その日はよく晴れていて、青空には雲の一つもなかった。文字通りの晴天。洗濯物を干すには絶好の日和。
 そんないい天気の日に陰鬱そうな表情すらして仕事着のスーツを着た彼は暗い顔のまま私のことを抱き締めた。行きたくない、離れたくない、と言葉なく訴えられて、苦笑いで流すつもりでいたのに喉に何かがつかえて笑うに笑えなくなった。
「…今日は、これからフライトで、仕事でしょ」
 私がやんわり声をかけても彼は黙りこくっていた。うんともすんとも言わない。
 リビングの時計がカチンと音を立てた。…早く送り出してあげないと、いつまでもこうしていそうだ。最悪飛行機が飛び立つ時間に遅れる可能性もある。
 世話が焼けるな。でも、そういうところがたまらなく愛おしい。手のかかる子供ほどかわいいというやつに似ている。彼は子供みたいに自由だからちょうど当てはまる表現だ。
 頭を撫でて宥めようにも、案外がっちり抱き締められているので腕が動かない。変にもぞもぞしようものならこの拘束は強くなる一方というのは経験上予想できた。となれば、私が自由なのはこの口くらいか。
 仕方ない、と吐息して、今度のドラマで役をもらった歌手の歌を歌った。
 そのドラマの中で使われるだけの予定でいる歌だけど、歌詞を見なくても歌いきれる。我ながらよく憶えた…というほど努力したわけではなくて、歌詞や曲調がすんなり頭の中に入ってきたというのが正しい。鼻歌でもよくメロディを口ずさむし、恭弥がこういう状態になったとき自由なのは口だけなので、よくこうする。気分的には幼子に子守唄を歌うお母さん。
旅人の季節は常に 過去へと現在を奪うけど
あの日重ねた歌声は今もまだ響いてる...

傷跡も癒せずに僕等は 何を待つのだろう
Good times for blend もう一度と廻ると信じていたい

砂の海で水に焦がれ 爪を剥いでも祈りは井戸の底
キミの名は幻想 儚き調べ 唇が触れる程に遠離る

鳴り止まない胸の鼓動 あと一つだけ丘を越え
砂に祈りを埋めても この手を伸ばすから どうか
fly me......

足跡も残さずに僕等は 何処へ行くのだろう
Good-bye dear friend もう一度会えると信じていたい

砂の海が暮れ行く頃 全ての叫びが目指す輝き
キミの名は幻想 遥かな調べ 唇に歌を一つ灯して
震えるのは 夜の共鳴 孤独は声を凍らせる
月に叫びが届くなら この身を捧ぐから どうか
fly me......
全ての音がいつか 消え失せた静寂の中で
僕たちは震えながら 愛の歌を歌い出す

風を越えて 遠い岸辺へ心は行けるのだろう
遠くさざめく永遠の音楽が僕等を招くから......

砂を越えて 遠い岸辺で僕等は出会うだろう
あの日重ねた歌声をこの胸に
砂塵の彼方へ......
「その歌」
「うん?」
「僕は、あまり好きじゃない」
 やっと口を開いたと思ったらこれだ。私が気に入ってると知っててもこうだ。もうちょっと人を気遣うことを憶えるといいよ恭弥は。
 口をへの字にして「なんでよ」と理由を問うと、さらに強く私を抱き締めながら「もう会えない二人の歌みたいで、嫌だ」とぼそぼそした声が答える。
 どうやら恭弥にも人並みの感受性が残っているようだ。よかった。
「じゃ、ちょっとでも早く私と再会できるように、恭弥は早くお仕事をすませてくるべきかと思うけど」
 この辺りで突き放さないといつまでもこうしているだろうということは目に見えたので、わざと突き放した物言いをした。彼もそんなことには慣れている。だから、いい加減に行かなくてはならない、と頭のスイッチを切り替えて私から離れる。
 せめて玄関まで見送って、と手を引かれるのはいつものことで、しょうがない人だなと呆れつつも甘い私は玄関まで見送ってあげる。
 玄関先でスーツ姿が変でないか確認して、曲がっているネクタイを直して、じっとこっちを見つめる端正な顔つきに思わず笑ってしまった。なんで笑われたのかと眉根を寄せる彼にキスをして「さ、行ってらっしゃい」とスーツの背中を押す。
 名残惜しいと引かれていた手も、マンションの前で黒塗りの車が待っているのを見下ろすと溜息を吐いてするりと私の手を離した。最後まで触れていた指先から体温が逃げる。
 ドラマの相手役でもこんなにカッコイイ人はいなかった。そのかわり、みんな厳しいメディアの世界で生きて、ここまで生き抜いてきた人達だ。見習いたい部分ばかり持っていた。恭弥はそういうものは持っていない。自分勝手で、他人なんて顧みなくて、自分以外なんてどうとでもなれと思っている。
 世の中は上手くできているものだ。恭弥がメディアに出られる外見を持っていても活かそうとしなければ意味はない。彼がその気になれば映画の主役だって勝ち取れるのに、彼はそんなものに興味はないのだ。本当に上手くできている。
「頑張るのよー」
 やる気なさそうに歩いて行くスーツの背中に声をかけると、やる気なさそうにだったけどひらりと手を振って返された。
 恭弥が逃げ出さないように、というかサボらないように、きちんと車に乗り込むまでを見届ける。車に乗る直前で足を止めてこっちを振り仰ぐ彼に大きく手を振った。ほら、頑張れ恭弥。私も仕事、あなたも仕事。帰ってきたらまたキスなりなんなりしましょ、と。
 恭弥は手を振り返すとようやく車に乗り込んで、彼を待っていた乗用車は滑るように発車、すぐに視界から消えた。
「さ、て、と」
 ぐぐっと伸びをして雲一つない晴天の空気を味わい、部屋に戻る。
 今日はスタジオでの撮影だ。中に入ってしまえば外の天気なんて関係がなくなる。仕事があるから洗濯物だってできない。
 それでも、天気がいいのはいいことだ。
 私はその日自分が死ぬことになるなんて露も知ることなくいつものように恭弥を見送り、いつものように自分の支度をすませ、いつものようにマンションを出た。迎えの車はすでに入り口で待機していた。「お早うございます」と会釈して声をかけてくる若い男の子、望月くんに「お早うございます」とにっこり笑顔で返して、車に乗り込み、いつものようにスタジオに着いて、ドアを開けてもらって外に出て……。

 そして、晴天に轟くような霹靂を見た。
 雲雀恭弥という人は仕事でも私生活でも一匹狼だったと聞く。今はとても仕方なさそうに人と組んで仕事をするようになったけど、その必要がないのなら、今もまだ一人で立っていたのだろう。誰の手も必要ないと当たり前の顔をして孤独を受け入れ、それを抱えることに疑問も抱かず、当然のように独りで生きて、独りで死んでいた。
 要らないものには蓋をする、ということを彼は知っていた。必要ないと感じたら感情にも感覚にも蓋をできる。孤独も痛みも要らないと判断したら捨てる。そういう人間離れしたことができるのが雲雀恭弥という人で、私は、まぁ彼のそういうろくでもないところに惹かれた、男運の悪い女だ。
 雑誌のモデルからスタートした私のキャリアは徐々にだが段階を踏んでステップアップした。最初は立ち姿一枚か二枚だったものが企画ページのモデルとして扱ってもらえるようになり、そのうち短いCMに起用され、そこからオファーがきてドラマの契約を取り付けられた。もちろんいきなり主役というわけにはいかない。最初は端役だ。でも、必ず主役の座を掴む演技をしてみせる。そういう意気込みでカメラに挑んでいたのだけど、私の演技が掴んだのは主役の座ではなく、雲雀恭弥という人の心の方だった。
 私の人生計画としては、この辺りでそれなりにキャリアがあってそれなりに有名な人とお知り合いになり、それなりのお付き合いをして、お互いをパートナーだと思えるような関係になる…というのが理想だった。
 その計画は雲雀恭弥という人の登場であっさり崩れた。
 今まで出逢った中で一番イケメンだと断言してもいいくらい整った顔をしている彼は、その生まれつきの長所を活かそうともしない無表情が常。もったいないともどかしく思うくらいに笑顔の一つも浮かべない。
 で、彼がなぜ私を見つけたのかというと、理由は簡単だった。新作スーツのCMで映った私を見たから、らしい。
 で。CMを見たのなら彼が私を認識したことには別に疑問はない。訊きたいのはなぜそれで私を訪ねてきたのかということだ。しかも人のマンション前で待ち伏せるようにしてまで。
「お仕事の話なら、事務所を通してもらわないと困るんですが」
 とりあえず定例文句で切り抜けようとすると彼は眉間に皺を刻んだ。端正な顔はそうしていても様になるからズルいことだ。普通は眉間の皺なんて作ることは避けるのに。
「調べたんだけど、色々しているんだね。CMもそうだし、ドラマもそうだし。雑誌もモデルとしてたくさん出てる。集めるのに苦労したよ」
「まぁ、仕事なので」
 なんだこの人…まさか新手のストーカーか? 過剰なファンがこういった行為に走るという話は聞いたことはあるけど、実際遭遇したことはない。そうならないようスタジオから家までの送り迎えはついているし、外に出るときはなるべくそうだと人にバレないよう変装を心がけているのだ。
 むしろ、初めてだ。私がマンションに入るまでが仕事のスーツの男の人二人を簡単にのした人を初めて見た。
 人って映画みたいに本当にふわって浮いたりするんだな、なんて思いつつそれとなく後ろを窺う。
 車は、まだ停まっている。運転手の望月くんも私を気にしてくれている。鞄を投げつけて走ればなんとかなりそうな距離だ。
 さてどうするべきか、と考える私の視界にずいっと端正な顔がアップで映ったので思わず仰け反った。近い近い。
「ねぇ」
「なんですか」
「個人的に君のことが気に入ったのだけど、これも事務所を通した方がいい? そっちがどう出るかによってはそこの二人みたいに転がすことになるけど」
 物騒なことを言う人に背筋がヒヤリとする。
 過剰なファン。そのときはそう思った。だから鞄を投げつけて回れ右で車まで走って乗り込んで、出してと言う間もなくドアを開けっ放しで車は急発進。ぼふ、と座席のシートに埋もれながら振り返ると、視界の横で自動でドアが閉まって、マンションの入り口では私の鞄を持ってじっとこっちを見ているあの人がいる。
「大丈夫ですかさん」
「オーライ、平気。何もされてません…。石崎さんと坂城さんがのされちゃったけど」
「えっと、とりあえず事務所行きますね。相手の写真撮ったので。二人がやられちゃうとこも撮ったので、届けましょう。相手が脅してくるならこっちも脅すまでです」
 ぐっと拳を握る天然パーマの望月くんに先走ってるなと思いつつ、まぁ最終的にはそうなっちゃうのかな、と考えた。
 多少荒い運転で事務所の駐車場に到着。いつもより急いだ手つきでドアを開けた望月くんに促されるまま、再び事務所であるビルの自動扉を目指して歩いて、驚いて足を止めた。
「なんで逃げるかな」
 そこにはさっきマンション前に置いてきたはずの彼がいたのだ。不機嫌そうに腕組みして仁王立ちしている。
 びっくりしたのは私だけではない。望月くんも同じだった。「お前、なんで」驚きから立ち直ると私を庇うようにして前に立つ。でも、彼は望月くんを見てなどいない。望月くんなどいないものとして彼を透過し、ただ私を見ている。
 そうして初めて気がついた。
 さっきは顔なじみでもある石崎さんと坂城さんを目の前でのされて、状況に混乱していた。少なくとも冷静、平静ではなかった。
 今改めて彼の瞳を見て思う。まっすぐできれいだけど、同じくらい孤独で寂しそう。
 なんとかしてあげたい。そう思わせるような目。その無表情と相まって、私には彼が育ち方を間違えた子供に見えた。生き方を間違えたまま大人になってしまった子供、とでも言おうか。
「……あなた、お名前は?」
 ぽつりと訊ねると、彼は少しだけ嬉しそうに唇の端を持ち上げ、「雲雀恭弥」と名乗った。

 以下あった出来事を省略して流れだけを説明すると、恭弥は警察なんかより力のある組織の人間で、その恭弥が私のことを気に入ったと譲らないものだから、事務所は半ば腫れ物を扱うように私と彼のことを容認した。
 簡単に、一言で、私と彼の出逢いを表すなら、一目惚れ、というのが一番近い表現になるのだろうか。
 彼は自分を曲げも偽りもしないまっすぐな、あるいは自分勝手な生き方をしてきた人なので、遠慮なんかしないで私の私生活にまで踏み込んできた。最初はそのことに戸惑ったし不快感も多少はあったけど、雲雀恭弥という人はとにかく端正な顔立ちをしていたので、そんな彼に懐かれるのはそう悪い気はしなかった。そのうち私も彼がどういう人間なのかを知りたくなってきて…まぁ、そういう感じだ。
 我が強くて、相手を気遣うってことを知らず、そのために自分を曲げるなんて考えたこともない人で、自分が世界の中心であることに疑問を持たない。せっかくのイケメンを活かそうともしない無表情はあまり笑うことをしないし、どっちかっていうと不機嫌そうに眉尻をつり上げたり眉間に皺を作ったりすることが多い。
 だからこそ、たまに笑ったりする表情とか、人間らしい仕草の一つ一つが愛おしいと感じる。
 この人に出逢って私の順調な人生計画は頓挫したわけだけど、別に、それでもいいかと思い始めている。
 順調な人生なんてきっと誰にだってないし、人生は予想する以上の出来事の連続だ。だからこそ面白い。だからこそ愛おしい。だからこそ楽しいのだ。
 これが、私の人生という記録。
 あなたが嫌いだと言っていたあの歌を憶えているだろうか。メロディも歌詞もとてもしっくりきてすぐに憶えてしまった歌。
 今思えば、こんなにも私達にぴったりな歌はなかったよね。
 よく晴れたあの日、東京は消えた。私を含めて、そこに住む人々も多くが痕跡も残さず消えた。生き残ったのは一握り。後に『災厄』と呼ばれることになるその晴天の霹靂は人々の心に消えないトラウマを焼きつけた。
 とてもこの現実では生きていけない。家族を、恋人を失った今に向き直れない。東京が吹き飛ぶあの瞬間の光景が忘れられない。
 人々の心に植えつけられた恐怖は強く根を張った。楔のように強固、鎖のようにがんじがらめにされて、人の心はあっという間に生きることに弱気になった。
 それは、あなたも同じだった。
 私を失くしたと気付いたあなたは現実から逃げることを選んだ。眠りの世界に落ちることを選んだ。夢に浸かって作り上げた私と一緒に生きることを選んだ。
 誰の手も要らないし誰の力も借りないと人を突っぱねていたあなたはそこにはいなかった。私によく似せた子供を抱き締める泣きそうな大きな子供がいるだけ。
 私に甘えたあなたも、私を求めたあなたも、もういない。
 現実だと思い込みたくて夢の中で生きているあなたを、私は責めないよ。
 甘くて幸せな夢。誰だってずっと見ていたいだろう。目が醒めなくたって構わないって思うだろう。きっと私も同じだ。あなたのことが愛おしい。同じように失う立場に立ったとき、自分がしゃんと一人で立っている姿など想像できない。
 だから、これは、仕方のないことだと思う。
 ………それでも。さびしいのは、どうしようもないね。
 それは私に似せて作った私でない子。私とは違う子。あなたはその子に私を投影している。

「きょーや? どうしたの? 今日は早いね。お仕事もう終わったの?」
「うん…もう終わった」
「…? どうしたの? 泣いてるの?」
「泣いてないよ。なんでもないから」

 、とこぼしてくすんだ金髪の少女を抱き締める彼を眺めて、目を閉じる。
 あなたは夢を終わらせることを選んだ。
 辛いね。悲しいね。寂しいね。
 それでも私を想って終わらせることを選んでくれた、あなたが愛しくて、誇らしい。