ピピピピと音を立てるアラームに、布団の中から手を伸ばし、枕元の携帯を掴む。アラームを止めてカレンダーできょーやが旅立ってからの日数を数えるのが朝起きてからの日課だ。まだ眠いとかすむ視界を凝らして日付を数える。
 今日で、365日め。ちょうど一年になる。
 きょーやが遠くのギョレメという土地にお仕事に出かけて、一ヶ月後、派遣した特殊部隊が消息を絶ったという話をツナに聞かされた。
 メールをしても返事がないし、電話をかけると『おかけになった電話番号は、現在電波の届かないところにいるか、電源が入っていないため、かかりません』とアナウンスされる。そんなことを三日も続けていれば、きょーやに何かがあった、と考えるのは子供のわたしにだってできた。
 今日で一年。相変わらずきょーや達派遣部隊は誰一人見つからず、彼らの行方についての捜査の進展はない。
 もそもそと起き上がり、カーディガンを羽織って携帯をポケットにしまって、リビングに行く。テーブルにはもうツナの姿があった。きょーこもご飯を用意している。「おはようちゃん」と笑いかけられて、ぺこりと頭を下げて返し、黙って席に座った。
 もう一年、きょーやに会っていない。
 わたしはずいぶん背が伸びた。あと、ツナの勧めで、私塾に通うようになった。暇を持て余しているのはもったいないということで、日本で生きていくのにあっても困らないだろう基本的なお勉強をしている。それから、きょーこの料理を手伝うようになった。買い物も一緒に行くようになった。おかげで簡単なひらがなとカタカナなら読めるようになりつつある。漢字はこれからの課題。
 自分でも納得できるくらいにおいしいハンバーグが作れるようになったから、きょーやに食べてほしいのに、きょーやは帰ってこない。
 きょーやがいなくなってから、なんだかご飯がおいしくない。回るお寿司屋さんに連れて行ってもらっても、宅配ピザでも、ファミレスでも、なんだか味がぼやけて感じる。唯一はっきり分かるのはきょーやとたくさん作ったハンバーグくらい。
「ツナ」
「うん?」
「きょーや、まだ見つからないの?」
 わたしが一日に一度は必ず訊ねることだ。そうしてツナはいつも困った顔になる。
 わたしは口をつぐんで黙ってご飯を食べた。胃に入れるだけ入れて「ごちそうさまでした」と早口に言ってシンクにお皿を下げ、歯磨きと洗顔をすませにいく。
 マンションの一室は広くて、わたしには自分の部屋があって、お小遣いをもらえて、好きな服が買えて、好きなおやつをつまみ食いできる。本を買うこともできるしゲーセンに費やすこともできる。自由だ。あのワンルームでの生活が一年と少し前で、きょーやと一緒にソファやベッドで寝転がって過ごしたあの時間は、ここにはない。
 雑多に積み上がった本や雑貨類。床の踏み場がないくらい散らかって隅には埃が目立つ部屋は狭くて、きれいとは言えなかった。なんでも手に届く場所にあった、一つですんでいた部屋。今はこんなに広くて、床のフローリングもきれいで、壁紙の花柄模様もきれいで、わたしなんかにはもったいないくらい整った環境。
 それが悲しくて、ベッドの上で一人で泣いた。
 雑多でよかった。散らかっていてよかった。埃っぽくてよかった。不安になるくらい静かな一人の時間が続いてもよかった。それできょーやが帰ってきてくれるなら、わたしはそれがよかったんだ。
 この国の人達は日常というものを疑わない。わたし達難民が日本に溢れたのは突然のことで、それは今までの日本のあり方を劇的に変える、日常を変える出来事だったのに、この国の人は簡単に壊れてしまう日常というものを信じたいらしい。それは変わらないでずっと続いていく普遍のものだと。
 わたしは、動物園を想像した。まるで檻の中の生活に安心している動物みたいだ、と思った。
 檻の中は狭くて不自由だけれど、鉄の格子は強固で、よほどのことがない限り外からも中からも破られることはない。それに捕らわれているけれど、守られている。…この国の人達はそんなふうに考えているのだろうか。その中にさえいれば安全で、ご飯も出てきて、狭いし退屈だけれど、生きていける場所。そんなふうに考えているのだろうか。
 ぼんやり塾まで行き、わたしでも頑張れば理解できる内容の無理のない授業を受けて、日本語の勉強や簡単な一般知識を学び、いつもの時間に建物を出る。そして、ポケットから携帯を取り出して、いつものようにきょーやに電話をかけた。
『おかけになった電話番号は、現在電波の届かないところにいるか、電源が入っていないため、かかりません』
 …やっぱり出ない。
 はぁ、と溜息を吐いてポケットに携帯を押し込む。
 きょーやがいなくなって二年目に入った。…それでもきょーやは帰ってこない。
 それがどういうことなのか、子供のわたしでも、薄く気がつき始めている。
 何か、気分転換をしなくちゃいけない。このまま帰ってもきょーこに心配させるだけだ。嘘でもいいからもう少しだけ元気にならないと。
 ファーンと大きなクラクションの音に背を押されるようにして歩き出して、公園に向かう。横目で確認するとどうやらトラックが人を撥ねてしまったようだった。クラクションの大きな音と、日本語ではない人を罵倒する声が聞こえて、わたしは耳も目も塞いでその場から遠ざかった。
 治安も雇用問題も何も解決していない現状、こういう場面に遭遇したら、何も知らないって顔をして逃げるのがいいとツナに教わった。たぶん、きょーやでも同じことを言うと思う。わたしには解決しようのないことだから、巻き込まれることだけは避けなさい、って。
 わたしは公園に向かった。塾の女の子達の間で評判になっている車上販売のクレープ屋さんが公園に気紛れにやってくるらしいという話を思い出したのだ。
 甘いものは好きだ。なんだかしあわせな気分になれるから。
 こういうときは好きなものでも食べてしあわせな気分に浸って、帰ろう。そうじゃないとまたきょーこに心配される。ちゃん大丈夫? って。
 ツナもきょーこもいい人だ。わたしはなるべく二人に心配をかけたくない。きょーやがいないからって理由で泣いても何も変わらない。
 だから、嘘でも元気になるのだ、わたし。
 ベンチの横に車上販売のクレープ屋さんが展開していた。気紛れでやってくるクレープ屋さんを発見できるとは、ラッキーだ。
 とことこ歩いて行ってメニューを眺め、どれにしようかと悩む。チョコバナナなんかは安いけどストロベリーチーズケーキとかは100円は高くなる。チョコバナナなら味は想像できるし…せっかくなら高くておいしそうなものにしようかな。
「すみません」
 車上販売のカウンターは背が高かったので、頑張って背伸びして声をかけた。「いらっしゃーイ」とどこか片言の日本語と見た目からしてわたしと同じ外人さんだ。移民さんだろう。「抹茶ショコラ、ください」「はいハーい。450円でっス」財布を引っぱり出して100円玉4枚と50円玉1枚をカウンターに置いた。
「はいちょうどーアザます。レシートいる?」
「ください」
「はァい。じゃ、これ番号札ね。できたら呼ブかラねー」
「はい」
 すぐそこにベンチがある。ここで待っていようと腰かけて、また携帯を取り出している自分に呆れる。もう一度『きょーや』のアドレスにコールした。どうせあのアナウンスが流れるだけで繋がるはずがないと諦めながら。
 けど、プツプツプツと番号がプッシュされる音がして……このニ年『おかけになった電話番号は…』というアナウンスが流れるだけだったきょーやの携帯へとプルルルとコールの音が響く。そのことに最初呆然とした。二度目、三度目、と続くコール音に我に返って携帯に耳を押し当てる。
 もう二年、きょーやは音信不通だった。どんなに連絡を入れても返ってくることはなかった。
 きょーやは無事なのかもしれない。ツナにきょーやのことを訊ねながら、半分諦めていたわたしは、携帯のコール音に縋った。お願いきょーや出て、と。
「16番さーんお嬢ちゃーン、抹茶しょこラお待ちど〜」
「あ、はい」
 ぱっと顔を向けて返事をしてベンチを立ち、もう一度携帯を耳に押し当てたときには、もうコール音はしなかった。ツー、ツーと電話が切れたことを示す音がするだけで、繋がらなかった。
 …そうだよね。もう二年繋がらないままだ。今頃、繋がるわけないよね。
 肩を落としたわたしだったけど、クレープ屋のおねーさんの抹茶ショコラが思っていたよりもおいしくて、すっかりその甘さにしあわせになって、ただの一回コール音が繋がっただけの電話のことなど、すぐに忘れてしまっていた。それがどんなに重要な起点になるのかも知らずに。
 クレープのおいしさにすっかり満足して、上機嫌に公園を出ようと歩いていたときだ。わたしは信じられないものを見て足が止まった。公園の入り口で退屈そうに灰色の曇り空を見上げている人の横顔にとても見憶えがあったのだ。
「きょーや…?」
 その横顔は記憶にある彼にとてもよく似ていたけど、きょーやにそっくりなその人の髪はブロンド色で、瞳は蒼くて、きょーやなら着ないだろうやわらかい色のコートを羽織っていた。
 きょーやじゃない。とても似ているけど、彼であるはずがない。そう分かっていたのに止まった足はよく似たその人に向かって駆け出していた。全くの別人、他人の空似であった場合のことがちらりと頭をよぎったけど、そのときはそのとき、素直に人間違いでしたと走っていけばいい。
 砂を鳴らして駆けていき、目の前で止まったわたしに、退屈そうに空を見上げていたその人がわたしに視線を落とした。本当によく似ている顔だった。でも、「ボクに何か用事?」と降ってきた声はやっぱりきょーやとは違った。わたしと同じ、外人さんのイントネーションだ。「え、えっと」やっぱり人違いだ。他人の空似。こんなにきょーやに似ているなんて、他人だなんて言われたらその方が信じられないけど…わたしは念のため、きょーやによく似たその人に、確認してみることにした。
「あの、きょーやって人、知ってますか」
「は?」
「ひばりきょーやっていう人」
 顔を顰めて眉間に皺を寄せるその人に、足が一歩引く。きっと変な子供だと思われているに違いない。
 ツナには知らない大人には声をかけちゃダメだし、絶対についていかないようにと毎日のように言われている。「あの、ごめんなさい、なんでも」なんでもないです、と逃げようとして、ぱっと顔を背けて一歩踏み出したところで大きな手に手首を掴まれた。驚くぐらい冷たい手だった。その冷たさにびっくりして振り返ると、その人はしげしげとわたしを観察していた。その冷たい視線に首を竦める。
 きょーやによく似ているけど、全然、似てない。矛盾してる。
「ふぅん…ひばりきょーやって、雲雀恭弥のことだろう?」
「え、」
「違うの?」
「い、いえ、そうです。雲雀恭弥、です。あの、知ってるんですか?」
「知ってるよ。ボクと彼、よく似てるだろう」
 こくんと頷くと相手は唇を歪めて笑った。そういう笑い方も似てない。きょーやはそういうふうには笑わない。わたしがそういうきょーやを知らない、だけかもしれないけど。
「兄弟みたいなものなんだ」
「兄弟…?」
 でも、わたしはきょーやからそんな話は聞いたことがない。
 ああ、そういえば、彼の家族の話なんて聞いたことがない。わたしにとってはきょーやが家族で、それが当たり前だったから、きょーやの家族のことなんて改めて気にしたこともなかった。
 アラウディと名乗ったその人に『きょーやのことを話してあげる』と誘われて、わたしは少しだけ悩んで、結局、きょーやによく似たアラウディについていくことにした。ろくに知らない大人に。よく知っている人の面影のある大人に。
 もう二年は会っていないきょーやのことが恋しかった。それなのに流れる月日が彼のことを薄れさせていく、そのことが怖かった。
 彼の生存を信じるだけの毎日が辛くて、わたしは、面影に縋ったのだ。
§   §   §   §   §
 バン、と遠慮なく扉を蹴破って入ってきたリボーンに驚いて手から書類の束が落っこちた。「あー…」ばさばさ床に散らばった書類に額に手をやってからバンと扉を蹴って閉めたリボーンを睨む。「お前な。もうちょっと遠慮しろよ。俺ここじゃ偉いんだぞ」「オレの方が上だ」「…ちぇ」当たり前のような切り返しに舌を出し、散らばった書類を集めに屈む。
「で? どうかした?」
「ミラーヒューマンが出た」
 5枚ほど集めた書類がまた手から落ちた。顔を上げた俺をリボーンが睨むように見ている。「…連中も懲りないな」唸るようにこぼして眉間の皺を解きほぐす。…どおりでリボーンが殺気立つはずだ。
 腕組みしたリボーンが防音ガラスの向こうのフロアを一瞥する。特殊課をまとめる俺と、もう一つ上の位置に立つリボーン。俺達が話していれば暇な人間は聞き耳を立てるだろう。だからこその防音仕様だ。今のところあからさまにこっちを見ている目はない。
「雲雀が残していったガキはどうしてる」
「元気だよ。今頃塾だと思うけど」
「迎えに行け。今すぐだ」
「はぁ? まだ勤務中だって。だいたい、ミラーヒューマンが出たって言っても今までみたいな分かりやすいのなんだろ? 明らかに失敗作みたいな」
「いーや。連中も本気でオレらを潰しにきてる」
 俺の言葉を否定したリボーンが勝手にパソコンを操作して一枚の画像を表示させた。
 それは、雲雀さんによく似た外人の風貌をしている人間が写っている一枚だった。
 意味もなく唇が震えて、それを隠すのに拳を押し当てる。
 いつかこんな日が来るだろうことは分かっていた。
「これは…?」
「ついさっきモニタに引っかかったやつだ。30分前だな。場所は見て分かる通り公園だ。お前がガキを通わせるのに選んだ私塾のすぐ近くの」
 散らばった書類を集めることも忘れて立ち上がってドアノブを掴んだ。「それを早く言え馬鹿!」部屋を飛び出しながらすれ違った人に「ごめん俺の部屋の書類拾って集めておいて!」と勝手な指示を残し、ホログラムで無意味に平和に彩られた廊下を疾走する。
(無事でいてくれ)
 毎日必ず雲雀さんのことを訊ねてくる少女の暗い顔を思い出しながらビルを出てタクシーに飛び乗った。

 は難民だ。雲雀さんは申請すらしていなかったけど、戸籍という制度がまだ残っている日本において、パスポートや身分証明のできない人間には身元保証人というものが必ず必要になる。何か不祥事や不備があった場合に責任を取る人間がいる、という保証があって初めて難民はある程度の自由を得る。仕方がないのでその申請は俺がしておいたけど、名義は俺になっている。雲雀さんが戻ってきたらその名義を変更しようと思って、結局、まだ俺が保証人のままだ。
 一年。二年。あなたがを置いていって、俺がを預かって、もう二年になる。
 あの子に何かあったら俺は帰ってきた雲雀さんに咬み殺されるだろう。まず間違いなく。

 俺達の水面下での戦いを、リボーンは『見えない戦争』だと言った。
 お互い自分達の正体を晒すことなく使い捨ての駒だけを使って互いの手を潰し合う。駒の数は圧倒的にこちらが不利だが、駒の性能はこちらの方が上。そうやってなんとかやりくりしていたが、ついに、高性能のミラーヒューマンが…敵が現れたのだ。俺達という邪魔な人間を潰そうと本気になった。
 息を切らしながら公園に行った。今日は天気が悪く、昼間にしては公園内に人気は少ない。ベンチの横にある車上販売のクレープ屋に目を留めて聴き込めば、はここでクレープを買って食べたらしい。そして、出入口で金髪の男と話しているようだった、とドレッドヘアの外人は答えた。
「なニ? よく似た髪の色だカラ親子カなーって思ったけド、違っタ? 誘拐?」
「いえ、そういうわけでは。どうもありがとうございました」
 すぐにその場を離れて公園を飛び出したものの、行く先なんか分かるはずもなかった。くそ、と髪をかき回して、リボーンに電話しようとして、京子から着信が入っているのに気付いた。ついさっきだ。かけ直すと、京子はすぐに出た。『ツっくん?』という声に、場合じゃないって分かっていたけど、じんわりと心が滲む。
「俺だよ。どしたの」
『うん…あのね、ちゃんが帰ってこないの。塾にね、電話したんだけど、とっくに帰ったって…もしかしてツっくんのところに行ったのかなって思って』
 やっぱりそうか、と奥歯を噛み締めて、携帯を耳に当てて不安そうな顔をしているだろう彼女に笑いかける。「大丈夫。俺が見つけて帰るから。京子はおいしいご飯を頼むよ。が好きなハンバーグなんていいんじゃないかな」いつもどおりを心がけると、京子は迷ったような空白のあとに『そうね。うん、そうするね。ツっくん、ちゃんお願いね』と言った。彼女は俺の心の変化に気がつく。そういう子だから、というのもある。でも、それだけじゃない。
 通話を切って、リボーンにかけ直す。すぐに繋がった。『ダメか』「聴き込みしたら、ミラーヒューマンに連れられて行ったのを見たって人がいた」ちっと舌打ちしたリボーンがあからさまに溜息を吐く。
『ガキの教育がなってねぇぞツナ。知らない大人についてくなって教えなかったのか?』
「教えたよ。毎日くどいくらい。だけど、そういう問題じゃないだろう。あの子は子供だ。相手はミラーヒューマン、雲雀さんそっくりの奴なんだ。…夢を見たっておかしくはない」
 毎日雲雀さんのことを訊ねてくるあの子にとって、雲雀さんは大事なんだろう。雲雀さんもを大事に想っていた。将来的に恋人に、家族に、と本気で考えていた。
「手当たり次第、この公園から範囲を広めていく形で監視カメラのデータを検証してくれ。なるべく早く」
『言われなくてももうやってる。野郎、器用に立ち回ってやがるな…とにかく捜せ。明るい表通りじゃなく、路地裏方面を』
「分かってる」
 何か分かったら連絡を、と言葉を交わして通話を切り、走り出す。
 アテはない。それでも止まっているわけにはいかない。
(夢を見たい気持ちは分かる。俺もそうだ。甘くて幸せな夢をいつまでも見たいと思ってる。砂糖水に浸かってふやふやになって、そのまま溶けてしまいたいって。情けないだろ。大人でさえこうなんだ。子供の君が何を思うのか想像に難くない)
 雲雀さんに連れられてウチに初めてやってきた彼女は、子供の顔をしていた。知らない家に緊張はしていたが、雲雀さんがいるから、安心して笑っていた。彼を信頼していた。身を任せていた。幸せそうだった。
 雲雀さんがいなくなって、消息を絶って、彼女のぎこちない笑顔はさらにぎこちなくなり、今ではこちらを気遣って笑顔でいるような状態だ。でも、俺と京子じゃどうにもできない。せめて気遣われていることに気がつかないフリをして、今までみたいに接することしか。彼女にこれ以上気負いさせないことしか。
 俺達じゃあの子の素直な笑顔を引き出すことはできない。
(あなたじゃなきゃ駄目なんですよ。雲雀さん)
 適当な路地裏に飛び込んで、そう得意ってわけでもない銃を構え、野良犬が集っている何かを気にしないようにしながら進んだ。浮浪者やダンボールの居住を構える難民の巣窟を横目に狭く汚く暗い道を駆け抜ける。場違いなスーツで走り抜ける俺を暗い瞳が見ている。
 こんな場所だからだろうか。風に乗って闇のにおいが漂っている気がして眉間に皺が寄った。
 …こんな風の吹くとき、必ず、見てはならない者達が蠢く。この世界を陰から操り、転がしやすい形に作り変えている、奴らが。
§   §   §   §   §
 話をしようと言われてついていって、冷たい手と手を繋いで、気がついた。二年前のきょーやの記憶が確かなら、その手はきょーやの手とそっくり同じ大きさをしていた。
 でも、男の人の手に詳しいわけでもないわたしは、手の大きさまでよく似ているんだな、と思っただけだった。
 連れて行かれたのは高級料理店だった。わたしでもそうだと分かる佇まいと敷居の高さ。立派な門扉があって、和服姿のきれいなおねーさんが丁寧に出迎えてくれる、高いお店だ。まさかこんなお店に連れて行かれるとは思っていなくて戸惑っていると、冷たい手に問答無用で引っぱられた。大人の男の人の手を子供のわたしが振り解けるはずもなく、大人しくついていく。
 案内されたのは個室だ。畳の部屋の、きれいで大きな机のある、中庭の見える部屋。落ち着いた音楽、落ち着いた色の机と座椅子。きょーやにだってこんな場所に連れて行ってもらったことはない。
 物珍しさできょろきょろしている私を眺めていたアラウディが口を開いた。
「君は、夢を見ることは好きかい」
「え?」
 唐突な話題についていけず目をぱちくりさせると、彼はまぁ座りなよと私に着席を勧めた。言われるまま座椅子に正座する。「夢、ですか?」「そう。夢」それでも手は離されなかった。冷たい蒼の瞳がじっとわたしを見下ろしている。
 夢って、なんの夢のことだろう。眠って見る夢のことだろうか。それとも、将来とかのことを語るときに使う夢のことだろうか。
 考えてみた。夢…眠って、きょーやと一緒にいる夢を見たら、きっとしあわせだろう。でも、それは夢だ。目が覚めたら必ず悲しくなる、寂しくなる、叶わない希望。
 将来的な目標という意味での夢ならどうだろうかと考えて、そこでもやっぱりきょーやと一緒にいる自分を思って、なんだか、泣きたくなった。
 わたしはどこまでいってもきょーやが必要なのだ。二年たっても、これからもっと大きくなったとしても、きょーやが必要なのだ。彼がいないとダメなのだ。きょーやがいなくちゃ、わたしは前に進めないで、ずっと足を止めたまま。叶わない夢を眺めたまま。
 何も言えないわたしを見下ろしたままアラウディが言う。
「ボクはね、夢を叶える仕事をしてる。が望むなら、キミの夢も叶えてあげるよ」
 それは、とても甘い言葉のように思えた。
 もしもお金できょーやが買えるなら、戻ってきてくれるなら、わたしはきっとそうするだろう。
「…お仕事なら、お金がいるんでしょう? わたし、そんなたくさんのお金、持ってません」
 ぼそっとこぼすと彼は笑った。唇を歪めるあの笑い方だ。相変わらず彼の手は冷たくてわたしの手を離さない。「キミみたいな子供にお金があるなんて思っちゃいないよ」と当たり前のように言われて眉間に皺が寄る。…アラウディが何を言いたいのか、分からなくなってきた。
「ボクは、きょーやにそっくりだろう」
 最初の方にしたやりとりだ。浅く頷くわたしの頬を冷たい掌が滑る。その冷たさがずっと続くことに、わたしの温度を奪っていくその手に、初めてぞっとした。まるで死体と手を繋いでいるような。初めてそんな錯覚に陥った。
「キミの夢を叶えるのは簡単だ。ボクをきょーやだと思えばいい。そう思い込むように暗示をかけてあげる。それでキミは夢を見続けられる。この世界で、生きていける」
 言葉の甘さよりも、冷たさが勝った。何を言われているのかその全てを理解したわけじゃないけど、直感的に、この人は危ないということにようやく気付いた。
 今頃気付いても、もう遅い。
 大人の手を振り解けるはずもなく、顎を掴まれるような形で無理矢理キスされた。冷たい、背筋がぞっとするようなキスだった。
 逃げなくちゃいけない。逃げなくちゃ。この人は危ない人だ。悪い大人だ。きょーやじゃない。きょーやとは違う。全然、違う。見た目だけが似ている、全然違う人だ。
 逃げなくちゃ、と思うわたしの口を冷たい掌が塞ぐ。冷たい瞳がわたしを見下ろして鈍く光る。「何が嫌なの? 雲雀恭弥とボクは同じだ。寸分と違わない」首を振る。全然違う、あなたときょーやは全然違う、と主張するわたしに彼は気分を害したように眉間に皺を刻んだ。
(きょーや)
 黒い髪、灰色の瞳のきょーやを思い浮かべて縋った。このままじゃ自分がどうなるのか、子供ながらに想像できる。決していい方向には向かない想像は視界を滲ませる。
 きょーやそっくりのアラウディについていったわたしが悪いことは分かっている。たとえ他人の空似でも、きょーやと似た人と一緒にいることできょーやと一緒にいる気になって、こんなことになって、今頃後悔している。馬鹿みたいだ。ううん、わたしは馬鹿だ。子供だ。どうしようもない子供だ。
(助けて。助けてきょーや)
「気に入らないな。ボクより雲雀恭弥の方がいいなんて」
 冷たい声が耳を食む。
 冷たい温度が肌を撫でる。
 冷たいアラウディは、わたしの抵抗なんて物ともせず、唇を歪めるあの笑い方でわたしのことを嗤う。
(きょーや)
 助けて、とこもった声で上げた悲鳴。
 被さるようなタイミングで畳の部屋の襖が蹴破られた。それから、パン、と銃の音がした。それでわたしに覆い被さっていたアラウディが机を跳び越すような形で距離を取って、わたしはとっさに後ずさって壁際まで行く。
「僕のに、何をしてる」
「…、」
 聞き覚えのある声に恐る恐る顔を向けると、そこには、ずっと会いたくて仕方のない人が立っていた。黒い髪で、灰色の瞳をして、不機嫌そうに目を細めて瓜二つと言っていいアラウディのことを睨んで黒光りする銃を構えている。

 こうして、きょーやはまるでヒーローみたいにわたしのピンチに駆けつけ、わたしの世界へと戻ってきたのだ。