「手軽なお化け屋敷きかーく! ってことでさんもどう?」
「はい?」
 塾の帰り道、気軽そうにかけられた声に、暑さでうだる気温の中気だるい返事で振り返る。立っていたのはクラスでも塾でもかわいいと男子から人気のある茶髪の女子である。
 男子は知らないだろうけど、この子、実はかなりの猫かぶりで男子の前では天然子を気取るけど女子の前では結構毒舌である。つまり軽く裏表があるわけだ。ということを知っているわたしからすると今の言葉には軽く眉を潜めてしまうわけであって。まぁ、顔に出さないように精一杯頑張ったけど。それより暑さの方が容赦がなくてもう溶けそうですけど何か。
 はぁ、と気のない返事をしたわたしにぷくっと頬を膨らませて「もー、いつまで腐ってるの! 夏だよ? さんどうせ夏らしいイベントなんて何も行ってないんでしょ? 私がいー機会作ったからさ! ねっ」さりげなく失礼だよ。誰が夏のイベントの一つも行ってないって言った。わたしだって夏祭りくらい行ったわボケ。
 と、心中で思うだけ思って「はぁ。えっと、他に誰が行くの?」とりあえず当たり障りないことを訊いてみると、彼女はぱちっと手を合わせて「そうね。今のところ…」と携帯を取り出した。何やらタッチして操作し始める。
 中学生でありながらもう携帯ですか。ま、かわいいあなたには親も甘くて防犯上の理由でとかうんぬんこじつけて与えたのかもしれないけどね。羨ましいなんて思ってないよチクショウめ。
 ほら、とタッチで動作する携帯の画面を見せてきた彼女。『参加者名簿』と題されたメモ帳にはずらりと名前が並んでいる。クラスメイトが半分に塾のメンバーが半分といったところだろうか。
 うん、分かってはいたが男子ばっかりだ。せいぜい彼女が考えたことは『女子が一人じゃあ狼の群れに羊が一匹迷い込むようなもの、危険だわ。多少私を守る群れが必要ね』とかそんな感じなんだろう。『あと、私のかわいさを引き立たせるためにも比べられる対象が必要だわ』あ、こっちの方が本音な気がする。
「ね、行くでしょ? もう夏休みも中盤よ? ここで思い切ったことしとかないと夏休み明け絶対後悔するわよ? ね、だから行くわよね」
 夏の陽射しに負けないばかりの眩しいきらっとした笑顔でたたみかけられて、はぁ、と溜息を吐いて汗で額にはりつく前髪を手で払う。
 いちいち気に入らないところはあるにしても、彼女の言い分に一つ思い当たることがあるのも確かだ。
 夏なのに海にも山にも行かずプールだって行ってない、せいぜい夏祭りにひっそり参加してリンゴ飴を買ってかじった程度のわたしが、このまま塾という温度的快適空間で無為に時間を過ごそうものなら、夏休み明けにはきっと『ああしておけばよかった』『こうしていればよかった』と後悔していることだろう。もっと違うことができたはずじゃないか、と。一年で一番気だるい季節だけれど一番長い休みがある季節でもあるのだ。ここで何か行動を起こさなければ、今年の夏もつまらないままで終わるだろう。
 これも何かの縁。彼女の思惑にハマるのは癪だけど、一歩、踏み出してみよう。ぐだぐだしたまま夏休みを終えないためにも。
「…じゃあ、行こうかな」
「決まりねっ!」
 慣れた手つきで携帯にタッチした彼女はその名簿にわたしの名前を追加した。
「じゃあ詳細が決まったらメールを回し…あ、さん携帯ないんだったね。じゃあメモして渡すわ。楽しみにしてて」
 きらきらっとした笑顔で夏の陽射しを跳ね返したかわいいクラスメイトは短いふわっとしたスカートを翻して快適温度の塾空間へと引き返していった。わたしは真夏日の白い陽射しの下でぼやっと彼女を見送る。
 …いいよね。あなたはさ。塾に通ってるくせにたまにしか勉強してなくて、それでも『かわいい』って外見の条件だけで優遇されて。知ってるよ、先生があなたのこと気に入ってるってこと。テストの点が悪くたって全然怒らないんだってこと。わたしなんか小テストの点数でさえ気にして普段から机にかじりついて勉強ばかりしているのに。

 あなたみたいな駄目な子はいらないのよ

 耳にこびりついた母親の声に緩く頭を振る。
 わたしは、今日はもうこれでおしまいだ。塾の宿題はきちんとしているから彼女のように居残りもない。
 ミーミーミーと壊れたように同じ声で鳴き叫ぶ蝉の多重奏が耳にうるさい。
 暑さにやられて倒れる前に、気分が悪くなる前に、ふらっと歩み出して、汗の伝った額にハンドタオルを押し当てる。
 今日も暑い。猛暑日だ。
 家にあまり帰りたくない。でも、わたしの家はあの家なので、帰らないとならない。
 温度的に塾は快適空間だけど、居残りを指定される子達はみんな高いお金を溝に捨てても親に怒られないある意味恵まれた子供達だ。わたしとは違う。わたしも塾の快適空間で好きなように過ごしてみたいけど、そんなことできやしないのだ。
 どこかに寄り道してみようという気も起きない。そんなお小遣いもないし。
 カチリ、と自分の中でスイッチが切り替わる。
 塾を出た。もう勉強しなくていい。帰ったら学校の宿題に取り組めばいい。あとは好きにしていいんだ。
 ……でも。何をしよう。
 赤信号に立ち止まると、横断歩道の白い線が敷いてあるアスファルトの上で陽炎がゆらゆらと景色を揺らめかせていた。
 こっちだよ、と、まるで誰かに手招きしているよう。
 ふらっと一歩踏み出したわたしの目前をファーンと高い音を立てて走り去るトラックが一台。
 歩道の大地を踏み締め意識を改め、気紛れを起こさせた陽炎を睨むと、もうあの揺らぎはどこにもなかった。
 誘われた『手軽なお化け屋敷企画』、つまるところ『肝試し』の決行日は、お盆となった。
 なぜか? まぁ、お盆が雰囲気も出ると思ったんでしょう。お盆といえば祖先の霊を祀る行事として有名だし。
 でも、今のお盆は日本が新暦を採用するようになってから本当の日付より一ヶ月ズレているということまでは知らないらしい。本来なら7月の15日前後が日本にとってのお盆である。つまり、地獄の蓋が開いてご先祖の霊が現れると仮定したとしても、それは今じゃないし、そもそも幽霊なんて本当にいるのかどうか。
 この間見たスペシャル番組で『心霊写真は作れる』みたいなことを言っていた。実際その方法で撮ってみせ心霊写真を作ってみせた。その人曰く心霊写真として出回っているものの九割は説明のできる心霊写真なのだという。残り一割について言及しなかったのは、まだ解明していないだけか、それとも、残り一割は本当に本物だと認めているのか。
 ということをみんな知らないようなので、場を冷めさせるだけだろう余計な知識は胸の内に抱え込んで、わたしは誰に声をかけられることもなく黙々と前を歩く集団についていく。
 人数的に、二十人はいるのではないだろうか。これだけ集まると結構な人数である。うち女子はわたしと企画者のあの子を入れてたったの四人だけれど。
 家であまりにやることがなくて暇だったので、今日のために色々用意してみた。うん、あまりにもやることがなかったので。
 普段は学校→塾、宿題をこなしているうちに終わる日常だけど、夏休みは学校がなくて、部活にも入ってないわたしにはどうやっても時間が余る。わたしには趣味らしい趣味もなくて、退屈に耐えかね、ついに馬鹿なことをしてしまった。企画日がお盆で墓地が近く廃屋になっている日本家屋が舞台と知らされて、暇潰しがてら、お盆について調べ始めたのだ。
 前を行く十人くらいの集団を眺める。一人の女の子を取り囲む男子十人。なかなかにシュールな絵面である。他に和気あいあいとした空気で話をしている女子と男子のグループもあったけど、わたしはそこから外れて、一人、肩掛け鞄の中身を確認する。
 一番に目に入ったのは長方形の紙箱。『御供物』と物々しい筆字のプリントされた紙で封がされていて鞄の中でも目立っていた。
 お盆は霊に対してお供え物を用意するのだそうだ。昔話で言うお地蔵様の前におにぎりとたくあんを置くような感覚だろうか。
 米などから作ったデンプン質の粉に水飴や砂糖を混ぜて着色した、おばあちゃんの家にあるような砂糖菓子。食べてみたことはあるけどおいしくはないこれが日本的には通例のようなので、スーパーで同じものを買ってみた。
 それから、きゅうりとなすで作った精霊馬も潰れないように意識しながら持ってきた。この時期テレビでよく見かける爪楊枝などで四本足を生やしている野菜だ。これには一応意味があり、お盆の期間中あの世とこの世を行き来するための乗り物、らしい。
 あとは、盆提灯はさすがに無理だったので、ろうそくとマッチを持参してきた。
 …別に、だから何ってわけでもない。幽霊を信じているわけでもない。前を行くあの子のようにかわいらしく怖いものみたさで企画をしたんだとか夏のシメとして肝試しは外せないとか言うつもりはない。そりゃあ、あんなふうにチヤホヤされたら人生楽しいんだろうなとか思うけど、わたしには逆立ちしたって無理だろう。
 はぁ、と諦めた息を吐く。人生負け組。うん、そんな感じ。
 前を行くかわいいあの子の男子の前での完璧なまでの猫かぶりの姿はある意味称賛できる。早く次の彼氏できるといいね。財布にして頼ってるんだもんね。知ってる知ってる。それを承知でアタックする男子も馬鹿かという話だけど。
 はぁ、とまた一つ溜息を吐いたとき、ゆらり、と何かが揺れた気がして足を止めた。
 …いや、何も揺れてない。長い布切れが揺れた、ように思えたけど、そんな長いものを羽織ってる人はいないし。あの子の髪は脱色した茶色だ。あの色が揺れたのではないと思う。揺れたとして、それはもっと暗い色…だった気がする。陽炎という可能性もない。もう日が沈んだ。陽射しの強い日中ならまだしも、夕暮れどきに土の地面の上での陽炎はない。
さん?」
 声をかけられて、はっとして意識を引き戻す。わたしの右斜め手前で地味めの男子が控えめに前方を指していた。「その、遅れてるよ」と言われて「ごめん」と返して止まっていた足を前へと送る。
 誰だったかなと改めて斜め前を行く男子を眺めて、ああ、沢田か、と合点した。テストも勉強もダメダメでダメツナってかわいそうなネーミングで呼ばれている子だ。こうはなりたくないなとわたしなんかが哀れんでしまうツイてない男子。
「廃屋だって。さん怖くないの?」
「とくには。そう言う沢田くんは?」
「俺は、あんまり得意じゃないんだ。怖いのとか」
「じゃあなんで今日参加したの? 嫌なら来なければよかったのに」
「…たぶん、さんと同じ理由だと思うけど」
「へー」
 あはは、とぎこちなく笑った彼も、わたしと同じく、このまま夏が終わるのはよろしくないと危機感を覚えて今回の企画に参加したようだ。
 中学二年生。色気づかない方がおかしいのだろう。だから、前を行くかわいいあの子は特別なことをしているわけじゃない。そりゃあちょっと調子乗ってるところはあるけど、常識を逸脱しているわけではない。
 まぁ、それが厄介といえば厄介だ。
 いっそ規格外みたいなキチガイぶりを披露してくれればいいのにね。
 でも、ずる賢い人間ほどそういう馬鹿なことはしない。きっちり人の前で自分を使い分けて常に自分が有利な状況を作り出す。いわばペテン師。
 問題の廃屋は『墓地が近く』、今は『夜』、おまけして『お盆』ということが手伝い、雰囲気充分な肝試し場として鬱蒼と生い茂った暗い緑の間で朽ちていた。
 それに、思っていたより敷地面積が広い。どうやらこの廃屋は以前はお屋敷だったようだ。すっかり朽ちて崩れている木目の門をくぐるときに、こちらもすっかり朽ちて色味も抜けてヒビ割れている表札を見つけた。かろうじて読み取れた文字は『雲雀』と書いてあった気がするので、ここは雲雀という姓の人が住んでいた場所、ということになるのだろう。
 とくに肝試しをしたいわけでもないらしく、かわいいあの子は男子をぞろぞろ引き連れて適当な感じでスタートする。残った人間が置いて行かれないようについていく程度。
 が、彼女がここを舞台として選んだのには、一応理由があるようだ。
 わざとらしくない程度、でも自然よりはちょっと仕種の入ってる動きで敷地内と朽ちた廃屋を眺めた彼女が声を潜めて言う。
「ここはね、その昔、自殺者が出たお屋敷なんだって」
「マジかよ」
「マジマジ。でね、最初は女の子が蔵の中で首をくくって死んでたらしいの。それが始まりで、次は男の子、そしたらその家族もって、みーんな、首をくくって死んだらしいのよ…」
「うえぇ」
 へぇ、と淡白に心の中で応じて蔵とやらを探してみる。物を保管するのが蔵だろうからお屋敷よりは丈夫そうなイメージだけど、その蔵とやらは敷地内のどこにも見当たらない。あるいは、その不吉さから取り壊されてしまったのだろうか。それなら一緒にお屋敷も壊せばよかったのに。もし霊魂とやらが存在していたなら私達子供の訪問に迷惑そうに顔を顰めているに違いない。
 そんな感じで戯れる男女が一番手を切り、崩れて壊れている玄関の引き戸の扉を踏みつけ、懐中電灯を手に手に暗闇をライトの光で切り裂きながら中へと入っていく。わたしも懐中電灯を取り出し、集団についていきつつ、ふと目に止まった景色に一人最後尾から抜けた。沢田は怖いのが得意じゃないとだけあってなるべく前の集団にくっついていったので、離脱したわたしを気にかける人はいなかった。
 わたしが怖いのは、お父さんとお母さんだ。幽霊なんかよりそっちの方がずっと堅実で率直な問題だ。
 最近離婚話も持ち上がっているし、しょっちゅう喧嘩の声を聞く。
 母さんはわたしに当たる。ひどい言葉も使う。暴力には出ないけど、いつその手段に出られるとも分からない。
 わたしは母さんの望むとおりに塾に行って『全部あなたのためなのよ』と言う知ったかぶりの顔に分かった顔で頷くしかない。テストでいい点を取ることを説く母に分かった顔で頷く。それはわたしのためと言うよりはあなたのためでしょうお母さん、とは言えない。外で主婦同士の話のネタで子供のことを扱うんでしょう、テストの点数とか成績表とか、なんて、口が裂けても言えない。そんなことを言った日にはわたしは間違いなく平手を食らうだろう。そんなのごめんだ。だからわたしは口をつぐみ続けるしかないのだ。
 ああ、なんてかわいそうなわたし。
 生まれる環境がもう一つでも違っていたら、男子を虜にして笑うあの子みたいになれていたかもしれないのにね。
 人生バラ色で。常に青信号みたいな快調さでさ。
 いつ踏み抜くかとヒヤッとした心地を味わうようなギシギシという危うい音を響かせながら、なるべく静かな動作で畳とも言えない床を歩き、朽ち果てた部屋の奥へ。
 そこには仏壇があった。かろうじて仏壇だと分かるような形だったけど、うちのものより立派だ。
 そっと鞄を置いてしゃがみ込む。懐中電灯を床にそっと置いて、ろうそく立てに白いろうそくを突き刺し、しゅ、とマッチをすって火をつける。それから持ってきたきゅうりとなすの精霊場をビニール袋から取り出して仏壇の前に置いた。それとお供え物の落雁。
(うちのクラスメイトがお騒がせして大変申し訳ありませんが、もう三十分ほどお見逃しください。それで彼らの気もすむと思います)
 南無、と仏壇に向かって両手を合わせ、そんなことを呟いてみる。
 …わたし、何しにここへ来たんだっけ? 確か今年の夏くらいはもう一歩って思ってこの企画に参加したんじゃないっけ? それがなんで廃屋の仏壇前で一人両手を合わせてるんだ? おかしいだろ。
 とは思うものの。集団があればその中で損をしている自分というのは自覚ずみなので、今更残念がることもできない。そう、これがわたしなのだ。この負け犬がわたし。
 ああ、なんて無様。なんて惨め。なんてかわいそう。
 そうやって自分を慰め、はぁ、と湿っぽい息を吐き出したとき。目の前のろうそくの炎がゆらりと揺れた。風もないのに。明らかにわたしの吐息とは違うリズムで。
 きっと気のせいだ、と炎に集中した視界の中で何か黒いものが視界を横切った、気がした。
「………、」
 ごくり、と生唾を飲み込む。
 幽霊なんて。いるわけがない。

 ここはね、その昔、自殺者が出たお屋敷なんだって

 嫌なタイミングで嫌な言葉を思い出してしまった。
 きゅうりとなす。作ってきた二つの精霊馬の足がカタカタカタと振動して動いている。地震なんか起きてないし、どこかで誰かが派手に走ってたとして、それはわたしの身体にも伝わる振動のはずだし、この建物自体を震わせるはずだ。違う。そうじゃない。この建物は揺れていない。ただ目の前の精霊馬だけがカタカタと震えている。
 どうしよう。どうする? なんかやばいってのは分かるけど取れる手段がない。携帯はない。うまい説明のできない現象を前に強張っている身体では転ばずこの部屋を逃げ出せる自信もない。じゃあ恥を承知で悲鳴を上げるか? それなら一人か二人くらいは駆けつけてくれるだろうか? それでどうにかなるって保証はないけど。
 今やガタガタガタと激しくぶつかり合う二つの精霊馬を前に、なんとか口を開けたけど、声が出てこなかった。
 あ。しまった。わたし、ビビってんだ。父さんと母さんがもっぱらの問題ではあったけど、こういう恐怖もあるんだ。
 知らないものって怖いよね。知らない問題とか怖いよね。解けない問題とかいつまでも頭の中で引っかかって宙ぶらりんになってる。知らないって怖い。知っても理解できないものもやっぱり怖いけど。
 カタカタカタと新しい音にぎこちなく視線を向けると、落雁の箱に蓋をしている『御供物』の紙が外れていた。中からピンク色をした落雁が一つ、誰の手も借りることなく宙ぶらりんになっている。
 駄目だ。声が出ない。
 真夏の夜は蒸し暑い。それなのにわたしの全身は氷に埋められたボトルのように冷えきっていた。指の先が冷えてかじかむほどには。
 やがて、グシャッと音を立ててなすときゅうりの精霊馬がひとりで潰れたとき、わたしの恐怖は最高値に達した。
 あるいはそのまま気を失ってしまうのではないかという緊張の直前。ひとりで浮いていた落雁をつまむ白い指が見えた。そこからするすると手、腕、肩、と人の形が現れていく。
 立っていたのは、夜の中で鮮やかな色の着物を着た誰かだった。
 それがこの世の人ではないということは一目見て理解した。いやに生白い肌の色も気になるけど、それよりも、着物の柄が絶えず動いていることが印象的だった。夏を意識したように鮮やかで涼しい水の色をした着物なのだけど、柄であるはずのめだかや金魚が生地の中を落ち着きなく泳いでいる。まるで生きている本物の魚のように。わたしが思うに、そんなハイテクな着物は日本にはないはずである。
「随分気が利くんだね。充分だ」
「…え?」
 掠れた声を返したとき、わたしはようやく自分の声が戻っていることに気がついた。
 表情を動かさず落雁を口に運んだ着物の相手は、声が低かったので、男子なのだろう。体格差を感じさせない着物という格好や中性的な顔立ちからパッと見ただけでは分からなかったけれど。
 それで、相手はゴリゴリとおいしくないだろう落雁をかじって顔を顰める。「安物」「スーパーのやつだから…」つい言い訳してから何のんきに幽霊と会話してんだろうかと自分にツッコミたくなった。一瞬前までの緊張感が抜けている。なぜだ。あんなに怖いと思ったのに、目の前で揺れる袖の中で泳ぐ金魚を見ていると、そんなものなかったような気がしてくる。
 ついに興味に負け、わたしは着物を指して落雁をバリボリ食べる彼に訊いてみた。「あの、それは何? どうして動いてるの?」「さぁ」「さぁって…」「他にもあるけど。鞠とか、鳥とか、紙風船とか。ずっと雨が降っているやつとか」そういえば幽霊? のはずだけど彼は物が食べられるようだ。なぜだ。こっちも不思議だ。
 落雁一つを食べ終えた彼が二つ目の白い方に手をつけた。「おいしくない」とぼやきつつもバリボリ。じゃあなぜ食べるのか。こちとらそれはここに置いてくるつもりで適当に買ったのだ、文句は言わないでほしい。
 バキ、と落雁を手折った彼がすっと瞳を細めてわたしを見た。心臓が跳ねる。ついつい普通に会話していたけど彼はこの世ならざるものなのである。何もない空間から現れた。生気のない眼差しと表情からも彼がクラスメイト達のお目当てだったものであることは明らかだ。あと、着物も特異だし。
「殺してあげようか」
 直接心臓を撫でられたかのような、ヒヤリとした心地の声。
 心臓が竦み上がって、わたしはまた声を忘れた。馬鹿みたいに口をぱくぱくさせるしかない。
(殺すって、誰を。わたしを?)
 すっと片手を動かした彼の指先がろうそく台を手繰り寄せた。ゆらゆら揺れる炎を瞳に映して、微笑のような冷笑を浮かべる。
「ここは古くて、雨もずっと前に降ったきりで、乾いている。よく燃えるだろう」
 そう言った彼の掌の上で炎が大きくなっていく。
 わたしは困惑でいっぱいいっぱいだった。さっきの言葉と今の言葉が繋がらない。いやとにかく、理解する前に、言わなきゃならないことがあるだろう。止めるんだ。ここにはわたし以外に約二十人いる。肝試しの真っ最中だ。ここで火事なんて起こったら火傷する子とか出るかもしれない。
「あ、の」
 よし、声が出た。いけるぞ。このまま彼へ制止の言葉を。そう思っていたのに、冷えた双眸に見据えられるとまた声を忘れてしまった。
「君は、我慢しなくていい」
「え?」
「…それから、これは僕が個人的にすることだ。死んで月日の浅い者は格上げが必要でね。要するに、献上する魂がいる。君はあちらから出てまっすぐ外へ行くといい。井戸のあった場所だから、まだ水気が残っていて、火はそちらへ回らないから」
 わたしには理解できないことを言った彼は、自らに火をつけるような勢いでろうそくの小さな炎を燃え上がらせ、その炎の中で暗く笑っている。
 わたしは三秒の葛藤の末に鞄と懐中電灯を掴んだ。
 駄目だ。分からない。彼が言っていることが分からない。意思疎通が難しい。できないことはないけど時間を要する。そして今はその時間がない。
 あちら、と彼が指した方角に一目散に走る。脇目もふらず、振り返ることもせず。転ぶことだけを避けながら、未知なる彼に対する恐怖心から、これから起こる惨劇から、目を逸らすように。