『ねぇねぇ、あの子のどこがそんなにいいの? 見た限り子供じゃないか。君との歳の差はいくつ? 10はあるでしょ、絶対。立派に犯罪だよ。警察って仕事に就いてるくせにやることが大胆だよねぇ』
「…うるさい」
『恋は自由だと思うけど、一般常識的に考えてどうかなぁ。君はそうじゃないかもしれないけど、あの子にとっての初めての恋人は君になるわけでしょ? ね、それってどうかなぁ。おまけに、ただの人間だったならまだしも、今じゃ君はもう』
「うるさいって言ってる」
 ガン、とガードレールを蹴飛ばすとべっこりへこんだ。舌打ちしてその場を離れる。向かいから歩いてくる黒人がさっと僕を避けたのが鬱陶しい。屈強そうなのは体つきだけか。ガードレールをへこませたくらいで何を怯えてるんだか。
 感情の昂ぶりが身体の制御を忘れると、こうなる。
 望んじゃいなかったにせよ、人間という領域を飛び出た肉体は人以上の力を出すことができる。当然、もとが人間なわけだから、人にできること以上の力に身体が耐えられるわけがない。壊れる。人以上の力を出すこともできるが、当然のごとくあっさり壊れるのだ。今もそうだ。足の指が二本くらい折れている。そのことに『あーあー』と顰めた声が響く。『やめてよ、誰が治すと思ってるんだい? 折れたものを治すっていうのはね、紙を糊でくっつけるだけじゃなくて、そこに描かれた破れた絵がピッタリ重なるようにする、神経を使う作業なんだよ?』誰のせいだ誰の。喋ってないで黙ってやることをやれ。うるさいんだよ君は。
 苛々しながら指定された路地裏に指定された時間に足を踏み入れると、ぬるい風が肌を撫でた。嫌にぬるい。ただの風ではない、そう感じるような、意思、のような何かを含んだ風。まるで生き物のようなその風に覚えたのは吐き気だ。それはギョレメで触れた空気に似ていた。
 これでもう何度目だ、この仕事は。
『そこは袋小路ですから、遠慮なくどうぞ』
 片耳にはめた通信素子からいつもどおりの沢田の声がノイズ混じりにそう言う。「遠慮なく?」『はい。入り口の方はもう塞がっているので』肩越しに視線をやって確認すると、確かに入り口は塞がっていた。どうやってるのか知らないがさっき通った大通りへ通じる道に壁ができているのだ。
 まぁ、方法なんてどうでもいいし、僕には関係ない。
『では、またあとで。こちらも交戦に入ります』
 プツッと音が途切れる。
 ここ最近で、僕の中で沢田のイメージがだいぶ変わってきた。柔軟性だけで特殊課をまとめている小動物だと思っていたが、あの男、やるときはやる。
『またミラーヒューマンの退治?』
 内側に響く声には答えないで右手をかざす。濃い密度の闇は墨汁のようで、見通せない。何が潜んでいるのか知れないぬるい風に、その場から一歩も動かず見えない腕を伸ばしていく。
 面倒だ。手当たり次第に破壊してしまおうか。どうせ隠されているわけだし。
 手当たり次第、その辺にいる犬も猫も転がっている人間も、この濃い密度の闇の中に浸かっているものは全て、見えないこの手で喰い尽くす。悲鳴など上げさせない。逃げる暇も与えない。
 さっさと喰われて、終われ。
「おやおや。我が部下ながら情けない」
 …どこかで聞いたような口調だなと闇の向こうに目を凝らすと、中世ヨーロッパから飛び出してきたのかと思うような現代には場違いなふざけた服装の男が一人、立っていた。顔に憶えがある。…六道だ。コレは六道をもとに作られたミラーヒューマンってやつか。
 自分と同じ顔さえ殺したんだ。今更誰が出てきたところで同じだ。殺すだけだ。
「アラウディはあなたにやられたそうで」
「は? 誰、それ」
「あなたのそっくりさんですよ」
 ああ、とぼやいて右手をかざす。相手の反応は早い。見えない手が見えているかのように叩きつける攻撃を避け、現代には不似合い極まりない柄の長い槍を器用に振り回して一撃突きを入れる。最低限の動きでそれを避けて舌打ちした。目の前を掠めた銀の矛先が闇の中に溶けるように消える。
 完成体というのはこういうのが厄介だ。下手に人間だから学習能力がある。自分達を消す能力のある人間はあくまで人間、殺してしまえばそれまでと知っている。僕はそれには当てはまらないイレギュラーな存在だけど、腕がもげたり足が取れたりすればしばらくは行動不能になるのは変わらない。相手はどうやら面倒みたいだし、殺られる前に殺るしかない。
 闇の密度はいっそう濃くなり、一メートル先も見通せないような夜が、息苦しいくらいの圧迫感で僕を覆い尽くす。視界が悪すぎて迂闊に動けない。
「あなたもなかなか、心に闇を抱えているようではありませんか」
 上下左右前後、どこから聞こえたのか判断のつかない声に黙って右手を掲げる。
「ねぇ、どうでしょう。取引をしませんか。幸福に生きていくための取引を」
「…馬鹿げてる。約束された幸福なんてあるはずがない」
「そうでしょうか。あなたは今がこのまま続けばまんざらでもないと思っている。アングランロイデフレヤの訪れない世界…永遠に幸福でありたいと願うのは、生きる者としての真理でしょう。私達に協力してくれるというのなら、あなたの願う幸福の永遠をお約束しますよ」
 なんだその安っぽい宗教勧誘は、と半ば呆れた僕の視界に、光が射す。闇の中からの不自然なほどの光。
 濃い闇の中に、僕に向かって手を差し伸べるがいた。
 笑顔だ。満面の笑みで僕に手を差し出している。こっちに来て、この手を取って、と。
 約束をした。結婚しよう、って。自分勝手で呆れてしまうほどの自己満足な約束。もう人間ではなくなってしまった自分を思うなら口にしてはいけなかった言葉。約束なんてできるはずのない望み。それでも君が愛しくて、誰にも取られたくなくて、どうしようもなくて取り付けた、未来の形。
 闇に浸かってしまえば彼女に手が届く。
『それでいいの? 君にとってのは、本当に彼女なの?』
 内側で響いた声に踏み出しかけた足でじゃりっとアスファルトを鳴らす。
 は、今頃、沢田家のあるマンションにいる。今日は見たい番組があると言ってたからソファに座ってテレビを眺めてるはずだ。
 今度休みが取れたら一緒に映画を見に行こうと約束した。
 ……誰かに頼って欲しいものを手に入れるなんて、したくない。自分で手に入れてこその幸福だ。
 見えない手で頭から、によく似ている闇の塊を喰らった。彼女がいた向こうの空間から突き出された銀の煌きをすんででかわし柄を掴む。闇に霧散して実体のなくなった槍に舌打ちしながら視線を飛ばす。どこにいった?
「幸福を自らの手で破壊する、と。あなたはそれでいいと…そういうわけですね?」
「うるさい。人に与えられる幸福なんてうんざりだ。幸せになりたいのなら、自分の手で掴まなければ、意味はない」
 そうですか、と落ちた声は僕の答えに落胆しているようだ。「できるならあなたを引き入れたかったのですがね。こうなっては仕方ありません。死んでください」上下左右前後、僕を包囲する闇からいっせいに、容赦ない速さで銀の煌きが闇を走る。
 血は、出る。痛みも、ある。その意味で、僕はどうしようもなく人間だ。
 肉が裂けて、骨まで届いた矛先が筋繊維を断絶し、血管を引き裂き、内蔵を貫いて、脳さえ損傷させる。
 それでもまだ思考しているのは、息をしているのは、僕が人間でないからだ。
『あーあーあー。ひどいことするなぁ。誰が治すと思ってるんだ…』
 ぼやいた声が自分の意思で僕の右手をつり上げた。見えない腕が叩きつけた場所には六道によく似た奴がいて、僕を仕留めたと思って余裕でいたのだろうが、見えない腕に地面に叩きつけられて驚きに目を見開いていた。次の瞬間には頭から喰われている。
 路地裏の空間に不自然に立ち込めていた闇が晴れていくのを肌で感じる。
『あーあ、まずい。まっずい。それよりもマズいのは君の状態だね。そうだなぁ、付け焼き刃で見た目だけ人間に見せるとしても、三日いるよ。それまで安静にしてもらわないと』
 役立たず、と口の中だけでぼやいて、血の色で濁っている視界を閉ざす。
 沢田に、連絡を取らないとならない。
(右手を操って、沢田にメールを打つんだ。僕を回収しろ、って)
『はいはい』
 ずりずりとアスファルトを不自然な動きで這った右手がポケットから携帯を取り出し、血まみれの指でメールを打ち始めた。肩から取れている右腕が一人で動いている。まるでとかげの尻尾だ。…こんな姿、には絶対に、見せられない。
 沢田は僕の状態を見て吐きそうなのをなんとか堪え、秘密裏に僕を運び、どことも知れない地下の部屋に連れて行った。不自然なほど医療道具の整っている場所で薬品臭い。
 止血だけでもしようと思ったのか、沢田はスーツのジャケットを脱いでシャツをまくるとガーゼや包帯を大量に抱えて戻ってきた。
「雲雀さん、生きてますか?」
「…ぅ、るさぃ」
 口の中だけでぼそっと返すと肺に溜まった血が変な音を立てた。色々言いたいことがあるのに言葉にするのは無理そうだ。
(回復に、最低三日。僕は三日はに会えない…)
 心配だ。彼女が。僕がいなくなったとまた泣いたりしないだろうか。たった三日とはいえ、僕だって苦しいんだ。はもっと苦しいに違いない。
 沢田から連絡を受けたのか、そのうちリボーンまでやってきた。「こりゃまた酷いな」「お前も手伝えよ」頭上を飛び交う言葉を聞き流しながら、手術台の上にありそうな丸いライトの群れに目を細くし、閉ざす。
 あのミラーヒューマンとかいうのは結局何なんだ。死んだ人間…僕や六道を鏡に映したみたいなそっくりさで現れる奴のことを言うってことは分かったけど、それだけだ。アレが誰がどういう目的で仕向けたものなのか、僕は何も知らないままだ。
(沢田はなぜ敵の正体を僕に隠してるんだ。ザコを片付けるんじゃなくて大本を叩けば早いだろうに)
 口にできないこの言葉を聞く者がいるとしたら、僕の中にいる声だ。
 くすくすと笑う気配がする。僕の心中を聞いてのことだろう。
 沢田に答える気がないなら違う奴に訊くしかないが、その上司であるリボーンが口を割るわけもない。ミラーヒューマンと同じような存在であるこいつは奴らに近い。何かを知ってるって可能性は充分ある。
『君のためにじゃないかな?』
 声は、そう言って笑う。声が出たなら、は? と顰め面で返しているところだ。
 沢田が僕のために黙っている? そのせいで僕はこんな醜態を晒して死にかけているっていうのに、それが僕のため? 馬鹿げてる。いや、ふざけてる。
『危険が及ぶっていう案じとは違う意味だよ』
 …まともに答える気がないとしか思えない。答えを期待してたわけじゃないからいいけど、動けるようになってから、直接沢田を問い質すしか道はなさそうだ。
 今は。早く身体が治ることを思って、大人しく息を重ねるしかない。