一言で現状を説明されろと言われたら、僕はこう言うだろう。幸福だ、と。
 そう広くはないワンルームはソファとシングルのベッド、テレビ、机、クローゼット等、生活に必要なものを置けばもういっぱいで、床には収まりきらない本やしまう場所のない鞄類が雑多に寄せられ積まれている。埃なんてものを気にすることはもう諦めた。気にしたところで自分で掃除するわけでもなし、ましてや、そのために人を入れる気にもならない。
 広くはない、今となっては狭くて汚れた部屋は、それでもまだマシだ。街に行けばさらに雑多で落ち着きのない空気がプラスされる。そのことを思えば、適度に引っ込んだ場所、治安はそれほど悪くはない一画のアパートを借りられただけマシなのだ。
「…まだ? 重たいよ」
「まだー。おもたいっていっちゃダメ。きずつく」
「はいはい」
 クッション材がだいぶへたれてきているベッドに寝転がっている僕の上には、少女が一人、色鉛筆を持ってスケッチブックに絵を描いている。気難しげに眉根を寄せて邪魔そうに前髪をかき上げる手は白くて細い。髪は金色が少しくすんだ感じで、瞳は青と緑が混ざったような色。
「下りて描きなよ。寝たいんだ」
「ダメ。きょーやはまだおきてるの。さっきかえってきたばっかり」
「お仕事だよ。疲れたんだ」
 、と呼んで脇に手を入れて抱き上げると、音を立ててスケッチブックと色鉛筆画転がった。ふくれっ面をしているを腕に抱いてスプリングがぎしぎしとうるさいベッドに横になる。
 ぷくっと頬を膨らませたままのが抗議するみたいに僕の胸を叩いている。
 仕事の間一人でこの部屋で僕を待って、退屈だろうと思っている。一人遊びのしすぎで僕のことが恋しいのだろうと分かっている。
(でも、疲れたんだ。明日は休みだから、明日は遊んであげるから、今日はもう寝かせてほしい)
 僕の腕からもぞもぞ抜け出そうとしている少女を抱えたまま、片手を伸ばして布団をたぐり寄せた。「明日は遊んであげるから、今日はもう寝よう」引っぱり寄せた枕に頭を預ける。布団の間からくすんだ金糸が覗いていた。
 拗ねたんだろう、何も言わず、抵抗することもやめたを抱えたまま、目を閉じる。居心地のいい闇がすぐに意識を塗り潰していく。
 昔は木の葉の落ちる音一つで飛び起きたものだけど、僕も歳を取った。もそりと動く気配があっても億劫で身体が覚醒することを拒否する。
 が布団を抜け出したんだろうと想像しながら、僕の意識はさらに泥沼へと沈んだ。
 21世紀末、世界中から移民や難民がなだれ込んできたために多民族都市となった東京で、駅の隅っこで空腹に耐えかねて転がっていた少女を気紛れで拾った。そう、気紛れで。
 急激に外国人の人口が増加し、安月給でも働く外人に職を奪われあぶれた日本人も多く、治安や雇用状況が混乱し、東京は混沌を極めていた。
 そんな中でも職にあぶれる心配のない人間達の間で移民や難民を『飼う』ことが流行りだした。昔で言う『奴隷』みたいなものだ。
 職にあぶれずとも外国人の増加で今までのような仕事や日常が送れなくなったことは事実であり、そこには少なからずの嫌悪や憎悪があった。そこから生まれた外国人を『飼う』ことは、犬猫などのペットを飼うことにも似ていた。
 言葉が通じない相手であればなおのこと人間ではなく動物として扱えた。
 命令して、蔑んで、機嫌のいいときだけかわいがって、最低限の世話をする。そういうペットとして扱う奴もいれば、飼っている外人をこれでもかってくらい飾りつけて『外国人の奴隷の差』だとか言って自慢気にする輩まで出始め、多民族化をきっかけに、治安がいいと言われていた日本の姿は早々に崩壊した。
 人間が人間を飼うようになれば、混沌の姿はさらに濃くなり、全ての収集がつかなくなっていく。
 そんな現代に、僕も少し疲れていたのだろう。増える仕事、減る自分の時間、気に入らないと思うことが増えた景色。
 ちょっとした気紛れで、皆がストレスのはけ口にしている外国人を拾ってみようと思って、ぐーぐーと腹の虫を鳴かせて駅の片隅に転がっている少女に目を留めた。
 そのまま放っておけば悪い大人の玩具にされるだろう。物乞いをする子供が多い中、少女にはもうそんな気力もないようだった。それが決め手だ。僕は一応警察ってヤツに身を置いている一人なので、犯罪の助長だけはしたくなかった。
 お腹の空きすぎでぐったりしている少女に、コンビニで買ったパンとジュースを与えると、あっという間に食べた。それで、まだ食べたいならついておいでと言うと、簡単に僕についてきた。きっとこれまで同じように飼われていった子供を見てきたのだろう、僕を見上げる目には不安と安堵が混じっていたように思う。
 気紛れ、だったんだ。外国人の増加に伴い増えた犯罪件数、それを処理するために増えた仕事、増えたストレス、減る時間。何かに当たらなくては、あるいは何かで満たさなくては、僕ですらすり減っていく。皆が気軽に手を出していることに僕も手を出してみた…それだけだった。
 人口の多民族化により、おかしな事件が増えた。宗教的、カルト的なものがとくに。信仰心なんてないに等しい日本人には理解しがたく、推理や道すじが立てにくい事件は、解決までの道のりも遠い。
 そもそも、なぜこんなに急激に移民や難民が増えたのか。その理由を誰も知らない。
「あさー!」
 耳元で明るく弾けたその声で目が覚めた。「…あさ?」「あさ」「ああ、そう」朝、のわりには開けられたカーテンの向こうの空は暗い。カー、と嫌な声も聞こえる。カラスだ。ゴミにも死体にも群がるあの黒い鳥は好きじゃない。鳴き声もけたたましくて遠慮がないし。
 なんだかわくわくと期待しているような少女の声に、眠い目をこすって起き上がる。声のとおりに期待した顔で僕を見ているに、あふ、と一つ欠伸をこぼしてからソファを指した。「上着取って」携帯はその中に入れっぱなしだ。
 はい、と上着を持ってきたにベッドを叩く。ベッドに上がった彼女を膝の間に抱えつつ、床に散らばっていた適当な宅配業者のチラシを何枚か預ける。「どれが食べたい? 好きなものでいい」「!」ぱっと明るい表情になったは意気揚々と食べたいものを選び始めた。無邪気なその顔を眺めて、くすんだ金糸を指で梳く。
 というのは、僕がつけた名前だ。
 …自分は外国人を飼うクズみたいな人間とは違うと思っていた。少女相手に性欲を満たしたり、少年相手に強姦したり、いい大人を豚か何かのように扱ったり…そんな輩とは絶対に違うと思っていた。そうでありたかった。日本人という血に誇りを感じているとかではない。人間として、同じ生き物を都合よく扱う奴にだけはなりたくなかった。

 自分でつけた彼女の名前。それは犬猫のペットに名をつける行為とどれほどの差があるだろうか。「んー?」と機嫌よさそうにチラシをめくる彼女に僕はどんな大人に映っているだろう。
 彼女の好きなものを食べさせる。それは少しいい餌を与える餌付けという行為だ。
 彼女に似合うと思った服を着させる。それは僕の欲望を満たすだけの行為だ。
 手を繋ぐ。キスをする。抱き締める。抱き上げる。一緒にご飯を作る。一緒にテレビを見る。一緒に出かける。一緒に眠る。
 それは、人間として最低でも、僕にとっての幸福、だった。
(いけない。これじゃあ外国人を物みたいに扱ってる輩と同じになる…物みたいに切り売りして、平気で犯して平気で殺す、そんな奴に)
「これ! これがいいっ」
 明るい声に考えかけたことを切り捨てた。びしっとチラシに指した細い指を握り込む。
 違う。僕は違う。少なくともまだ、違うはずだ。
「ハンバーグ?」
「うん」
「ハンバーグくらい僕でも作れる」
「だから、くらべるの。きょーやのほうがおいしい。しょーめいするの」
 いいことを思いついたとばかりに胸を張るに小さく笑って、携帯に記された店番を打ち込む。
 おかしいな。こんなはずじゃなかったのに。少なくとも、君を拾ったときは、こんなことになるなんて想像していなかった。いい大人が年端もいかない少女に夢中になるなんて立派な犯罪だ。
 はハンバーグ、僕は適当に今日のおすすめメニューというやつを注文し、住所と名前を伝え、通話を切って携帯をベッドに転がす。
 やっと訪れた休日に、まだどこか疲れている身体でもたれかかるようにを抱き締める。子供の、少女の身体はとても小さくて、壊してしまいそうだと思った。
「きょーや? ねむいの?」
「そうだね…まだ眠たい」
「ねちゃだめ。よるにはやくねるの。ひるまはおきてるの。ごはんがくるまで、あそぼ?」
 甘い、囁く声がする。
 彼女の遊ぼうには純粋な意味しかないのに、そこに邪推が割り込む。大人の遊ぶと子供の遊ぶには天と地ほどの差がある。
 このままでは僕が最低な大人になるのにそう時間はかからない。
 良心。それを誇りに思いながら、同時に煩わしく思う。そんなものを取って最後に残るものなんて知れているんだ。捨てればいい。捨ててしまえば。良心もプライドも捨て去って今ここにあるぬくもりを選べば、僕の心の飢えは満たされる。
 重たい頭をもたげて、くすんだ金糸を引っぱって、なぁに? と小首を傾げるに、キスをしようとして、失敗した。最後に良心が足を引っぱってきたのだ。唇から逸れたキスは頬に触れた。子供の体温は少し高い。わざとらしくリップ音を立ててキスをして、「はかわいいね」とこぼすと、一拍遅れてから腕の中でじたばた暴れ始めた。照れているらしい。
「僕はどうかな。にとって、どんな人間に見える?」
 訊ねると、彼女はぴたっと動きを止めた。それからじっと僕の顔を見上げる。
「きょーや、は…カッコイイとおもう」
「本当? お世辞?」
「おせじってなに?」
「ああ、うん。なんでもないよ。気にしないで」
 んー? と首を傾げたの目がぱちぱちと不思議そうに瞬きして僕を見上げている。
 ワンルームの部屋はきれいとは言いがたく、広さもなく、散らかっている。窓の外は薄暗く、カラスがまた鳴いている。そんな不快の中にいても僕の機嫌が悪くないのは、その中にがいるからだ。そう、それだけで、僕はささやかな幸福に浸かっていられる。
 幸福というのは自覚した頃に崩壊する。
 それというのも、幸福の最中にあるとき、人はそれが幸福だとはなかなか気付かないから、らしい。
 僕は自分の人生の中でと過ごす時間が一番の幸福だと自覚していたけれど、その自覚も、幸福が日常となってしまえば、少しずつ薄れていく。強く『それが幸せだった』と思うときは、幸せが掌から転がり落ちたあとだ。あたたかさがなくなったときに気付く。ああ、失った、って。
「何? 朝っぱらから招集って。しかもこの面子で」
 指定された会議室には特殊課の面々が集められていた。
 昨日が満足するまでカード遊びやゲームをしていたから僕は眠かった。欠伸をこぼして会議に使う椅子に腰かける僕に沢田が苦笑いする。
「さぁ。リボーンの収集ですからね…またろくなことじゃないんでしょうけど」
 リボーンというのは僕らの上に立つ上司だ。イタリア人だが、難民や移民が流入する前から本部に在籍している。聞いた話じゃイタリアではマフィアをやってた経験もあるらしい。そんな人間が警察だなんて、世の中ふざけている。
 今頃退屈そうにテレビを見ているか、新しい一人遊びを考案しているだろう彼女を思い浮かべつつ、仕事以外ではあまり使わない携帯をいじる。待ち受け画面はが描いた天使の絵だ。ギャラリーのフォルダの中にはの寝顔とか笑顔とか一緒に作ったご飯とか遊園地での写真とか、まぁつまり、ばっかりが収まっている。暇潰しに写真を眺めながら、に携帯を持たせようか、と思った。それでいつでも連絡できる。まだパソコンを扱うには早いし、子供向けの簡単な機能のものならそう高くもないだろう。
 僕が携帯で時間を潰していると、ようやくリボーンがやってきた。室内でも帽子を取らないいつもどおりのスタイルで。
「揃ってるな」
「むしろ遅いって。みんな待ってたんだ」
 リボーンが父親に請われて家庭教師をしていたという過去からか、他人に強く出ない小動物の沢田は彼に対しては砕けた接し方をする。携帯の画面をオフにしてポケットに滑り込ませ、「さっさと始めよう」と声を投げると、リボーンが肩を竦めて革靴を鳴らし会議室の中央までやってくる。そこに設置されている立体映像装置に小さな素子を置くと、自動的に部屋の電気が落ち、装置が起動して、立体映像が映し出された。
 半透明な映像として会議室に浮かび上がったのは円形の地球。日本、現在地である首都東京から縮図として浮かび上がった世界地図の中でピンが立った場所に視点がスライドし、ある場所が拡大される。地図には『Göreme』と記されていた。
「ゴレメ…?」
「違いますよ、ギョレメです」
 獄寺に小さく訂正されて沢田があははと空笑いした。「ああ、ギョレメ…ってどこ?」その言葉には僕も同感だった。中央アジア、トルコ辺りまでは分かったけど、細かい場所まで知るはずもない。
 六道がやれやれと大げさに肩を竦めてお得意の雑学を披露し始めたのが鬱陶しい。
「トルコのカッパドキア地方にあるギョレメ国立公園辺りですね。カッパドキアの観光の中心地です。世界遺産に指定された奇岩群が有名ですが、ご存知ありませんか?」
 そんなもの物好きしか知るはずがない。
 六道の説明に合わせてネットで拾った情報を装置がピックアップする。その奇岩群とかいう岩と砂利道が写真として表示された。それでああ知ってるという顔をした奴もいれば、僕のように顔を顰めた奴もいる。
「で? それが何?」
 地図で場所を示しただけで口を開こうとしないリボーンを睨みつける。
 こっちは片付けても片付けても仕事が残っている状態なんだ。時間の浪費ならさっさと仕事に戻りたい。
 リボーンは僕の睨みに動じるでもなく、気に入らなさそうに立体映像を見上げている。
「上からの指示だ。お前達にはここへ行ってもらう」
「…は?」
「国連の平和維持活動の一環という名目でな」
「ちょっと待った。リボーン、なんだよそれ。なんで特殊課がそんなことしなくちゃならないんだ。平和維持活動なら他に人材があるだろ? 国内だけでも手いっぱいな状態なのに、海外の平和維持なんてやってられないよ」
 沢田の言い分は最もだった。そうだそうだと口を揃えた奴も何人かいた。僕のように気分を害して席を立った者も。基本的に特殊課はその名のとおり特殊な人間が多く集まるチームだ。統括などされているはずがない。
 が。イマドキ骨董品の分類になるリボルバー式の銃を抜いて天井に向けて一発放ったリボーンに誰もが動きを止めた。スプリンクラーは作動しない。あらかじめ切ってあったらしい。こうなることを踏まえて。
 不機嫌に剣呑さを混ぜた瞳で僕らを見渡して、ふっと煙を吹き消した相手は「文書を」と装置に命じた。地図の上に被さって何かの書類のようなものが何枚か表示される。
 明らかに手書きであるその書類には、最近ギョレメ辺りで何か不穏な出来事が続いていることが下手くそな英文で綴られていた。
 相次ぐキメラのようにつぎはぎされた死体の発見。夜な夜な響く不穏な呪文の声。魔術による死者の蘇生実験を確認したという報告書。銃火器の流通量の異常な増加。病院に収まりきらないほどの精神病患者の増加。
 最後は『終末を告げる獣の声が止まらない』という意味の分からない文で途切れ、不自然にインクの線が引っぱられ、紙片を横切って途絶えていた。
「それを書いたヤローは今は精神病棟だ。回復の見込みはないらしい」
「精神病患者の狂言、ということですか」
「いや。そんな簡単な話ならオレがこれを持ってくるはずがない。そこにあるどの事例も実際確認されている。ああ、終末を告げる獣の声とやらも録音があるぞ。聞くか」
 誰一人聞くなんて言ってないけど、その声とやらが再生された。…確かに、獣の唸り声だ。ライオンとかその辺りの。動物の声になんて詳しくないから、これがただの獣の声か、その終末を告げる獣の声かなんて分からないけど。
 で、それがどうして僕らが出向かなきゃならない理由になるんだ。
 誰もが同じことを思い、同じ目を向けていた。リボーンは気に入らなさそうにポケットに手を突っ込み、立体映像の光を反射してギラギラ光る剣呑な目つきで映像を睨んだまま、言った。
「ここに原因があると上は見てる。移民難民が溢れ、この日本になだれ込んだ理由だ。
 ここは孤島の島国。陸続きで違う国と隣り合ったことのないお前達には理解できねぇだろうが、国境ってものがないこの国はな、安泰に見えるんだよ。海に守られた不可侵の国にな。ついでに言えば先進国、ここで真っ当に働ければ飯に食いあぶれることはない。治安も悪かぁない。逃げなきゃならないと考えた人間が選ぶ先としては妥当だ」
 一息に語って、リボーンは口を閉じた。
 決定権は彼より遥か上の地位の人間にあり、この件はすでに決まったことで、もう覆ることはないとその目が不機嫌そうに言っていた。
「…全員じゃないんだろう? そんな辺境の地、送り込む人間の数だけお金がいる。うちの課にそんな余裕はない」
 藁にも縋る、とはこういうことを言うんだろう。問う自分の声が掠れていた。
 僕は、その派遣メンバーに自分がいないことを願っていた。けど、孤高の浮雲と称され実力のある僕がメンバーから外れるという奇跡はなかった。
 立体映像に『特殊部隊メンバー』として表示された名前の中に『雲雀恭弥』という四文字は当たり前の顔をして並んでいた。

 広さも清潔感もない、雑多に物が散らばったワンルームの部屋で一人僕を待つ。解錠してただいまと扉を開ければ、おかえりなさい、と笑って僕を出迎える彼女がいた現実。
 幸福の壊れる頼りない音が、聞こえた気がした。