一家に一台パソコンがあるのは当たり前で、テレビがない家なんてほとんどない情報社会の時代。携帯電話なんて便利なものを自分と同じくらいの子供が持っているのを横目に眺めつつ、不幸な事故で両親を失った私は、遠縁の雲雀家へと引き取られ、片田舎の大きな屋敷へとやって来た。
 そのお屋敷は和服であることが常であり、電気こそ引いてあれど、無駄な家電はない。テレビも携帯もパソコンもないのだ。少なくとも、私が出入りできる部屋にそういったものは置いていなかった。ここはまさしくテレビの中に出てくるような一昔前の日本の和を再現した場所だった。
 雲雀家に仕えることになった私の立ち位置は侍女見習いだ。
 まだ5歳だけど、私は自分の頭には少し自信がある。その辺の5歳よりはできているはずだ、と自負だってしている。
 同い年の、雲雀家の四男恭弥さまとは結構いい勝負だ。
 彼は男の子だけど白い肌をしていて、真っ黒い髪をしている。烏みたいに濡れた黒い髪だ。漆黒で、着物もだいたい黒くて、赤い帯を締めている。その彼は、頭もいいけど、何より剣術や体術の才能があった。私にはそういったものがない。総合すると、私より、恭弥さんの方が優れている。そんな気がする。
 見学していろと引っぱり込まれた道場で、彼は先生である大人を負かした。鮮やかな空中からの剣技で。
 正式な試合だったら今のは反則技となって無効だろう。けれど、生き死にでの戦いなら、今のは彼の勝ちだ。
 ほー、と目を丸くする私に満足したのか、「きょうはもうおしまい」と勝手に練習を切り上げ、道場を出て行ってしまう恭弥さま。
 私はあわあわと先生と恭弥さんの背中を何度か見比べ、厄介ごとを負うのはごめんだと判断して「失礼しますっ」と頭を下げて恭弥さんを追った。先生の方は腰をしたたか床に打ちつけたのか、まだ呻いて起き上がっていない。下駄を引っかけてからころ鳴らせつつ彼の背中に追いつく。
「恭弥さま、あれは反則技ですよね? 正式な試合だったら無効です」
「かったほうがかちだよ。かたにこだわるなんてくだらない」
「でも…」
 言い募る私をじろりと灰の瞳が睨む。「なに? ぼくがかったらだめなの?」「い、いえ。そういうわけでは。ただ、雲雀は古い名家なので、簡単に型にこだわらないって言うのは、なんていうか、すごいなって…」「……べつに」ぷいっと顔を背けた恭弥さまがぼそっと付け足す。「…にいさんたちはね、ぼくのこういうところきにいらないんだってさ。できすぎるからって」とんだひがみだよね、とぼやいた恭弥さまが自室へ引き上げて行くのについていき、怒られるのかもな、と思いつつ、恭弥さまを見送った私は急ぎ足で自分のいるべき場所へと戻った。
 持ち場を離れていた私は当然怒られた。が、恭弥さまについていたのだというと渋い顔をされ、結果的に罰はなしという形に収まりはしたけれど、延々と説教された。
 あなたは身寄りがないんでしょう。ここを追い出されるようなことはしないでちょうだいよ。長い説教はそんなところにまで及んだ。
 私は小さくなって、はい、はい、と返事をする人形になる。行儀よく頷いて返事をすれば大人はほどなく納得してくれると、私は知っていた。
 侍女としてこなすべき仕事は、まだまだたくさんある。
 私が一日にこなすべきことはたくさん。とは言っても、最初は見習いだから、床の雑巾がけとか、玄関先を箒で掃くとか、そういった雑用ごとだけど。
 私が自分の時間を取れるのは、眠る前の少しの間だけだ。
「ふう…」
 与えられた六畳一間。部屋の隅に寄せられた布団一式に、座布団と、小さなちゃぶ台。その上でゆらゆらと揺らめく蝋燭の光を眺め、眠気でうつらうつらしてきて、のそのそ動いて布団を敷いた。
 もう寝よう。そうしよう。明日だって早いんだから。
 ふっと息を吹きかけて蝋燭の火を消すと、辺りはすぐに暗くなる。
 廊下とこの部屋とを仕切っているのは襖だけ。
 リーン、と虫の鳴く声がするだけの、怖いくらいに音のない世界。
 朝まで光の絶えない景色を当たり前として見ていたからか、電気の光を見かけることの方が少ない今が、怖いと感じる。少しだけ。車の走る音や人の歩く音、他にもたくさんの音がしていたあの世界を知っているからか、無駄な音が少しもしないこの世界が怖いと感じる。
 駄目だ。怖いなんて思ったら余計に怖くなる。眠れなくなる。
(うう…)
 のそりと起き上がって、一つ息を吐いて、布団を抜け出す。眠たかったのに、余計なことを考えたら眠気がどこかへ行ってしまった。
 そろりと襖に寄って人の気配を窺い、からり、と襖を開けた。誰もいない。よし。
 そろそろと内廊下を歩き、角を曲がって、庭に通じる道を辿る。
 少し月でも眺めよう。こんな場所だからきっと星はよく見える。外を眺めて、頭を冷やして、眠ろう。私には明日も明後日もある。
 白い塀のある庭先に出る。闇に沈む塀は灰色にのっぺりとして、5歳の私を阻む将来の壁が如く聳えている。恭弥さまはこれを登って外へ出た。彼のあの身体能力なら、日本庭園の頼りない木の枝だけでも塀をも越えられるだろう、なんて思う。
 縁側に腰かけて、浮いた足をぶらつかせる。
 見上げれば夜の景色。町中では絶対に見ることのできない、降ってくるような星の群れ。
(あれ。月がない)
 ということは、今日は新月なのか。それとも、もう月は沈んでしまったのだろうか。ここは山に囲まれているから、たまたま隠れてしまっていて見えないだけ、なんだろうか。
 月明かりがないから余計に星がよく見える。寒気を感じるくらいに。
 寒いな、と着物の腕をさする。しまったな、上着を着てくるべきだった。
 ぽけっと一人空を見上げていた私は、子供だった。その辺にいる5歳よりはできた子供のつもりでいるけれど、所詮は子供。
 わし、と大人の手に腕を捕まれ、唐突なその手の存在と痛いくらいの力に顔を顰めた間に障子の部屋に連れ込まれた。5歳の私など攫うには軽い子供だ。精一杯の抵抗でじたばたともがいても、塞がれた口からは呻き声しか漏れず、げしげしと相手を蹴飛ばしても全然効きはしない。
 はー、と粘っこい息が耳を撫でて、ぞわっと背中が凍った。
 手つきで分かる。相手は男の人だ。月もなければ光源のない部屋では相手の顔も分からない。それでも、顔にかかった粘っこい息で、相手が私をどうしようとしているのかは分かる。
 手で塞がれた口で精一杯の悲鳴を上げる。くぐもったこの声を、誰かが聞き届けてくれることを願って。
 ここは、古くからある名家だ。そんなところに変な人なんているはずがないと、甘く見ていたのかもしれない。
 着物の帯を解こうとするその手を精一杯の力で掴んで抵抗する。何度も相手の身体を蹴り上げる。それなのに何も効き目がない。
 しゅる、と解かれた帯にくそうくそうと泣きそうになっている私の視界に、連れ込まれた部屋の障子戸の向こうに、小さな影が映った。小さな影に不釣合いな細長い物を持っている人影。
 すぱん、と障子戸が引き開けられた。私を襲った人の反応は早い。そばにあった花瓶を掴んで振り被る姿が暗い視界にぼんやりと見える。
 そして、次の瞬間、その腕が花瓶を持ったままごんと畳の上に落ちた。
 着物の襟をたくし寄せた私が目を丸くするのと、私を襲った人が痛みの悲鳴を上げるのは、ほぼ同時。
 障子戸を引き開け、持っていた刀を抜き放って私を襲った人を一閃して腕を斬り落としたのは恭弥さまだった。
 月のない夜とのっぺりと佇む灰色の塀を背にした彼の瞳が仄暗く、赤い色をしている。
 ぽかんとして何も言えない私を流し目で確認した彼は、とたと一歩踏み出し、流れる動作で赤い雫を一つ落とした刃の先を僅かに持ち上げた。
 そして、彼は、私を襲った人を粉々になるまで斬り刻んだ。
 駆けつけた他の大人が止める勇気など持てないような剣さばきで、立ち入る隙のない動作で、私を襲った人を粉々に。したのだ。
 その人は昼間に会った剣道の先生だった、と、私は今頃になって気付いた。
「……、」
 赤い色で染まった視界で、びちゃ、と足に跳ねたものを指先でつまむ。
 これは、内蔵の。どれか。だと思う。
 血のにおいが立ち込める部屋で、最後に先生だった人の顔に刀を突き刺した彼が、ようやく動きを止めた。それまで誰も彼に近づくことができなかったけど、大人はその隙を見逃さず恭弥さまを拘束した。大人に両脇を捕まれた彼の瞳がどうでもよさそうに大人達から流れ、私を捉える。
 刀を取り上げられ、恭弥さまは大人達に連行されて部屋から連れ出された。
 私の方も遅れてやって来た侍従長に見つけられ、部屋から連れ出された。汚れてもいい古い着物にくるまれて抱き上げられ、まずは湯浴みをなさい、というその人の言葉に上の空で返事をしながら、剣道の先生だった人を肉塊になるまで斬り刻んだ彼の姿を脳裏に描く。
 …恐怖がなかったと言えば嘘になる。
 ただ、あの業は。どちらかというと、芸術だった。
 人を斬っているのに美しかった。人を斬っているのにきれいだった。見惚れてしまうほどには。
 彼の姿を思い出しながら、感じた違和感に小さく首を傾げる。
(刀を振るっている間、恭弥さまの目…赤かった、気がする)
 翌日。私と恭弥さまは現当主である旦那さまと奥さまに呼び出された。内容は当然、昨日のあの惨劇についてだった。
 恭弥さまはあまり積極的に話す人ではないので、二人の問いかけにむすっとした顔をして黙っていた。そんな恭弥さまなので、私はそろりと挙手をして喋ってもよいという了解を得てから昨日のあらましを辿った。
 もとはと言えば私のミスだった。眠れないから少し気晴らしに空でも見て、また眠ろう、なんて。5歳の子供なら夜の時間を与えられた部屋の中で過ごすべきだった。何かがあっても一人では対処しきれないことは分かりきっている。私はそれを弁えていなかった。
 …もう過ぎてしまったことだ。私には、申し訳ありませんでした、と畳に両手をついて頭を下げることしかできない。
 奥さまも旦那さまも何も言ってくれない。
 私は身寄りがない。ここが遠縁の親戚だった。ここを追い出されたら、こんな山に囲まれた場所で外につまみ出されたら、未来なんてない。町で手離されたとしても同じだ。先の未来にいいものなんてない。
 滲みそうになる視界で、唇を強く噛んで必死に涙を耐える。
 奥さまも旦那さまも何も言ってくれない。
 ここから追い出されたらどうしようという恐怖で縛られた私の横で、それまで黙っていた恭弥さまがだんと強く畳を踏み締めて一挙動に立ち上がった。
「おかしいでしょう。どうしてがあやまってずっとあたまをさげてるんだ。わるいのはをおそったやつで、じゃない」
「…………」
 恭弥さまの言葉に少し安堵する。あなたは、少なくともそう思ってくれているのだ。そうだと分かったら少し気持ちが緩んだ。
 確かに、彼の言葉の通りなら、私は被害者でいられる。それで終われる。
 でもね、あなたは一つ、重要なことを忘れている。
 私は確かに被害者であったのかもしれない。
 でも、一使用人のせいで雲雀家の人間が手を汚したなんて、当主さまが認めるはずがない。
 私は、あなたの手を、汚させてしまった。人を殺させてしまった。私が不用意なことをしなければあなたは5歳で手を汚すことなどなかった。私がいなければ。私が。私が。
 奥さまも旦那さまも何も言ってくれない。
 は、と息を吐いた恭弥さまが私の手を掴んだ。引っぱられて、力で負けて、ずるずると引っぱられるまま、最後まで頭を下げたままで、私は応接間から連れ出された。
 すぱんと障子戸を開け放った恭弥さまが私を引きずったまま廊下を歩く。
「なかないでいいんだ」
「…、」
 ぼそっとした声に、私はようやく顔を上げる。
 すっかり滲んでしまった視界を手の甲でこする。こすってもこすっても涙は出てきて、ああ、私は取り返しのつかない失敗をしてしまったのだ、ということが分かる。
 私は取り返しのつかないことを。恭弥さまの手を、汚させて。血の色で。塗り潰して。
はなかなくていい」
 繰り返すような声に、私はようやく恭弥さまの方を見た。
 彼の瞳はなんだかおかしなことになっていた。灰色だったはずなのに、今は、赤い色と混じっている。灰が赤に流されようとしている。塗り潰されようとしている。そんな危うい瞳をしている彼が言う。無表情に、淡々と、「ぼくがぜんぶきってあげる」と、そう宣言する。私はそんな彼をぼやけた視界で見上げるしかなかった。
 肯定してしまえば、彼は宣言のままに、全部斬る。きっと己が思うままに斬って捨てる。そうやって私を襲った剣道の先生を斬り刻んだように。
 だから私は否定するべきだったのだと、今になって思う。
 …けれど。彼のその、いくばくかでも私を思って放った言霊を、私は、否定することができなかった。

 身寄りのない5歳の子供だった私。
 雲雀という古くからの名家の四男として生まれた恭弥さま。
 昔から鬼が憑いていると言われるこの土地で、出逢った私達。

 私は恭弥さまの腕に縋って泣いた。
 今現在。私を守ると口にしてくれるのは、あなただけだった。
 私は自分を捨ててまで雲雀家に仕えられるようなできた子供ではなかった。まだ生きたい、生きていたい、堕ちたくない、と思う、身勝手さを十分に残した子供だった。
 そして恭弥さまも。自分の思ったことは行動として表す身勝手さを残した、十分な子供だった。
 月がないに等しいその晩に、
 恭弥さまは、
 私を守るために、
 雲雀家の人間とその使用人全てを斬殺した。
 その日から、彼の瞳は赤い色へと変色した。
 …この土地には鬼が憑いている。
 特に子供に憑きやすいというその鬼が、彼へと宿ったのだ。
 兄を殺しても姉を殺しても変わらない表情と、助けを求める相手にも容赦なく斬りかかる彼を見ていることしかできなかった私は、そう強く予感した。
 使用人に守られて最後まで残った奥さまと旦那さま。その二人を前にしても血に濡れた彼の表情は彫像のように動かず、言葉もなかった。そして瞬きの間に二人へと斬りかかり、首を落とし、腕を落とし、足を切断し、胴体まで薙いで、さらに細かく刻まれて、人だったものは布切れを纏った肉塊に成り果てた。
 ぴっ、と刀を払った恭弥さまは最後まで表情を変えなかった。ただ、小さな声でぼそりとつまらないなとぼやいただけ。
 私はぐっと強く目を閉じて、罪深い自分が選んだ未来を思って、彼を思って、目を開けた。
「恭弥さま」
 全身が返り血で真っ赤に染まった彼から目を逸らさない。肉塊が転がるこの今から目を逸らさない。彼の手を汚した原因である自分から目を逸らさない。
 ゆるりと顔を上げた彼が、私が差し出した手を眺めて、肉塊を蹴飛ばしながら歩いてきて、手に手を重ねた。
 真っ赤になった彼の手をしっかりと握って、私は笑うことにした。
 ああ。なんて罪深い私。
 そして、なんて罪深い、あなた。

平等にした禁忌