた。いただきますなんてしなくていいと思うけど僕も形を倣ってからお茶をすする。
 みたらしが好きだと言った君のためにおいしいと評判のところから買いつけたみたらし団子は、どうやらヒットだったらしい。串を持って頬を押さえた彼女は口元を緩めて笑っている。
「おいしい?」
「はい」
 声をかければ君は笑った。それが嬉しくて僕も笑った。それだけで世界は満たされた。僕も、君も、満たされた。
 みたらし団子と日本茶の休憩を挟み、ようやく買出しから帰った哲に荷物を運び入れるのを手伝えと命じて、台所で後片付けをしようとエプロンをつけたに足を止めた。「」「はい?」こっちを振り返った彼女の唇に唇を重ねる。日本茶とみたらし団子味だから、彼女の味はよく分からないんだけど。
 さらりと流れる黒い髪に指を通して「愛してる」と囁いてぎゅっと抱き締め、そばを離れた。台所を抜ける直前「わっ、私も愛してます!」と追いかけてきた声に笑みがこぼれて、ひらりと手を振って振り返らずに玄関まで行った。今振り返ったらまたそばを離れがたくなる。部下のいる手前、そこまでベタベタしているのも見せられない。
「恭さん、いい天気になってきました」
「…そうだね」
 からり、と下駄を引きずって出た玄関の外には蒼い空。
 君がきれいだと言ったから、お世辞ではなく、僕もあの空をきれいだと思えるようになった。
 たったそれだけのことかもしれない。ただそれだけで、と思うかもしれない。
 それでも、僕にはそれさえ奇跡だった。

神 の よ す が