わたしは普段、一人で遊んでいる。きょーやがお仕事に出かけてから帰ってくるまで、外には出ない。宅配便も、回覧板も、全部受け取らない。部屋の中で一人静かに過ごしている。きょーやがそうしなさいって言ったからだ。怖い人や変な人が来たらいけないからって言われて、わたしは頷いた。怖い人や変な人はいやだ。会いたくない。わたしにはきょーやがいればそれでいい。だから、きょーやの言うことを聞く。
 一人遊びには慣れた。駅の冷たい床に座って物乞いをしていた、あのときに比べれば、何も辛くはない。
 スケッチブックに絵を描く。きょーやが上手だと褒めてくれた天使の絵。小さな背中に翼を生やして、満ちるときを待っている、祈り子。
 わたしは、あまりよくおぼえていない。どうやって日本まで来たのか。気がついたら大勢の子供の中に自分が立っていて、みんながそうしているように駅に行って、大人の人に食べ物やお金をねだるのを真似した。だけどなんだか上手くいかなくて、みんなより下手くそだった。物乞いの真似事だということを大人は見破っていたのかもしれない。わたしは生きることに一生懸命になれなかったのだ。
 物乞いの上手な子は、大人に気に入られようと頑張って、そうして拾われていった子も何人かいる。
 大人に手を引かれて知らない世界に歩いていく子の目には不安と安堵が混じっていた。
 誰も恵んでくれなくて、お腹が空いて、わたしは駅の冷たい床に転がってぐーぐーと空きっ腹を鳴らしていた。
 冷たい床にも、冷たい現実にも、絶望はなかった。
 わたしはおぼえていないけど、この感覚を知っていたのだ。何もない、という感覚を。誰もいない、ということを。パパもママもいない子供だけの現実の重ささえ。
 パパの顔もママの顔もおぼえていない。もしかしたらそんな人達はいないのかもしれない、なんて、馬鹿な話だ。わたしはまだ生きている。もうすぐ死ぬかもしれないけど、まだ生きている。パパとママはいただろう。今も世界のどこかにいるかもしれない。もういない、かもしれないけど。
(おなかがすいた……)
 減りすぎて痛くなってきたお腹を抱えて、冷たい床に頬を預け、目を閉じる。
 最低限の動きしかしないまま何日か過ごして、そろそろダメかなと思っていたとき、きょーやがパンとジュースをくれた。無造作に放られたコンビニの袋がわたしの前に落ちて、食べればいいと言われて、遠慮せずにメロンパンをかじった。オレンジジュースを飲んだ。きょーやはそんなわたしを無表情に眺めていた。やがてパンを食べ終えジュースを飲み干したわたしを見届けるとゆるりと立ち上がって、まだ食べたいならついておいで、と言う。
 わたしは、そうやってここからいなくなった子供のように、大人のきょーやについていくことにした。
 空腹でお腹が痛いのはもういやだったし、冷たい床に転がって眠ることもできればしたくなかった。やわらかい場所で眠りたかったし、ご飯をちゃんと食べたかった。大人についていけば少なくともわたしの願いは叶う。あとは、わからないけど。
 きょーやはきっと悪い人ではない。直感として、わたしはそう感じた。
 きっとわたしを愛してくれる。かわいがってくれる。たとえそうではなくても、彼の手を握ることを選んだのだから、わたしは覚悟しなくてはならない。
 わたしよりずっと大きな手はすっぽりとわたしの小さな手を握り込んで、あたたかい。
 きょーやに連れられて歩いて行く途中、ゴミ捨て場から不自然に飛び出している子供の足を見つけて、無意識に目を逸らした。きょーやはいい大人の人だったから『ああなりたくなかったら僕の言うことをきけ』なんて言うことはなく、黙ってわたしを抱き上げた。
 ……生きることは、簡単ではないのだ。
 色んなものがごちゃ混ぜになった、ネオンがチカチカ眩しい景色に目を細めて、きょーやの胸に頭を預けて、瞼を下ろす。
 ひばりきょーやという人は、わたしにという名前をくれた。自分の名前さえおぼえていなかったわたしには嬉しい贈りものだったことを今でもよくおぼえている。
 きょーやはお休みの日以外お仕事で忙しい。やることがたくさんあるのだそうだ。朝から出かけて、夜に帰ってくる。疲れた顔で、少し目の下にクマを作って。それでも、わたしがおかえりなさいと出迎えると、ただいまとわたしのことを抱きしめる。
 きょーやのお部屋は広くないワンルームだ。わたしの服や絵本、おもちゃ、ゲーム類で床の面積はどんどん減って、意識して片付けをしても部屋は狭かった。
 その狭さと色んなものがごちゃ混ぜになっている景色がわりと好きだった。手の届く広さで、おぼえていられるから。
 背のないわたしのためにきょーやが踏み台を用意してくれた。それを使えばわたしでも電子レンジに届いたし、冷凍庫を覗けた。きょーやの帰りが遅い日は冷凍のお弁当をチンして食べた。電子レンジというのは便利だ。凍っていたものがほかほかのお弁当に早変わりする。
 ソファで毛布を被って膝を抱え、動物園の特集番組を見ながらスケッチブックに色鉛筆を走らせる。
 一人遊びはすっかり特技になりつつあった。
 テレビの光々とした灯りと檻の中の動物を眺め、わたしもきっとああいう存在なのだろう、と薄く思う。
 そうだとしても、わたしは恵まれた。きょーやという優しい人に拾われた。よくしてもらっている。かわいい服を着れて、ちゃんとご飯が食べられて、ソファやベッドで眠れる。部屋は少し狭いから運動はできないけど、わたしは走り回りたいタイプではないからそんなに困りはしない。
 わたしは恵まれた。
 このままが続けば、飢えることはない。痛いほどの空腹とさよならできる。辺りを窺いながら眠ることなくぐっすり朝まで眠っていられる。これがしたいと頼めばきょーやが叶えてくれる。カードゲームとか、ボードゲームとか、色鉛筆とか、スケッチブックとか、全部買ってくれた。

 わたしは、恵まれた。不安になるくらいに恵まれた。
 わたしはしあわせなのだと思う。

「、」
 カー、という鳥の声にはっとして顔を上げる。
 気付かないうちにうとうとしていたみたいだ。動物園の特集番組は終わってしまっている。わたしには退屈なサスペンスを見る気にもなれず、テレビを消して、窓の外に顔を向けて…そこにはりつくようにしている黒い鳥に驚いてばっと毛布を被った。
 カー、カー。不吉な鳴き声がすぐそこでする。
 もう夜になったのに、どうしてそこにいるんだろう。鳥は夜行性のもの以外飛ばないのに。夜目、がないから、色んなものにぶつかったりしてしまうから飛ばないんだってきょーやが言ってたのに。
 そろそろと毛布の隙間から窓を見ると、夜の色に紛れた黒い鳥はまだいた。窓にはりついてこっちを見ている、気がする。
 鳥の頭は小さいけれど、カラスは頭がいいんだと言っていた。ゴミ捨て場の場所をおぼえるし、人の顔もおぼえるし、自分達にとっての有害無害も判別するのだとか。
「あ、あっちいって」
 しっしと手を払ったところでカラスは動かなかった。カー、とまた鳴く。ばさばさ羽ばたく。だけど飛んでいかない。真っ黒な身体に真っ黒な目でこっちを見ている。
 カラスは頭がいいのだ。だから数を増やしている。治安の悪化、で街にゴミが増えて、行き倒れた外国人の死体とかも増えて…処理しきれないゴミが溢れていると知っていて、東京にやってくる。
 カー、カー、カー。耳障りなノイズが頭を痛くさせる。
 すっくと立ち上がって、ばさっと毛布を落として、両手で掴んで引きずって窓際まで行く。懇親の力で毛布を振り上げて窓に叩きつけると、カラスはばさばさと翼を広げて飛び立った。重たい毛布をぼさっと落としてすぐにカーテンを閉める。
「きょーや…」
 まだ、帰ってこない。今日は帰りが遅い。もうご飯は食べてしまった。残っているのはお風呂だけど、なんだか怖いから、まだ入りたくない。
 カラスなんかいなければ、きょーやまだかなぁって窓から車のライトを探したのに。
 ぐっと唇を噛んでまたテレビをつけた。ニュース、お笑い、サスペンス…旅行番組にチャンネルを合わせてボリュームを上げる。
 じっと、他の何も考えないで、電車の旅をしている夫婦と旅行地を眺め続けて、カチャン、と鍵の外れる音にぱっと顔を向ける。玄関の扉が開いて、ネクタイを外しながらきょーやが帰ってきた。ソファを蹴飛ばして走ってきょーやのところへ行って抱きつく。「おかえりなさい」「ただいま」「おそい」ぽかぽかスーツの胸を叩くとごめんねと頭を撫でられた。それから抱き上げられて、きょーやと同じ高い目線になって、頬にキスされる。
「どうかしたの。何かあった?」
 きょーやは優しくわたしに訊きながら、上手に片腕でわたしを抱いて、スーツの上着を脱いでいる。「…カラス」ぼそっとこぼすときょーやが首を捻った。「カラス?」「カラスが、まどのそとで、わたしをみてたの。ここ、カラスおおい」びしっと窓を指すときょーやが眉根を寄せてカーテンを引いた窓に歩み寄った。しゃっとカーテンを引いて暗い夜を眺める。
「雨戸をつけようか」
「あまど? ってなに?」
「シャッター、みたいなものかな。外は見えなくなるけど、カラスは防げる」
 わたしが頷くと、じゃあそうしようと言ったきょーやがカーテンを閉め直し、わたしを抱えたままベッドに寝転がった。…また疲れた顔をしてる。
 そんなきょーやのために考えたことがある。
 もそもそきょーやの腕から抜け出して、疲れた顔をしているきょーやの頭を持ち上げて、腿の上にのせた。人の頭は案外と重たい。「…?」「そうしてて」動こうとするきょーやの頭をぎゅっと押さえる。
 疲れた顔をして眠るきょーやのために、歌を考えた。ラララとかルルルとか、ほとんどそんな歌詞しかないけど、メロディは一生懸命考えた。忘れないように絵を描きながら口ずさんだし、口が暇なときはいつも歌っていた。
 全ての音がいつか 消え失せた静寂の中で
 僕達は震えながら 愛の歌を歌いだす

 風を超えて 遠い岸辺へ心は行けるのだろう
 遠くさざめく永遠の音楽が僕らを招くから……

 砂を超えて 遠い岸辺で僕らは出会うだろう
 あの日重ねた歌声をこの胸に
 砂塵の彼方へ……
 まともな歌詞はそのくらいで、あとはラララとルルルの応用だ。辞書を見ながら一生懸命歌詞を考えた。きょーやに似合うようなカッコよさと、眠くなるような安心感のあるメロディを。
 きょーやは黙ってわたしの歌を聞いていたけど、ごろんと寝転がってわたしを見上げると、大きな両手でわたしの頬を挟んだ。灰色の瞳はテレビの光を受けて輝いている。
「ずいぶん、難しい言葉で考えたんだね。辞書を引いたの?」
「すごいでしょう」
「うん。すごい」
「きょーやににあう、カッコよくて、ねむたくなるうただよ」
「…そう」
 するり、と肌を滑った手がベッドに落ちた。まどろむように目を細くするきょーやにわたしは歌った。何度も、何度も、ちょっと歌詞を間違えたりしながら、日本語の難しさに舌を噛んだりしながら、一生懸命歌った。きょーやはぼんやりした顔でわたしを見上げていたけど、眠たくなってきたのか、目を閉じて、わたしの腿に頬をこすりつけて動かなくなった。
 それから5分くらいは歌い続けて、そろりとキョーヤの黒い髪を指で払った。…眠ってる。わたしの計画は成功だ。きょーやへの子守唄は成功した。
 やった、とガッツポーズして、そっと、そっと、を心がけながらきょーやの頭をベッドに下ろす。そろりそろりとした動きでベッドを下りて、きょーやに布団をかけてあげて、テレビを消す。
 今日はもうお風呂はいいや。明日にする。きょーやを起こすといけないからソファで眠ろう。
 歌い続けて渇いた喉をスポーツドリンクで潤して、ソファに転がって毛布を被り、目を閉じる。

 わたしは、しあわせだ。