2月14日に行動を起こした人にとって、翌月の3月14日は落ち着かない朝で始まりを迎えるはずだ。よくも悪くも一ヶ月前の自分の想いに答えが出る日なのだから。
 私は、変わらない想いを彼に伝えた。チョコレートなんて甘いものは好まない彼にはただ言葉で伝えればそれが一番邪魔でなくてよいだろうと考え、恭弥さん、好きです。愛しています、と思い切って口にした。彼はそんな私を冷めた目で見やって、そう、とこぼしただけだった。だから私はホワイトデーという日に期待なんてものは抱いていなかった。私はバレンタインという世間の行事に則って彼に改めて想いを伝えた、それだけだ。
 それでも、3月14日を翌日に控えた13日の夜、私はどこか落ち着きのない自分を自覚していた。
 畳の部屋に布団を二つ並べて敷きながら、やはり落ち着きがない、と自分の手つきを見て思う。
 今日はどことなくしていること全てが雑だ。家事も、炊事も。恭弥さんが今日仕事がなくて家にいるせいもあるのかもしれない。ううん、きっとそれが九割くらいの原因だろう。彼がいつものように仕事に出ていたらこうはなっていない。明日を意識したりしない。
 そして、残り一割くらいが、明日という日の奇跡を望んでいる、愚かな自分だ。
 ふう、と吐息して寝床を整え立ち上がる。やることは、まだある。のんびりしていられない。今日もあと二時間ほどで終わるのだ。
 明日の朝食の準備をしようと台所に向かうと、居間の明かりがついていた。恭弥さんだろう。自室に引き上げたと思ったのだけど。
 そろりと居間に入る。床板がキシリと少しだけ音を立てた。ソファではスーツ姿で寝転がっていた恭弥さんが目を開けたところだ。…今日はお仕事でもないのにどうして今頃スーツに着替えたのだろうと少し不思議に思う。

「はい」
 呼ばれて、自然と背筋が伸びる。
 彼の声に名前を呼ばれただけでほんのりとあたたまる心がある。私の芯がある。このあたたかいものに彼が炎を灯し続ける限り、どれだけ無下にされようとも、私はあなたを愛し続けるだろう。
 ソファを軋ませて立ち上がった彼が一つ欠伸をこぼした。「出かけるから、着替えて」「…はい?」ことりと首を傾げる。彼は噛み殺した欠伸を残した眠そうな顔で「出かけるから着替えて」と先ほどと同じことを言う。
「あの、どこへでしょうか」
 尋ねた私に、眠そうな瞳が機嫌悪そうに細められた。「…どこだっていいだろ。何、僕と出かけるのが嫌とでも?」慌てて頭を振る。「いえ、いいえ」ふるふる首を振って「着替えてきます」と足早に居間を出て、着物は動きにくいと思いながら急ぎ足で自室に戻った。たん、と襖戸を閉じて、着物の和服ではないものに着替えろというのなら、と考えて箪笥ではなくクローゼットの扉を開けた。
 着物の帯を解いて着替えながら、考えた。
 こんな時間から、一体どこへ出かけるというのだろう。明日の朝ごはんの用意があるのに後回しか。でも、恭弥さんがああ言うくらいなのだから、きっと大切な用事なのだ。私の睡眠時間なんて粗末なもの。昼寝でもすれば事足りるはず。
 恭弥さんがスーツだったのだからと黒のフォーマルドレスを選んで、上から白いふわふわのボレロを羽織った。鏡に映った洋服姿の自分に、久しぶりにこんなもの着たなぁとなんだか笑いがこみ上げてくる。恭弥さんは和風の人だから、食事もだいたい和風だし、着るものだって。
 はたと我に返って靴を探した。箱にしまってあるお揃いの黒いミュールを発見して引っぱり出す。
 廊下を急ぎ足で行って、居間が消灯されていたから、玄関に向かう。玄関の引き戸が開いていて、外では車のキーを回して寒空の下に佇んでいる恭弥さんがいた。「すみません、お待たせしました」と声をかけると彼は私を一瞥して、さっさと歩き出した。車庫だろう。私がミュールを履いてる間に車を出してきてくれるのだ。
 …それにしても。一体どこへ行くのだろう。そこに私が行く意味はあるのだろうか。ううん、なければ、彼は私を連れていくなんてことはしないだろう。それなら私が行く意味のある場所なのだ。うん、そう。なら、そこでは恭弥さんに恥なんてかかせないように、しゃんとしていなくちゃ。
 着物と下駄になれてしまった足には肌に触れる空気が冷たく、ミュールの高さと履き心地が新鮮すぎて、まるで初めてヒールのある靴を履いたときのように足元が曖昧だった。
 しっかりと施錠して、門前に停まった黒塗りの車のところへと急ぐ。
 最近あたたかくなってきたからとコートを持たなかったけど、今は夜なのだから、あった方がよかったに決まっていたな、と今頃気付く。いくら3月の春の夜とはいえまだひんやりと肌寒い。車の移動の間は大丈夫だろうけど、外を歩くのだとしたら、厳しいかもしれない。
 腕をさすりながら助手席に乗り込んで、ドアを閉めた私に、恭弥さんが黙ってコートを脱いで預けてきた。「え、あの」「寒いんだろ」「は、はい」「じゃあ黙って着たら」突き放した物言いにも慣れているので、私はありがたくコートを拝借した。恭弥さんのぬくもりが残っていて、恭弥さんの香りがあって、頬ずりしたくなったけど我慢する。彼に呆れられてしまう。悪ければ軽蔑されてしまう。私はせいぜい彼の仕事着のスーツをクリーニングに出すときにぎゅっと抱き締めて離す、それくらいのことしかできないのだ。
 それから、車は黙って夜の空の下を走り続けた。
 県道から高速へ乗り、行き先も分からないまま、私は黙って流れる夜の景色を眺めた。恭弥さんが喋らない人なので、彼に合わせると、自然と私も喋らなくなる。もともとそう喋る方でもないから普段なら苦痛に感じないことなのに、今のこの沈黙は、なんだか居辛い空気だった。
「あの、どこへ向かっているんでしょうか」
 そっと声を発する。車外の風の音に負けてしまいそうな声音だった。
 恭弥さんは私を見ることもなく前を向いたままアクセルを踏み込み、速度を示すメーターが100を超えた。
「どこだっていいだろう」
「はい。でも、心積もりだけでもと…」
 は、と短く笑った彼が「そんなたいそうなものはいらないよ」と言ってさらに速度を上げる。深夜運搬のトラックなどを追い越し、びゅんびゅんと通り過ぎる景色に目が回ってきて、諦めて瞼を下ろした。
 恭弥さんが言わないのだから、仕方がない。心積もりなんていらないと言うのだから、構えのいる場所へ行くわけではないことは確かだ。それが分かれば十分。そう思おう。
 ……それにしても。
(こう、会話もないと…することもないし…眠って、しまいそう)

 名前を呼ばれて、軽く肩を揺さぶられて、ぱち、と目を開ける。ぼやっとした意識と視界で顔を上げると恭弥さんが見えた。「着いたよ」と言われて眠い目をこすりながら「すみません、ねてしまって、」と分かる言い訳をこぼす。彼は何も言わずに離れていった。恭弥さんと彼の背中を追いかけた視界に突き刺さる朝陽に脳が白む。もう、朝なんだ。
 眩む視界を瞼でぎゅっと閉じ込め、そっと目を開ける。さっきよりは朝陽に慣れていた。寝て固まっている身体でそろそろと車外に出たところで膝から車のキーが滑り落ちた。彼が置いていったのだ、と気付いてドアを閉めてロックをかけ、急いでスーツの背中を追いかける。
 そこは、とても有名な場所だった。きっと子供から大人まで誰もが知っている夢の国。朝陽に白んでまだ誰の姿もないそこに私達はいる。
 そして、目の前にはパーク内にあるホテルの三つのうちの一つが鎮座していた。見たことはあっても入ったことはなかった、夢の国の中の夢のホテルだ。
「恭弥さんっ」
 ミュールで頑張って走って追いついた。私の手からキーを取り上げた彼は黙って顎でホテルをしゃくる。どうやら、彼の目的地というのはここだったらしい。
(でも、どうして、ディズニーランドなんか。恭弥さんのイメージに全然合わない)
 まだどことなく醒めない頭のまま彼についていく。ホテルは早朝でも営業していた。
 私は夢の中に入り込んだごとくふわふわとした心地で、そこかしこにミッキーがイメージされているホテル内を観察した。絨毯にも壁紙にも照明にもミッキーがいっぱいだ。
 これが恭弥さんのどんな気紛れであったにせよ、見納めだ、と思うくらいの勢いで脳内にこの風景をしっかりと刻み込んだ。

 すっかりふわふわした心地でいた私は恭弥さんの声で幾分か意識が現実に返った。彼はさっさと歩き出している。私は慌てて後を追った。確かに、ここで着物姿でいたら、やはり場違い感は否めないだろう。彼が着替えろと言うはずだ。
 特別ディズニーに思い入れがあるとかではないけど、全く知らないわけじゃない。だからここは、夢の場所なのだ。
 エレベーターも特別仕様で、ボタンや装飾にディズニーキャラが覗いていた。この箱の中にいるだけでも思い出に残るなぁ、と思っている私の前でエレベーターのドアが開いた。9階。階数的にそんなに高いとは感じないけど、このホテルじゃ上の方のはずだ。
 と、いうか。ディズニーランドのホテルに来てまで、恭弥さんは一体何がしたのだろうか? ふとそう考えて、スーツ姿の背中を眺める。彼に限って愛を育むためなんて言わないだろう。彼はそういったことに興味はない人なのだ。なら…どうしてこんな場所に。夢のようで、嬉しいけれど。
 ミッキーのマークのある重厚な扉。カードキーで解除された扉を恭弥さんが開けてくれた。中に入れと顎をしゃくられ、言われるまま足を踏み入れる。
 瞬間、私は我が目を疑うことになる。
 広い部屋とヴィクトリア朝様式の家具で統一された部屋はそれだけで感嘆の吐息がこぼれるほどだった。
 けれど、私が足を止めた理由はそこではない。部屋は確かに立派だ。美しい。けれど、其処此処に散乱している包装紙に包まれた箱、プレゼントと思われる包みその他が私の目を奪っていた。これは、備品ではないだろう。ミッキーマークはないしブランドマークも包装紙の種類も様々だ。
 これは一体、と言葉をなくして立ち尽くす私の背中を押した恭弥さん。その後ろでガチャンと扉がしまって自動ロックされる。
「今まで、なんの見返りも求めず黙って僕を愛した。そのことへのお礼だよ」
「…、」
 ゆっくりと彼を振り返る。腕組みしてそっぽを向いている恭弥さんはそれ以上何も言わなかった。私はただ呆然とするばかりで、恭弥さんからスイートルームに無造作に散乱しているプレゼントに視線をふわふわさせる。
 ……今日は、3月の14日。ホワイトデーだ。
 まさか。このために。彼はこのホテルのスイートを押さえて、仕事の予定を整理し、私へのプレゼントを考えて、いたのだろうか。私が、バレンタインに、変わらぬ愛を伝えたから?
 ほろりと涙がこぼれた。ほろほろとこぼれる涙に絨毯を汚してはいけないととっさに思い、ボレロを顔に押し当てる。そんな私に恭弥さんは呆れたようだ。「泣くところではなくて、喜ぶところだろう」と。
 それも、そうだ。その通りだ。私のことを考えてここまでしてくれた恭弥さんは私が喜ぶだろうと思ったのだ。感動して泣いてる場合じゃない。私は笑わないと。
 何とか顔を上げて恭弥さんに笑いかけ、「ありがとうございます。嬉しいです」と伝えるのだけど、声は震えているし、言ってる先から涙がこぼれていた。はぁ、と吐息した彼が渋々という感じに手を伸ばして私を緩く抱き寄せ、ぽむ、と軽く背中を叩く。
 スーツの肩に額を預けて、これは夢だろうか、と思う。
 報われなくていいと思っていた。雲雀恭弥という人のそばにいられるなら、その隣に私が並んでいいというのなら、それだけで満ち足りた現実だと、そう思っていた。
 だけど、報われることがあるのなら。一度でもそんな現実があるのなら、それがいいと、そう思っていたことも真実だった。
「これからも、僕を愛してね」
「はい」
 大したものは返せないだろうけど、とこぼした彼に私はゆるりと首を振った。それから、泣きながら笑った。
「では恭弥さん、一つだけお願いを叶えてください」
「…何?」
「ここで、この夢のような世界の中で、キスをください」
 私のお願いに彼は呆れた顔をした。そして、私の頬に手を添えて一つキスをくれる。触れるだけの口付け。それでも私は幸せだった。この人を愛したことは間違いではなかった。今なら自分に笑ってそう言える。
 とん、と肩を押して私を離した恭弥さんがぷいとそっぽを向く。「さっさと開けていってよ。今日中に全部開けてよね」と部屋に散乱したプレゼントを指すので、私は困ったなと笑って「はい」と頷く。
 彼は一体どんなものを選んだのだろう。どんな思いで私へのサプライズを考えていたのだろう。そう思うだけで愛しさがこみ上げる。
 私へと贈るために私のことを考えていた、そんな彼のことを心の底から愛しいと実感しながら、足元に転がっている小さな箱を拾うために手を伸ばした。