飯事の代わりに剣道、ボール遊びの代わりに武道、三時のおやつには茶道。田舎の古い名家の四男として生まれた雲雀恭弥は物心ついたときからそういったことをして日々を過ごし、白くのっぺりとした塀の中の世界と空だけを見て育った。
 敷地内で行ったことのないところはないというほどに中を知り尽くした僕は、習い事のない空いた時間、塀の外へ出ようと画策することが常だった。
 中は知っている物と者ばかりでつまらないし、退屈だから、僕の知らない外の世界ならきっと面白いはず、と思ったのだ。
 僕について回る侍従を撒くのに少しかかったその日もそうだ。外へ行こうと思っていた。だから、親が大事にしていると知っている日本庭園の整った枝葉の木に足をかけ、踏んづけて、塀の瓦屋根へと登った。着物の裾が邪魔だと思ってたくし上げて、足をかけて、よじ登って。そうして僕は初めて塀の外という世界を見た。
 今思えばなんてことのない風景だ。でも、僕にはそれが初めての外の世界だった。
 それは、息を呑むほどには、想像を絶した広さだった。
 山の中からここまで続く細い道と、その道の両脇に広がる何かの畑。そして、そこを走ってくる一台の車が目に留まる。
 その黒塗りの車はうちの門前で止まった。
 改めて景色の中に視線を彷徨わせると、近くにはうち以外に家が見当たらない、ということにも気付く。そうか、だから外はいつも静かなのか、とすとんと納得したとき、「恭弥様!」と侍従の焦ったうるさい声が耳に突き刺さった。ああもう。見つかった。
 ひらりと塀を跳び越えて草履で外の土を踏む。うちの庭のよりも硬い。
 ガチャ、と視界の端で車の扉が開いて、中から僕と同じくらいの子供が出てきた。押し出されるようにして車外へ出た子供は僕と同じで着物を着ている。そしてふと僕に気付いて足を止めた。「恭弥様が外に出られたっ、誰か!」とうるさい声が塀の向こうからする。その声を聞いてか、子供はことりと首を傾げた。
「恭弥さま…?」
 問いかけているのか、よく分からなかったけど、浅く頷く。
 確かに僕は雲雀恭弥という名前だ。侍従がうるさく呼んでいるのも僕のことだ。兄も姉も名前は違うから、雲雀恭弥と言うのなら、それは僕のことを言っている。
 下駄を履いた子供が少し危なっかしい足取りでこっちに走ってくると、ぺこっと頭を下げた。訝しむ僕に、頭を下げたままの子供が言う。
「わたし、といいます。今日から雲雀家の侍女の見習いをさせていただきます。あまり接点はないかもしれませんが、憶えておいていただけると光栄です」
「……きみ、なんさい?」
「? 5歳です」
 顔を上げた彼女は不思議そうに僕を見た。
 5歳って言えば僕と同じ年頃だ。そのくせ、しっかりしてる。足取りは別として、言葉も、意志も、はっきりとしている。僕よりも。
 なんだか負けた気がして自分と同い年のという子供を睨みつける。彼女が困ったような顔をして「あの、何か」とこぼしたとき、家の門からどどっと人が出てきた。「恭弥様を捜せ!」と言い合う大人にちっと舌打ちしての手首を掴む。
「えっ、あの」
「ぼくはまだつかまりたくない。おにごっこ、つきあってもらうよ」
 不慣れな下駄を鳴らすを引っぱって塀の角を曲がる。
 どうせすぐに追いつかれるとは分かっている。一人で逃げるならまだしも、下駄を不慣れな感じで履いてる女の子を連れて逃げるなど。
 からころとうるさい音を出す下駄は、僕らの居場所を大人へと知らせていたことだろう。
 大人の足からすればもうあと十秒か二十秒の自由だ。
 けれど僕にとっては、そこが他に何もない世界でも、初めての外だった。見たもの感じたもの聞いたもの全てを憶えておこう。今度外に出るときまでその記憶を忘れないよう、自分の中に刻みつけて、取っておこう。そう決めていた。
 結果、僕らは三十秒後に大人達の手に捕らえられ、屋敷へと連行された。
 両親が待つ畳の部屋へと通され、というより押し込まれ、ついでとばかりに彼女の手を離さなかったら一緒に襖の向こうへと押しやられた。
 畳の十六畳間に座布団が二つ。その上に着物姿で正座している父と母の姿。僕は二人を他人を見る目ような目でしか見れず、めんどくさいなぁ、と思いながらの手を引っぱって親二人の前に座った。僕が引っぱってきたを見ると親は微かに顔を顰めたが、それもすぐになくなり、ああやっぱり僕はこの人達の血を引いているのだろうな、という無表情二つが並ぶのを眺めた。
「恭弥。どうして外へ出たのだ」
「いきたかったから」
「あれだけ駄目と教えたでしょう」
「ぼくのかってでしょう。そとがだめだというのなら、りゆうをおしえてよ。どうしてそとへいってはいけないの。あぶないものなんてなにもないのに」
 言い返す僕に、両親は口を閉ざした。一度だけ二人の間で目配せがあり、「いいかい恭弥。この土地にはね、鬼が憑いていると言われる」「おに…?」「そうよ。この土地にある祠にはね、鬼が祀ってあるの」「…だからなに? そんなの、めいしんってやつでしょ。かんけいない」そんな子供騙しが通じるものかと親を睨みつける。が、二人は揃って同じ方向、屋敷からは北に当たる方に視線を向けて、どこか、空寒いものを見るような目で襖の向こうを見ていた。
「鬼はいるよ」
「ええ。ねぇ恭弥、外をちらりとでも見たのでしょう。この周辺には他に家がないわ。どうしてだと思う?」
「…ここが、いなかで。ふべんだから」
「そうね。それもあるわ。けれどね、一番の理由はそれじゃないのよ」
「……?」
 首を捻った僕に、親は言う。「この土地は昔から幼子が鬼に憑かれやすいと有名なんだ。過去に何人もいるんだよ。鬼に憑かれてしまった子が」「獣のように、とはいかないわ。ただ、我が子とは思えないほど、変わってしまう」「私達はお前を無事に大人にしたいのだ」「ね、少し窮屈だろうけど、分かってちょうだい。何よりもあなたのために」親は最後にそう僕を丸め込んだ。ぐっと言葉に詰まった僕はとっさに言い返すものが見当たらず、はぁ、と息を吐くに止める。
 僕の隣に正座して、石像か何かのようにぴくりともしないをちらりと見やる。
 今の話。この子はどう受け取ったのだろう。
「…そうだわ。どうしても外が知りたいというのなら、その子から聞きなさい。お前と同じ年頃で、話もしやすいでしょう」
「え、」
 息を吹き返したようにぱちくち瞬きして声を漏らしたが、次には畳に手をついて畏まった礼をした。「はい、奥さま」と言う彼女の片手は僕が握ったままだったので、畏まった礼はいまいち決まっていなかったけど。
「…おにがついている、だって。ほんとうかな」
 解放されたものの、罰として夕飯は抜き。部屋で謹慎を言い渡された僕は、襖に寄りかかってぼそっとそうぼやいた。襖の向こうからは「さぁ、どうなんでしょう」と感情の読めない平淡な声が僕に応える。
 どうしても、というわけじゃないけど、中のことは知り尽くしていた僕は、外のことの方が知りたかった。次々降ってくる作法や書道の勉強なんかより、一度教えられたら全てできてしまう武道なんかより、家に代々伝わる業なんかより、外のことが知りたかった。
 どうせ今日は謹慎で部屋から出られないわけだから、こうして襖越しに彼女の話を聞いている。
 話が途切れた合間にゆるり顔を上げれば、いつもの自分の部屋があるだけ。
 御守りとして部屋に飾ってあるだけの重い宝刀と、どこかの芸術家が描いたんだろう水彩画と、壁際にたたまれた布団一式、書物が積んである黒塗りの机。光源は机の上の蝋燭の仄暗い光のみ。
 ぼんやりとした薄い暗がりの夜は、いつも通りすぎて、なんの面白みもない景色。
 襖は障子のように透けないから、襖を挟んですぐ向こうにいるはずの彼女は見えない。
 、今どんな顔をしてるだろう。少しくらい開けたっていいだろうけど、今日から雲雀家に仕える身になった彼女はそれをよしとはしないだろう。またさっきみたいに畏まって親の前に出されるくらいなら、仕方がないから、僕が我慢してあげよう。
「…恭弥さまは、外へ出たいんですか?」
 襖の向こうの声に「うん」と答える。「どうしてですか?」という声に「なかはたいくつだから」と返すと、少しの沈黙のあと、彼女はこう言った。「外は、怖いところですよ」と。
 怖い。その言葉の意味を計りかねて、眉を顰める。
 怖い。それは、具体的に、何が、どう、怖いのか。
 今日僕が初めて見た外の景色。何もなくて、自然に溢れてて、山の中にあるこの屋敷のことが分かっただけの景色。
 君はもっと広い世界が外にあるという。あの山を越えた向こうに、もっと広くて、僕が知らないものがたくさんたくさんあるという。
 僕はそこへ行ってみたい。
 こんな狭い屋敷の敷地内だけで、この身体を持て余すなど。したくない。
 立ち上がって、とたとたと畳の上を歩いて、飾ってあるだけの宝刀に手を伸ばす。ずっしりと腕に重いそれの鞘に手をかけると、いつも、よく分からない熱い感覚が掌から全身へと巡る。
 こんなに重いものなのに、鞘から抜こうと思えば刀身を抜けた。
 キーン、と静かな音を放って鞘から空気に晒された、銀に鈍く光る刀。これが僕の御守りなんだと親は言う。代々伝わるこの宝刀が、きっとお前のことを守ってくれるからと。
「…こわいものなんて、ぼくがぜんぶきってあげる」
 ぼそっとぼやいた声は襖の向こうまでは届かなかったようで、返事は聞こえなかった。
 いつも道場で竹刀を握るのと同じ感覚で、両手で刀の柄を握る。
 くすくすと耳元で笑ったような声が聞こえた気がして「?」と襖の向こうの彼女を呼ぶ。「はい、いますよ」と返事をする彼女の声音に少し不思議そうな色が混じっているところを聞くに、今の笑い声は彼女ではないようだ。
 なら一体誰が。
 腕に重く、熱いその刀に、僕は初めて空寒いものを覚えた。
 今。僕はどうして刀を握ろうと思ったんだっけ。どうして鞘から刀身を抜いたんだ。今まで興味心で宝刀を手にしたことは何度もあるけど、鞘から抜いたことはまだなかったはずなのに。

 長い年月を過ごした猫は尻尾が二つになって化け猫になるなんていう。
 なら、長い年月を過ごしたこの刀は、一体何になっているんだろう。

 鈍く輝く刀身を鞘に押し込み、ずしっと重いそれを壁際に戻す。
 もう耳を撫でるような笑い声は聞こえない。
 台座の上に据えた刀はまた飾りへと戻り、いつもと同じように、ただそこにあるだけだった。

「はい、恭弥さま」
「はなしをしてよ。なんでもいい」
「え? そうですね、じゃあ…」
 刀から距離を取るように襖へと寄り、これを開けたらその向こうにがいる、と自分に言い聞かせ、僕は彼女の声に意識を澄ませ、さっきの感覚を忘れることに努めた。

アダムイヴ擬態