最近降っていなかったと思ったら、間の悪いときに雨が降り出した。それもかなり大粒で、ぽつりぽつりと地面を打ったかと思えば小雨を通り越して大雨となってざあざあと地面と草木を揺らし、そして、目の前で炎の赤と橙に包まれ燃え上がる屋敷を鎮火しにかかる。
 ち、と舌打ちして手首を捻って炎に回転をつけてみる。まぁ気休めだけど。
 少しでも長く燃えてくれないと困る。あの中にいる人間全部連れて行くつもりでいるんだ。取りこぼしは困る。とくに、これから何かと力の入用になる僕には、些細な機会も逃すことはできない。
 夜、中学生が同年代だけで立入禁止の廃墟に肝試しとして侵入、灯りとして置いたろうそくが風か何かで倒れて朽ちた木造建築に自然着火。自分達のお遊びに夢中な子供は炎が広がっていることに気付かず、気付いたときにはすでに手遅れ。その数およそ二十。馬鹿な子供ばかりが集まって馬鹿なことで命を落とす。夏にはよくある不幸な事故。ただ、少しばかり人数が多いだけ。
「沢田…」
 ぼそっとした呟きに、雨に打たれる隣の女子へと視線を移す。寒いのかしきりに腕をさすっている。これも気休めだけれど、片袖を振るってめだかやら金魚やらが泳いでいる着物のたっぷりした生地を彼女の頭にのせた。実際には乗ることなんてないのだけど。
「さ、沢田は、助けてあげて」
「どうして」
「わたしより、駄目で、ツイてない子だから。ここで死んだらあんまりにも、か、かわいそう」
 涙ながらに訴えられて、眉間に皺を寄せつつ改めて炎の中に意識を向ける。沢田。「沢田、何?」「沢田、綱吉」沢田綱吉。随分昔風の名前だな、と思いながらまだ炎の中で咳き込んで生きているそいつを見つけた。一人取りこぼすことになるが仕方がない。これだけ引っぱり出してあげよう。
 壁の一部を崩してそこから沢田を引きずって外へと引っぱり出す。ぬかるんだ地面に転がせば、大粒の雨が彼の衣服の炎を消しにかかる。雨ですっかり泥となりつつある地面も彼の消火を手伝った。「さ、沢田っ」雨でぬかるんだ地面に足を取られ転びそうになりながら駆け出す背中を眺め、残りの人間を始末しに炎を繰らせる両手に意識を改める。
(かわいそう、か)
 それは、君が自分に対してよく思っていたことだよね。
 勢いと激しさを増す雨に抵抗するように炎の密度を増す。
 近くの墓地を管理する神社に慌ただしく明かりが灯り始めている。住職が来る前に終わらせてしまいたい。スーパー品の落雁だけではあまり力が出ない。これ以上無駄なことはしたくない。
 早く死ね、と炎を捻り上げて、明確な殺意とともに、僕は他人の生命を刈り取った。彼女がひっそりと疎んでいた女子も、馬鹿な男子も、全て。それと引き換えにないよりはいいだろうという程度の力をもらい受けて、火災はそのまま放置した。この雨もある。これ以上他へ燃え移ることもできないだろう。僕は寺の人間に見つかる前に一度姿を消そう。
「寺の人間が来るから、僕は行くよ。君は、ソレ、助けたいなら頑張って」
 かなりの火傷を負って呻くばかりの沢田という男子を顎でしゃくった僕を、彼女は複雑そうな眼差しで見上げた。何か言いたそうではあるけど、僕という存在が現れてからのことがあまりにも唐突すぎて理解できていないのだろう。だから言いたいことが頭の中でまとまっていない。
 きっかけは君が全て用意した。
 君が僕のきっかけだったと、言っても、今は仕方がないか。
 ずぶずぶとぬかるんだ地面の中に埋もれるようにして沈み込み、暗闇の中で目を閉じると、今でも鮮明に思い出せる風景がある。
 僕がこうなるきっかけを作った風景。
 かくれんぼするように姿を消した君。
 赤い夕暮れ。あのときも夏で、蝉がうるさいくらいに鳴いて叫んでいた。
 屋敷中を探し回り、ここだろうかと辿り着いた倉庫の蔵の扉が少しだけ開いていた。
 当たり、と無造作に引き開けた重い扉。香ったのははちみつと日本酒のにおい。
 その向こうで、まだ幼さを残す君が、蔵の梁に縄をくくって首を吊っていた。細い首が限界まで引き伸ばされて弛緩した肢体をかろうじてぶら下げている。裸足の足が外の赤い夕暮れを受けて燃えていた。
 積み上げて崩された土台の木箱の中のものが割れて中身がこぼれているのだろう、いやに甘ったるい香りで満ちていた。
 ……こうなって初めて、僕は自分の認識の甘さを思い知った。
 勉強についていけなくて悩んでいるようだった。親にそれを叱られて、頑張ってもどうしてもこれ以上の点数が出せないと嘆いていた。僕はなるようにしかならないさと返した。
 友達ができないと泣いていた。僕がいるだろと小さな手を握った。握り返された手は、そういう答えが聞きたかったわけじゃないと、僅かに震えていた。
 僕は頭も運動もまぁまぁできたから、彼女の悩みに本気で共感することができなかった。友達なんていなくたって死なないと思っていたし、そういう面でも思ってあげることができなかった。
 嘘でもいいからもっとマシなことを言えばよかった。笑われてもいいからもっと手を引いてあげるべきだった。声をかけるべきだった。笑顔を、あげるべきだった。
 年齢とともに広がった男女の意識の差。男と女の違い。周りが自然とそういうふうに振舞い始めたから、合わせるしかなかった。合わせなければならないような空気というやつがあった。
 たとえば、小さい頃のように手を取って遊べなくなったり、二人で出かけることがなくなったり、会う回数、話す回数が減ったり。僕は小さい頃と変わらないで接していたつもりだったけど、彼女はそうは思っていなかったのかもしれない。距離を取られた、そう思ったかもしれない。実際に現実の距離はそうだったのかもしれない。でも、僕は、心まで君から離したつもりは微塵もなかったというのに。
 君が首を吊った十二の夏。
 僕はそれから二年後の十四の冬に同じ蔵で同じ方法で梁に縄を縛りつけて首を吊った。君が死んでから一年は周囲が騒がしかったし、同じ季節の夏は自然と周りが君のことを思い出すので、皆が蔵を意識していてやりづらく、月日を空け、季節を外し、ようやく君と同じ場所から逝くことが叶った。
 闇に満ちた世界へと自殺を理由に落とされた君は、もう何も見たくないとばかりに固く目を閉じ、聴く耳も閉ざし、一人虚ろに浸かっていた。
 自分の魂が堕ちることを条件に彼女の転生手続きを勝手にすませたのは僕だ。もう目覚めたくないとばかりに固く目を閉じてぴくりともしなかった君に再び息をするよう強要したのは僕だ。そして、力による実力主義の妖の世界で、家族を自殺に追い込み、あるいは不自然ではない方法で人を殺し、確実に数を重ねて力を蓄えながら、君が生まれ変わる瞬間を今か今かと待ち望んでいた。
 今度は、間違わない。
 何を優先させるべきなのか、迷ったりしない。
 周りに流されたりはしない。線を引いたりもしない。
 鬱陶しいくらいに君に付き纏おう。もういいと耳を塞がれてもずっと言葉を投げてあげよう。目を閉じて真実を拒否しても瞼の奥にまで入り込んであげよう。
 君が嘆くもの、君を泣かせるもの、君を悲しませるもの、君を苦しませるもの全てを僕が滅ぼす。
 君が不幸だと思うのなら、幸福だと思えるまで、僕が何でもしてあげる。
 僕が尽きるか、君が尽きる、その日まで。
「お話が、あります」
 僕を呼ぶためにこの間の落雁よりはおいしいものを用意して待ち構えていたがさっそくそう切り出した。風味が落ちないようビニールのパックがされている白の落雁を取り上げつつ「何」と返す。これは別に僕の好物とかではないけど、ないよりはマシだ。
「ねぇ、今度は違うものにしてよ。はちみつと日本酒以外で。これ、飽きるんだ」
 言いつつバリボリ食べる僕に彼女が呆れたような顔をする。そういう顔をしつつもどこか緊張感を持った面持ちだ。
 彼女の中に以前の記憶というものはない。核は同じだけれど何も知らない。だから僕のことも分からないし憶えていない。全く知らない幽霊、そんなふうに思っているのだろう。自殺して終わった人生など思い出しても辛いだけだし、僕のことだけ憶えているなんて都合のいいふうに操作はできなかったから、全て真っ白になって始めからという方を選んだけど。それはそれで、やはり、寂しいものもある。彼女にとって僕は未知なる何かであって、それ以上ではない。
「あなたはなんですか」
「旧姓は雲雀恭弥。今は姓がないからただの恭弥」
「恭弥…さん」
 確かめるように僕の名前を口にした彼女は、以前の面影を濃く継いでいた。どれだけ真っ白な状態で始めても、魂という核が同じだから、転生した君も以前の君と同じような人生を歩みつつある。
 それを矯正するために僕がいる。
 手始めに、君を惨めな思いにさせていた同級生らを始末した。
 次は、君に不自由を強いる母親を。両方いっぺんに失くしたらさすがに大変だろうから、父親はしばらく生かしてやろう。母親という諍いの元がなくなればあの酒浸りもなんとかなる…と思いたいが、思っているより体たらくなようならやはり殺そう。を不幸にする人間はいらない。
「沢田はどうにか生きたけど、だいぶひどい火傷を全身に負っていて、痕が残るだろうって言ってた。男の子だからそれはそれで強く見えるかもなんて笑ってたけど、恭弥さん、どういうつもりですか」
 責める口調にバキンと落雁を折る。今日は夏の台風の空の色をした着物の袖が揺れた。生地の絵柄は常に雲が渦巻いたり風に流れたりしていて流動している。これについてはどういう仕掛けになっているのか僕もよく分からない。「あとは、全員、あそこにいたみんな死にました」と続ける声に視線を上げる。君に惨めな思いをさせる者を片付けたのに、どうして君は震えているのだろう。君がどうしてもと言う沢田は助けたのに。
 すっと手を伸ばすとは大げさなくらい肩を震わせた。
 僕が人以外の存在で、そうしようと思えば人を殺せることを知ったからだろう。恐れが見て取れた。
 けど、誤解しないでほしい。僕は君のためにここにいるのであって、僕の目的はそれ以外にはない。
 触れようと思っても、まだ触れない。頬に触れようとした手は中途半端に彼女に埋もれた。寒気でも感じたのだろう、ぶるりと震えた肌から手を離す。
 君の目に映ることができるようになっただけマシだ。実体化はできてない。部分的に、瞬間的には可能だけど、すごく集中しなければならないし、それだけ疲れてしまう。すっと意識するだけで現実世界に立てたら温度を持って君を満たしてあげられるだろうけど、それはまだ時間がかかりそうだ。
「どうして、そんなことを気にするの。オバケに人間のモラルが当てはまるとでも?」
 唇の端を歪ませて笑った僕に、彼女は挑むような目を向けてきた。
「あ、あなたは、話せば分かる人だと思ってる。人の形をしてるし、言葉も通じるし、かしこそうだし」
 でも、怖い人と付け足した彼女にふぅんとこぼして落雁を咀嚼する。
 君は引きそうにないし、わざわざ落雁を買って僕を呼んだのだから、少しは分かるように説いてあげようか。それで気がすむのなら。

「前も言ったけど、アレは僕が個人的にしたことだよ。
 僕は死んでまだ月日が浅い存在でね。古くから存在してる者に競争で勝とうと思ったら、多少強引な手を使ってでも人を殺す必要があった。
 なぜ殺すのかというと、それが、いわゆる経験値になるからだ。
 勉強していくと知識が蓄えられるだろう。それだけ世界の形を知っていく。そうして世の中を歩くことになる。君は塾や学校で勉強を重ねて試験で点を取るだろう。そうして点数で競わされる。それと同じ理屈さ。
 今回たまたま君がその場にいて、沢田のことは助けてくれと言うから助けた。それだけ」

 バリボリ落雁を噛み砕いて、味は気にしないようにしながら次の一つに手をつける。
 君のために殺したと言えばきっといらないことで悩むに違いないので、あくまであれは僕の勝手で君はたまたまその場に居合わせただけだと強調した。
 ビニールの封を破った僕に彼女は険しい表情だ。
「あなたは、幽霊…なんですか?」
 疑問を口にする彼女に「そうなるのだろうね」と肯定すると、納得したようなしてないような、どちらとも取れる眉間に皺を寄せた顔で黙り込む。
 この話題があまりに続くのも退屈だったので、の部屋に視線を逃した。
 あまり物がない部屋だ。ベッド、勉強机、クローゼット、洋風箪笥、教科書類が詰め込まれた本棚。余分なものを持つことが許されなかった部屋のようにも感じる。
 僕はもともと淡白だから物にはこだわらなかったけれど、君は、そうじゃなかったろうに。いつでも何かを繋ぎ止めようと必死だった。それが叶わなくて泣いていた。打ちひしがれていた。それが繰り返されてどうしようもなく心がズタボロになって蔵で首を吊って死んだ。これ以上心を引きずって生きることに意志が折れて。
 勉強机には参考書と教科書と宿題のみで、ちっとも面白みがない。
 仕方がないので手を伸ばしてぱらぱらとページをめくると彼女が慌てた様子で夏休みの宿題を手で押さえつけた。「減るもんじゃないだろう」と口を歪める僕にぶんぶん首を横に振る。なぜか必死な面持ちだ。宿題くらい見せてくれてもいいのに。
 今の学校がどんな教育レベルなのかと思ったんだけど、仕方ない、教科書の方でもめくってみようか。
 取り上げるとこちらは何も言われなかったので、適当にページを繰った。僕の頃よりカタカナが多くて数字も漢字ではない。それから英語。僕にはあまり馴染みのないものだ。その頃はここまで英語は普及していなかった。負わねばならない科目が増えるということは、求められる学力は総じて平均値を押し上げているということだ。昔より物が溢れて豊かになったとは思っていたけど、選択肢が溢れた分だけ、負担も増えたように思う。
 昔と今、どちらの時代が幸せなのだろうか。
 ふと抱いた疑問。答えを探して視線を上げると、こちらを窺っている瞳と目が合った。
 閉じた江戸幕末の日本、その中でさらに閉じた山の方で生きていた僕達と、開かれた日本、何でも物がある代わりに広すぎるくらい広くなって途方に暮れるような今、君はどちらが好きだろう。世の中の多くの事柄が科学で説明され納得されるようになった今は、下手な誤魔化しも通用せず、妖にとっては生きづらいけれど。
(まだ、好きじゃないだろう。僕が君を今に生まれさせた。好きだと思えるよう、幸せだと言ってくれるよう、やっていかないと)

 誤解がないように言っておくけど、と前置きした僕に彼女は首を傾げた。表情を隠すかのように伸ばされた前髪が揺れる。「僕は、君を害するつもりはない」パタン、と閉じた教科書を机の上に戻す。彼女は訝しげに眉根を寄せて僕を見つめていた。信じられない、とその顔が言っている。
「なんで、ですか」
「…そうだなぁ」
 あれこれ理由をつけたところで簡単には納得してくれそうにない。
 ……仕方がないなぁ。まどろっこしい説明は面倒だし、生前、伝えることができなかったし。これで納得してくれると信じて、言ってあげよう。
「君を好きになったから。だから君には何もしない」
「…は?」
 短く息を吐くような気の抜けた声だった。
 ぽかんと放心した顔を眺めて、バキ、と落雁を砕く。吐きたくなるほど甘ったるいけどはちみつよりずっとマシだ。あれ以来僕ははちみつと日本酒だけは受けつけない。想起するものが彼女の死の光景だから、今でもそれを否定したがってる僕には、どちらとも、永遠に縁のないものだろう。
 さて。これで君が納得してくれると嬉しいのだけど。
 素面で言ってはみたけど、僕だって結構照れくさいと思ってるんだ。好意は想っているだけじゃ空気感染しないらしいから、僕はこれから恥ずかしいことでも口にして伝えていかないとならないんだけど、さっそく挫けそうだ。
(思っていたよりずっと恥ずかしいじゃないか。くそ)
 顔を逸らしたら負けだと思ったので、ぽかーんとしたままの彼女の顔をじっと見据えた。一体何十秒たったのかという頃にはっと我に返ったらしく「え、あ、え。いや、え…ええっ?」と仰天顔でおどおどし始める。よし、勝った。
 なんだかこれだけのことでとても疲れてしまった。慣れないことはやはり疲れるようだ。落雁を食べたら今日はもう眠ろう。
 バリボリ砂糖菓子を食べて早々に片付ける。「眠いんだ。じゃあね」と残してまだ視線が惑っている彼女を置いて現実世界を離脱する。
(ああくそ)
 鬱陶しい流転する曇り空の着物を剥ぎ取って緑の湯に浸かり、ぶくぶくと口まで浸かって、のぼせた頃に上がると、誰に頼んだわけでもないのに新しい着物が置いてあった。朝焼けに焼かれている稲の穂の風景。いつまでも朝焼けの景色の中で風に吹かれて時折穂が揺れる。広げて掲げて睨んで、夕焼けだったら破いて捨ててやろうと思っていたけど、朝の赤は仕方なく羽織ってやった。
 ここ最近になって一人部屋が与えられたので、誰もいない六畳一間の部屋にごろ寝して、座布団を枕に、少しも変わらない闇に沈んだ景色に目を眇める。下の方には通りの提灯の橙色が見える。人、に似たものが出す雑踏の音も聞こえる。雨音に似た三味線の音も。
 どこからかぱたぱたという聞き覚えのある羽音がして、外に餌でも探しに行っていたんだろうひよこみたいな鳥が開け放ったままの障子戸から部屋の中に入ってきた。ぱたぱた部屋を旋回して、最後は寝転がる僕の頭にダイブするようにもふっと着地して静かになる。
 これは一応僕の使い魔で、全然使い物にならないけど、とりあえず放任で飼っている小鳥だ。僕の名前の一つ憶えしかできないので急な用事が入ったときに僕を呼びにくるよう躾けて、それっきりだ。
 …どれだけ住人が増えて賑やかになろうが、提灯が闇の中に浮かぼうが、本質は何も変わらない。
 ここは闇だ。闇から生まれた黄泉だ。堕ちた世界だ。どう足掻いたところでそれ以上にはなれない。
 僕も。どれだけ足掻いたところでそれ以上にはなれない。どれだけ魂を献上して代わりのものをもらったとして、位が上がるだけで、人間的に言う『仕事をしなければ生きていけない』ことに変わりはない。
 彼女が今度こそまっとうに人生を生きたら。そのときは、わざと面倒事を起こして処分されるつもりだ。そうして無に還る。もう彼女と同じ場所には行けないけど、僕にはそれでも充分だ。この道筋に君の笑顔があるのなら、喜んで、全部捧げる。
(だからどうか、笑って。
 …遥かな昔、僕と手を繋いで無邪気な子供の顔をして笑っていた君を想う。
 あの頃に帰ってやり直せたなら。そう思ったことがないわけじゃない。同じ人間として隣り合って、笑い合って、激動の時代を生きて死ねていたらよかった。
 だけど僕は気付かなかった。
 君が一人きりで固めた勇気。一体どんな思いで蔵に入り、縄をくくりつけ、踏み台として重たい箱を運んで重ね、その上で縄に手をかけて、どんな思いで作った輪に頭を通したのか。僕は、知らないのだ。
 君はそのとき泣いたろうか。笑ったろうか。涙しただろうか。何も気付かなかった鈍感な僕を呪ったろうか。
 今となってはもう闇の中にあるかつての君に手を伸ばし、届かない遠い姿に目を細める。そこに今の君の姿が重なる。よく似た背中が。
「今度は、間違えないよ。絶対、目を離さない…今度こそ僕が、君の幸せを守るんだ。幸せに、していくんだ……」