窓を凋落する雨は本降りで、外に出ることを躊躇うほどに世界を濡らしていた。ザアザアとこもった音が響く中、スチール机にごちんと額をぶつける。
 時刻は夜の8時を回った。帰らないとならない。が待っている。
 この時間になっても僕が帰らなければ、冷凍のご飯を食べているはずだけど、心配だ。レンジの操作を間違えたりしていないだろうか。ちゃんとお風呂をすませただろうか。ああ、心配だ。早く、帰らないと。
 パスポートの申請に必要な書類と、今回の派遣遠征のために必要な書類をかき集め、投げやりに鞄の中に詰め込んだ。
 本当ならこんなもの破り捨てたかった。
 けど、職を失うのは僕でも困る。今このときに無職になるのは避けたい。先の見通せない時代だ、なるべく長くいられる職場で続けていくことが賢い選択だってことは僕でも分かる。
 移民と難民が急激に増加した理由がギョレメに都合よくあるとは思えない。どんな企みが待っているとも知れない。それでも行かなければならない。
 この話を蹴った場合降格は充分ありえる可能性だし、最悪地方に飛ばされることも考えられる。警察の目の届かないような田舎に飛ばされれば、当然治安は悪化する。東京ですらこれだ。他所に行ってを留守番させるような真似もできなくなる。それを避けて自主退職したとして、退職金でしのげるのも数年だ。その数年で今の日本の状況が劇的に回復する見込みはない。
 道はない。僕はギョレメに行かなければならない。
 …に、どんな顔をして、どんなふうに話せばいいんだ。
 連れていけない。仕事なんだから。僕は彼女を置いていかなければならない。その場合どこに預ければ? 疎遠になって他人同然の雲雀家に彼女を置いていく? それこそ安心できない。信用できる人間なんて僕には…。
(どうすればいい)
 考えるほどに、きょーや、と笑うがどんどん遠くなる。焦りを覚えるほどに。
 僕は、どうすればいい。
 答えが出ないまま帰路につき、ネオンがチカチカと視界にうるさい夜道を車で走り抜けて30分。よくあるアパートの506の部屋の前で足を止め、ポケットから鍵を取り出す。
 施錠を外そうとして手が止まる。
 僕はまだどんな顔をしてに会えばいいのか分からない。
 そっと、慎重に施錠を解いて、ドアを開ける。
 ワンルームの部屋ではテレビがつけっぱなしになっていた。電気はついていない。眠っているのかもしれないと思い、足音と気配を殺してそっとドアを閉めて鍵をかけ直した。そのときカチンと僅かに音がして、ソファの上でぴょこんと毛布が跳ねた。「きょーや?」「…ただいま」観念して声をかけると、毛布から飛び出した小さな影が僕に抱きついた。小さな、あたたかな背中を抱き返して膝をつく。
 小さな体温は僕の帰りが遅いことに不安を感じていたようで、震えていた。
「おしごと、たいへんだったの?」
「うん。ごめんね、遅くなって。寂しかったろう」
「うん」
 くっついて離れないを抱き上げ、さっきまで彼女がいたソファに腰を下ろす。僕が帰ってきて安心したのか、の目は眠たそうに半開きだ。
 くすんだ金髪をすくって唇に寄せ、キスをすると、シャンプーの香りがした。「ご飯は食べた?」「うん」「お風呂は入った?」「うん」いい子、と頭を撫でるとくすぐったそうに細くなってこっちを見上げる青と緑の瞳。
「さあ、眠るんだ」
 ベッドに連れて行くと、は大人しく奥の方に行った。もそもそ布団を被って僕を見上げて首を傾げる。「きょーやは?」「お風呂に入ったら寝るよ」「んー…」ふあ、と大きな欠伸をこぼしたはおやすみなさいとこぼして目を閉じた。すぐに眠った子供の彼女の頭を撫でて、ズルい大人だと自分に呆れながら、小さな唇にキスを落とした。「おやすみ」と囁きながら。
 悩むにしたってデスクの前じゃなくの隣でよかったろう。子供の彼女を無意味に不安にさせてしまった。次からはもうしない。
 雨で濡れたスーツから部屋着に着替え、シャワーを浴びる気分でもなく、僕はソファに腰かけてぼんやりを眺め続けた。
 ……可能性として。この仕事を持ってきたリボーンか、特殊課を柔軟性でまとめている沢田か、どちらかだ。何があっても二人は現場を抜けられない。逆を言えば二人なら確実に日本に留まる。
 ふっと息を吐いて、ベッドの脇で片膝を抱え、目を閉じる。
 携帯を買おう。国際連絡のできるものを。料金なんか気にするものか。会えないのならせめて声だけでも聞かないとやってられない。
 前向きに考えるんだ。この件が本当に移民難民が大量発生した原因なら、この芽を摘めば、日本の治安雇用回復の道が見えるかもしれない。そうなれば仕事は前の量に戻るし、警察を辞めたとしてもそれまでのキャリアで就職が可能だ。ともっと一緒にいる時間を作ることもできるかもしれない。
 そうだ、前向きに考えよう。
 きっと上手くいく。いや、上手くやってみせる。
 雨の音は未だに強く、アパートの窓を叩き、水の音を垂れ流し続ける。
 耳障りなくらいの雨音。言い聞かせる希望を嘲笑うかのように、雨は止まない。
 話があると沢田に持ちかけると、相手はあっさり頷いた。
 僕が外国人を飼っているという話には驚いていたが、偏見の目で見るということもなく、特殊課のバラバラな面子を受け入れる柔軟性でやわらかく笑う。
「写真とかないんですか? っていうかありますよね。よく見てますもんね」
「……はぁ」
 見てないようで周りをよく見ている。
 ポケットから携帯を取り出してオンにし、ロックを解除して、ギャラリーのの写真をスライドショーで再生する。押しつけて渡して沢田の席に腰かけた。一応リーダーなので僕らより位は上だ。椅子の座り心地も悪くない。
 携帯を眺めていた沢田は「かわいい子ですね」と当り障りのない台詞でのことを肯定した。「かわいいよ」とぼやいて返して携帯を取り上げ、オフにしてポケットに突っ込む。
 沢田は大して構える様子もなく、腕組みして考えるような素振りをみせる。
「俺はいいですけど、ちゃんがウチに馴染めるかが心配ですね」
 …あっさりのことを受け入れた沢田が逆に不自然だった。普通、面識のない子供を預かるともなれば、もっと戸惑うし困惑するものだ。
 僕が睨んでいることに気がついた相手は困ったように笑う。
「あー、えっと、ウチってなんかそういう感じで…ほら、あのリボーンが俺のカテキョーになってからはもう波瀾万丈人生だったっていうか。こう、ありえないって出来事にも柔軟になったというか…。間違ってもちゃんに興味あるとかじゃないんで。ほら、俺既婚者なんでそれはないですからホントに」
「…そうだったっけ? 忘れてた」
「結婚してますって…よく言われますけど……」
「子供、いたっけ?」
「…いませんけど。予定はしてましたけど、日本の状況が変わってしまったし、そういう場合じゃなくなったっていうか」
 ごにょごにょ言いにくそうに声を潜ませる沢田にふぅんとぼやいて背もたれを反らせる。
 それなら安心だ。既婚者が妻のいる家庭でに手を出すとは考えられない。あとは沢田家に実際にを連れて行って馴染ませることだ。友達の家だって説明して何度か連れて行ったあとで本当のことを話そう。順序としては妥当だ。
 思考を巡らせている僕に、沢田が首を捻った。「あの、疑問なんですけど」「何」「雲雀さんは、ちゃんのことを家族として想っているんですか? それとも、将来的な恋人と考えているんですか? それとも、大概の人がそうなように、都合のいい人形として使い捨てるつもりですか?」「………」ガチャンと椅子を蹴って立ち上がる。柔軟なくせにツッコむところにはツッコんでくる沢田を睨んで、6年後のを想像する。
 日本では16になったら女は結婚できる。それまであと6年。きっときれいになる。今から心がければそうあれる。天使みたいにかわいくて、ふわふわ魅力的で、離しがたい子に。
「恋人で、家族にしたいけど。それが何」
「いえ。確認したかっただけです」
 さらりと流した沢田は手帳を取り出した。「じゃあ、日取りはどうしますか? まずはちゃん連れてウチに来るんでしょう?」話を進める沢田を睨みつけ、携帯を取り出し、スケジュールを確認する。
 あまり余裕はない。ギョレメ行きの日程はもう出ている。それに間に合わなければならない。
 はいい子だったから、順調に沢田家に馴染んで、僕が遠くに行くという仕事の話をしてもこっちが困り果てるほどグズることはなかった。やっぱり泣かれたけど、連絡手段なら携帯があるし、電話もメールもできると説明して、なるべく早く帰るからと甘やかすと、携帯を握り締めてこっくり頷いて、それきり泣かなかった。
 日本を飛び立つ最後の日、空港まで見送りについてきて、スーツケースを預け終えた僕に抱きついてきた。…やっぱり小さな身体だった。しばらくこの体温には触れられない。どんなに抱き締めたくてもしばらくは会えない。
 人の目のあることを承知でのことを抱き返して、唇にキスをした。
 青と緑の瞳を潤ませているの金糸を撫でて、手を離す。
 キリがない。僕が区切らなければ、はずっと僕にくっついてくるだろう。
「じゃあね。電話もメールもいつでもしていいよ。すぐ返せるかは分からないけど」
「うん」
「僕も、時間のあるときに電話するから」
「うん」
 沢田京子に連れられてぶんぶん手を振るに手を振り返し、特殊課代表として見送りについてきた綱吉を一瞥する。「じゃあ、任せたから。何かあったら承知しない。咬み殺す」「はい、はいはい分かってますって。そっちこそ、しっかりお仕事頼みますよ」「ふん」そっぽを向いて歩き出す僕の背中にあの子の視線が突き刺さっている。
 油断すればあの子のもとに駆け戻りそうな身体を叱咤し、ゲートをくぐる。
 気持ちを切り替えなければいつまでも心が引きずられていく。僕は行かなければ。
「きょーやー!」
 叫ぶような声に振り返ると、がちぎれんばかりに手を振っていた。「だいすき! だいすきーっ!」「…、」泣きそうな声でそう叫んでいる。
 不覚にもじわりと視界が滲みかけて、強く目を閉じ唇を噛んで、顔を背ける。
 僕だって、君のことが大好きだ。愛している。…そう叫びたかった。それを必死で堪えた。そんなことを口にしてしまったらこの気持ちに収拾がつかなくなる。
(ギョレメなんて行きたくない。どうでもいい。僕はと一緒にいたい。あの子と一緒にいたい。僕は、あの子と生きていたい)
 叫びそうになる身体を必死で抑え込んだ。飛行機に乗り込んで、席に座って手を組んで目を閉じて、泣きそうな顔でこの飛行機を見上げているんだろうを想像して……どうかそんな顔はしないでほしいと願いながら、飛び立った飛行機という逃げ場のない密室にようやく全身の力を抜いた。
 これでどう足掻いても僕は逃げられない。もう、戻ることはできない。
 ギョレメへ派遣された特殊課の特別部隊のメンバーはこうだ。
 僕に六道、ランボという入って一年未満の新人に、現地人と会話の可能なトルコ人の男と、ラルとかいう女が一人の計五人。そこに現地までの案内人を加えても計六人の少人数。特殊課の予算がそうはないことを考えると仕方のない人数とはいえ、これだけの人数で移民難民が大量発生した理由を探れなんて、役職だけの人間は現場を無視したことを平気で言う。
 砂と岩と草、あとは空。つまらない景色の中を歩きながら適当に写真を撮って収め、メールに添付する。『ギョレメ国立公園に入ったよ。世界遺産なんだって』…文面はこれでいいか。「仕事中ですよ」「うるさい」六道の小言を切り捨ててにメールを送り、携帯をポケットに滑り込ませる。
 キメラのようにつぎはぎされた死体は現物を確認した。狼とラクダと人間の四肢がつぎはぎされた、腐り始めている死体だった。六道による検証もすんでいる。
 夜な夜な響くという不穏な呪文の声はまだ聞いていないし、魔術の痕跡が云々という胡散臭い出来事にもまだ出会っていない。数字としての銃火器の流通量や精神病患者の異常な増加数は確認した。確かに正常値とは言えないし軽視もできないが、所詮余所者の僕らにできることはない。
 影も形もないといえば、終末を告げる獣の声というアレだ。
 現在、僕らはその獣の声がよく聞かれると言われる国立公園内にいる。
 書面には英文で『獣の声は夜に多く聞かれ、必ず一人、人が消えるという』と記されていた。
 テレビの三流怪奇現象じゃあるまいし、と呆れて物も言えない僕に対し、ラルは真面目に書面に目を通し、「気になるな。必ず一人、か」「何か引っかかるところでも…?」新米のランボが鬱陶しいくらいビクビクして周囲を警戒しているのがウザったい。そのくせラルの斜め後ろをつかず離れずで歩いている。この中で一番近づきやすい相手を選んでいるのだ。
「キメラの数と消えた人間の数が比例している気がしてな」
「え?」
「おや。さすがですね」
「甘くみるな。だが、そうだと仮定しても謎だ。情報を総合し単純に考えると、獣が人間を攫い、魔術のようなものでキメラとしてイタズラに世に送り出している、となる。そんな話は前代未聞だ」
「ええ。目的が見えない。相手が本当にただの獣なら、その知能すらないはず。しかし、総合して考えれば、それが単純明快で一本道。終末を告げる獣…ヨブ記に登場するリヴァイアサンといったところでしょうか」
 真面目に馬鹿みたいな話をしている六道達にはついていけず、現地人とトルコ語で会話しているメンバーから視線を外し、広大な、自然以外何もない国立公園を睨みつける。
 なんでもいい。早く終わってくれ。僕は1秒でも早くのところに帰りたい。あの子のことを抱き締めたい。一緒に眠りたい。幸福の中に浸かりたい。早く全部片付けて日本に。
 獣の声がよく聞かれるとされる夜になるまで、公園内にある岩窟教会で時間を潰すことになった。現地の案内人がいるとはいえ、無闇に歩き回って体力や気力を消耗するのは賢いとはいえない。
 満場一致でより確率の高い方を選ぶことになり、夜まで休憩となった。
 キリスト教の信仰が描かれている絵を眺め、の描いた天使の絵を思い出す。相変わらず待ち受けに設定しているあの子の絵を眺め、きょーや、と笑った顔を思い出してぎゅっと目を閉じた。
(早く帰りたい。早く会いたい。早く。早く)
 夜までの時間は長く、まるで永遠のように感じた。
 そんな時間でも、の寝顔を表示した携帯とあの子の歌声を思い出しながら目を閉じれば、彼女と一緒に眠った気になれば、呆気なく終わった。「雲雀くん」と控えめでいて鋭い声に呼ばれて一瞬で覚醒し、握っていた携帯をポケットに滑り込ませる。
 オオオオーンという低い地鳴りのような声がピリピリと岩窟を震わせていた。
 現地人が必死に喋っているのをトルコ人の刑事が日本語に翻訳する。「現れたようです。彼は死にたくないのでこの場に残ると…」「そっちの方が死にそうな気がするけどね」ガタガタ震えて教会の隅っこで小さくなった案内人に呆れて嘆息し、携行している銃を抜いた。
 低く唸るような声は少しずつこちらに近づいているように感じる。
 ラルがばさりとマントを広げた。重そうだと思っていたマントの内側にはこれでもかというほど様々な種類の武器がぶら下がっている。銃火器系のエキスパートだと聞いてはいたが、どうやら本当らしい。
 新米ランボは役に立ちそうにない手つきで銃の装填を確認している。
 六道は慣れた様子で暗闇でも動体検知の可能なゴーグルをつけ銃を手にした。
「では、行きましょうか」

 全ては順調だった。何も問題はなかった。チーターが相手だったとしても殺れるだけの装備はあったし手段もあった。アフリカゾウでも一分で昏倒するというミサイル弾もある。準備には抜かりなかった。
 僕らが備えていたのは、相手が『ただの獣』だった場合の最善の方法だ。
 それが『ただの獣』ではなく『終末を告げる獣』で、幾千もの人や獣や魚の身体をつぎはぎしたバケモノであるなど、予想もしていなかった。
 相次いで発見されたキメラは生み出されたのではなく、落ちたのだ。あの巨大な身体から、引きちぎれ、残されただけ。
 このさいあのバケモノがどうして生まれたのかとかあれで生きているのかとか、細かいことはどうでもいい。問題は、僕らがそれを相手にして生き残れるかどうか、だった。

 いくら撃ってもキメラの肉片を削って削ぎ落とすだけで銃は通用せず、最終的に一番攻撃力のあるラルのランチャーで爆破したが、効かなかった。「くそっ」装填数のなくなったランチャーを投げ捨てたラルがライフルを構える。
 国立公園を破滅させかねない爆撃を受けても巨体を引きずりながら確実にこちらへと迫っているソレに六道が「馬鹿な」と戦慄いた。常に余裕のある態度を見せて人を小馬鹿にしている六道の冷静さを欠いた顔を僕は初めて見た。どうやらゴーグル越しの確かな映像でも、あのバケモノに致命傷は与えられていないことが確認できたらしい。
「どうする! 来るぞっ」
 機関銃を連射するトルコ人の鋭い声が響く。
 およそ現実感のない光景だ。人の、動物の、魚の身体を引きずりながら、大きな背丈の肉の塊がこちらに迫っている。明確な形はないが、肉片の僅かに盛り上がっている部分が頭なら…それはずっとこちらを見下ろしている。
 カチン、と軽くなった引き金に舌打ちして銃を捨てた。僕に残る武器はサバイバルナイフだけになった。
 肉弾戦は得意だ。ただし、相手が通じるものなら。銃撃爆撃を受けても止まらない相手にナイフで挑むなど死にに行くようなものだ。どうする。

 僕の帰りを待っている少女のことを思う。
 6年後、結婚しようと決めている。それまで大事に育てて慈しむ。
 彼女を扶養できるだけの地位を得るため、今よりもっと仕事に集中しないとならない。結果を出せばもう少し上にいける。今まで気に入らない仕事は嫌だと蹴って沢田を苦笑いさせていたけど、そういうこともなくさなくてはならない。
 僕は、こんなところで死ねない。
 全ての攻撃を受けつけなかった肉片が、空を覆うような形で僕らの頭上を覆う。ゆっくりとしたその動きにも足で逃げるには時間が足りなかった。
 悲鳴。怒号。誰のものか分からない声を聞きながら、迫る真っ黒な肉片に、その肉片に埋め込まれた無数の生き物の目に、背筋が粟立った。いっせいにぎょろりとこっちを見下ろした目の数は吐き気を覚えるには充分で、その肉片にある口という口が金切り声を上げて叫び出せば、そのうるさいことに耳を塞ぎたくなる。つんざく声に意識が、思考が、引き裂かれていく。
 無数の死んだ目がこちらを見下ろし、無数の口が他の何も聞こえないくらいの叫び声を上げる、それだけが分かる現実。
 その時間はほんの一瞬だった。
 降ってきた肉片は僕らを押し潰した。見た目通りの重量と見た目通りの腐った肉のにおいを撒き散らし、ズゥン、と地面が揺れる音を聞く。同時に、自分の身体が潰れた音も。
 全ての音がいつか 消え失せた静寂の中で
 僕達は震えながら 愛の歌を歌いだす

 風を超えて 遠い岸辺へ心は行けるのだろう
 遠くさざめく永遠の音楽が僕らを招くから……

 砂を超えて 遠い岸辺で僕らは出会うだろう
 あの日重ねた歌声をこの胸に
 砂塵の彼方へ……
…)
 笑った、あの子の顔が、掻き消えそうになる。
 僕のために歌を作り、僕のために口ずさんだメロディが、歌声が、聞こえなくなる。
 必死に抗った。僕を覆う闇に。彼女を消そうとする闇に。必死で手を伸ばして闇を払った。それでも燻るように端から崩れていく笑顔に、歌声に、叫んだ。
(嫌だ。僕を置いていかないでくれ。お願いだから)
 必死に手を伸ばした先に、あの子の笑顔の前に、あの子と同じくらいの年齢になった僕がいた。現在の僕と変わらず無表情にの頬を撫でている。
 触るな、僕の子だ、と声を荒らげると、幼い僕は僕のことを振り返って言った。「そんな身体でどうするの? ぺしゃんこだよ。この子には会えない。醜くって、会ったって、君が恭弥だなんて信じてくれないよ」うるさい。「ねぇ、身体が少しも動かないでしょう? ぺしゃんこになったからだよ。みーんな死んじゃった。退治しにきたのに、残念だったね」うるさい。うるさい、うるさい。
 動けない僕を幼い僕が嘲笑う。
「そんなに大事なの? そんなに会いたいの?」
 ああ、そうだ。大事だ。会いたい。帰りたい。僕はあの子のところに帰りたい。
 だけど、身体が動かない。指先の一つも。
 の笑顔がどんどん消えていく…。
「じゃあ、助けてあげようか」
 届いた声に、暗くなってきている視界を彷徨わせる。もう見えない。が見えない。
「僕の手を取ってみなよ。それで契約だ。君のことを生かしてあげる」
 ゆらり、と目の前におぼろげな白い影ができる。
 僕は考える間もなくその手を掴んだ。
 死にたくなかった。帰りたかった。あの子のところに。それが悪魔との契約でも構わなかった。あの子のところへ帰れるなら、戻れるなら、何になったって、どうなったって、よかった。