僕は多分、彼女のことが嫌いだった。

「あ」
 そうこぼしてごとんと包丁を取り落とした彼女の手の甲に滲む血の色。手を滑らせたのか何なのか、彼女はどうやら包丁で手の甲を切ったようだ。それだけでもなぜかものすごく苛々する。家事一つやらせても彼女は全然何もできない凡人なのだ。
 そのくせ包丁の刃で切れた傷口を見やる彼女の無表情と言ったらない。それがまた気に障る。凡人なら凡人らしく痛みに敏感で痛いって言えばいいものを、彼女はそう口にしない。ここから見る限りでもその手の甲を血が伝って雫になっているのが見えるのに、彼女は痛いの一言も漏らさない。
 それから落とした包丁を拾い上げて何事もなかったみたいにじゃぶじゃぶと適当に傷口を水道水で洗って、それで放置。普通絆創膏の一つくらい貼ろうって考えないのか。だから僕はそれにまた苛々してぎしとソファを軋ませ立ち上がって救急箱を手に取った。仕方なく中から絆創膏を一つ引っぱり出してずかずかと彼女に歩み寄りなおも包丁を握ろうとするその手をばしと握り締めて止める。苛々が反映されてちょっと乱暴な動作になった。びっくりしたんだろう彼女がまた包丁を取り落として、ごとんと音を立ててシンクの上に落ちた。丸い目がこっちを見上げて「雲雀さん」と僕を呼ぶ。

 その瞬間。彼女の視界に僕が映り僕の名前を呼ぶというその行為に、僕はどうしてか無性に、どうしようもない思いを抱える破目になる。

「何してるの。怪我したんなら手当てが先でしょ」
「すいません。でもお鍋に野菜を入れないと」
「そんなこと後でいい。ほら手」
 だからぐいと彼女の手を引いてもう一回水道水で血を洗い流した。赤い色はいつまでたっても滲んできて、結構すっぱり切ったのだということを僕に訴えてくる。それなのに眉を顰めることもせず痛いと言うこともない彼女が、僕にはとても腹立たしい。
 凡人なら凡人らしく痛いって言えばいいものを。そう言ったら僕だって君をただの凡人だと切り捨てられるのに、どうして君はそういうところで凡人ではないのだろうか。
「痛い?」
 そう訊いても、彼女は困ったように眉尻を下げて「それなりに」と言うだけ。何だよそれなりって。痛いなら痛いって言えばいいのに。大袈裟なくらいに喚いて痛いの雲雀さんってどこにでもいそうな女子みたいに喚けばいいのに。僕に訴えればいいのに。彼女はそういうことをしない。
 それでいいはずなのに、僕はどうしてかそれがとても腹立たしい。
「もういいよ。僕がやる」
「え、でも」
「食器。用意して」
 だから彼女を戸棚の方に押しやった。このまま放っておいたらまた馬鹿をするに決まってる。そんなこと見るまでもなかった。だから僕は料理なんて好きじゃないのに料理をする破目になる。こんなことなら家政婦の一人や二人雇えばいいのにそれすら何だかめんどくさい。だから彼女をここに置いてるのに、肝心の彼女は役に立たないし。
(何で僕はをそばに置いてるんだろう)
 先週までここに木があったんです。行きと帰り、いつも見てた木なんです。それが今朝見たらなくなってて、それを見たら私、なんだか
 苛々する。彼女を見ているととても。だから最初に会った頃。一度だけ、僕は群れてる奴を咬み殺すのと同じ感覚で彼女のことを気に入らないと思い、その頭をトンファーで殴った。
 当然彼女は倒れた。当たり前の法則だ。だけど痛みで意識を飛ばすことはなかった。ただぼんやりとした死にかけみたいな視線が僕を捉えた。それだけだった。
 思い出したらまた不愉快になってきた。ばしゃばしゃとぞんざいに鍋の方に野菜を入れてぱんと蓋をして、野菜なんだから煮れば食べれるなんていうぞんざいな思考で手を洗って振り返る。彼女はちゃんと言った通り食器の方を用意し終えて、それからダンボール箱の前でしゃがみ込んでいた。
 その中には猫が一匹入っている。もうすぐ、死ぬと思う。彼女はそれを看ている。
 何を言うでもなく、何を映すでもなく。その瞳はただ静かにこの世界から消え去ろうとしている一つの命を看取っている。
 車に轢かれたのか何なのか、彼女が拾って持ち帰ってきたその猫はもう虫の息だった。ただそれでもまだ息をしていた。僕は委員会があったし帰る途中で群れてる連中を見つけたからそれを片していたせいで帰りが遅れた。帰ってきてみれば彼女はダンボール箱に虫の息をしてる猫の面倒を見ていた。それだけ。
 馬鹿じゃないって何度も言った。彼女は困ったように笑って馬鹿だと思いますと答えた。それだけ。
(ほんと、馬鹿じゃないの)
 悲しいと。彼女はそう言う。
「…雲雀さん」
「何」
「この子。お庭に埋めてもいいですか?」
 その言葉に顔を顰める。それから歩いて行って彼女の白い指先が猫の頭を撫でているのを視界に収め、その猫がすでに息をしていないことに気付く。
 彼女は死体を撫でている。いつもの、いたっていつもの顔といつもの声で。
「やだよ」
「…そうですね」
 彼女が顔を上げて困ったように笑った。それからダンボールを抱えて「じゃあちょっと行ってきます」とか言うからやだよと言った自分を僕は刹那後悔する。彼女は僕が駄目だと言えばあっさりそれを諦める。まるで頓着しない。僕はこんなにも君に苛々したり不愉快だと思ったり君のことで頭がいっぱいになるのに君は違うのか。僕でない僕がそんなことを叫ぶのが聞こえる。
「いい」
「はい?」
「いいよ。庭に埋めれば」
 だから前言撤回してそう言えば、何度か瞬きした後に彼女が笑った。少し嬉しそうだった。僕はその笑顔に何も言えなくなる。言いたいことは山ほどあるはずなのにそのどれをも僕は口にできなくなる。
 どうして庭に死んだ猫を埋める許可をしたところで君が喜ぶのか。そんな猫どこにだっている、そんな運命を辿る人間だって腐るほど。生きてるんだからいつか死ぬ。弱い者は死ぬ。弱肉強食と運だけの世界の中で敗者になった猫が彼女の手に抱かれ、尽きたその命を看取った彼女はそれでもその命あったもののために何かをする。
 馬鹿だ。彼女はどうしようもなく、本当に、大馬鹿者だ。
 だから僕はもう色々諦めて、かちんと鍋の火を消した。庭の方に行く彼女のためにスコップとかを出してこないとと考える自分に気付いて僕は溜息を吐く。だから、どうして僕がこんなことを。
「雲雀さんは強いですよね」
「それが何?」
「強いと、何かいいことはありますか?」
「…別に。気に入らない奴は咬み殺す。それだけだ」
「じゃあ弱いと、何が残るんでしょう」
「……知らないよ。僕は強いから。それは君が考えられることでしょ」
「そうですね。そうでした」
 庭の片隅に作った猫の墓。名前も知らない、そもそも名前なんてものなかったのかもしれない一つの生き物の成れの果て。彼女はその墓に一輪、庭に咲いていた彼岸花を飾った。雲雀さんと呼ばれて一輪だけいいですかと言われてしまえば、僕は駄目だと言えなくなる。駄目だと言ったら彼女はまたあっさり諦めて、今度はどこか外から花を探してくるんだろうなんてこと痛いほどに分かってた。
 一輪だけ飾った彼岸花。月明かりが照らし出す庭の中で、彼女は静かに猫の墓を見ていた。
「雲雀さん」
「何?」
 彼女がもう土に埋もれた猫のいた場所を撫でる。「わがままを言ってすみません」と謝られて僕は言葉に詰まった。確かに最初やだよって言ったから嫌だって意味に取られてるんだろう。事実庭に動物の死体がなんて考えてもいい気分はしない。
 だけど君が望むなら。それくらいは。別に許してもいいかと思ったのも事実。
「…別に」
 だからそっぽを向いてそう言えば、彼女が顔を上げた。涙。月明かりの下でその重さに潰されてしまいそうな、そんなどうしようもない彼女がいる。凡人以下の儚さを持った彼女という生き物。そのくせ凡人よりもどこか何かが違う彼女。凡人なら凡人らしくしてればいいのに彼女は頬を伝う涙に困ったように首を傾けて笑う。
「弱いと。涙脆くていけませんね」
「……知らないよそんなこと」
「強い人は泣かないんでしょうか」
「僕は泣かない」
「そうですね。雲雀さんはとても、強いです」
 彼女が立ち上がる。その姿が月明かりの下で消えそうな背中を見せる。猫の墓には一輪の彼岸花。暗い闇を切り裂く月明かりに彼女の姿まで消え去ってしまうんではないかという錯覚を、僕はなぜだか憶えた。

失う前に
してしまえ