「京子は俺が」
 そう言っていつもの柔和な笑顔でやんわりと僕とを廊下に押しやった沢田に、何も言う言葉が見つからず、沢田の言葉の意味が分からなかったが小さく首を傾げた。その手を取って黙って革靴に足を突っ込む。は不思議そうにリビングを振り返っていたけど、僕が手を引くともたもたとブーツに足を入れた。
「どこ行くの? 遊びに行くの?」
「…そうだね。そうしようか」
 最後の時間くらいの好きなようにさせてあげるべきだと素直に思って頷いた。わーいと両手を上げて喜ぶ彼女が愛おしくて目の前が霞む。
 も、年甲斐もなくはしゃぐ子だった。
 メディアに出る仕事をしているからと色々な場面で自分を抑制しているところがあったから、僕には遠慮しないで素直な感情をぶつけてきた。メディアの顔しか知らなかったら想像もできないくらい食事にだらしがないこととか、放っておくとファストフードで全部すませてることとか、案外寝相が悪いこととか、僕しか知らないようなことがまだまだたくさん。
 思い出せば出すほど愛しさで胸も喉もつかえて、息をするのが苦しくなってくる。
 もいない世界になんて行きたくない。戻りたくない。帰りたくない。そんなの僕の居場所じゃない。ビルの残骸と砂塵が舞うだけの東京になんて未練はない。
 僕は、ここにいたいのに。

『終末の獣。その名はリヴァイアサン。
 戴いたその名のとおり、この世界に終焉を…』

(時間を。せめて今日が終わるまで好きにさせて)
 上機嫌に僕の手を引くの斜め後ろを歩きながら「どこへ行きたい?」と声をかける。「んーとねぇ、どこがいいかな。どこにしようかな」弾んだ声を聞いているだけで幸せになれるのに、同時に切なくなる。
 それがどんなに甘い夢でも、幸せな夢でも、夢は終わるべきで、目は覚めるべきだ。何よりも、彼女のために。
「わたし、遊園地がいいな。きょーやと一緒にいろんな乗り物に乗りたい」
 悩みに悩んだ末に、子供らしい行き先を笑顔ではにかみながら言葉にするを抱き上げて頬にキスをする。「いいよ」と返す自分の声が震えていないことを祈った。
 遊園地なんて場所に来たのは恐らく生まれて初めてだったけど、は僕よりも張り切って案内図の載ったパンフレットを広げ、僕を先導するかたちであっちへこっちへ連れて行った。
 メリーゴーランド。コーヒーカップ。お化け屋敷。ジェットコースター。観覧車。外人によるパレードとショーを見て、「すごーい」と手を叩いてはしゃぐの笑顔を携帯に収めた。
 君は何も気付いていないのだろうけど。最後に僕に電話をかけてきたときに、目が覚めたんだよ。飛んで帰ったんだ。二年も放っておいたからソーラーパワーで充電できる携帯でもさすがに馬鹿になっていたから買い替えたけど、二年前の写真も一つも消さないで取ってある。
 君のコールで目が覚めたあの日、僕は世界を呪って、愛した。僕を殺した世界を憎んで、続きを用意していた世界を愛した。
 パレードが終わった頃には陽が傾いていた。
 西陽の赤に目を細めながら、お腹が空いたろうと場所を移動し、港町を再現してあるエリアでご飯を食べた。がおいしそうにハンバーグセットを頬張っているのを黙って写真に撮っていると、くすぐったそうにはにかんだ彼女が視線を俯ける。
「あのね、前からそうだったんだけど」
「うん」
「実はね、写真、照れくさいなって思ってたの」
「そう? 撮らない方がいい?」
「撮っても、いいけど。変な顔してても笑わないでね?」
「変な顔なんてしてないから大丈夫。はかわいいよ」
 心から思ったことを言うとはさらに照れくさそうに顔を俯けた。

 …壊したくない。
 僕は壊したくない。ずっとここにいたい。夢に浸かっていたい。それで廃人になったっていい。そうなった方が僕はいい。
 でも、君は、それじゃ駄目だって言うよね。きっと。そんなの駄目だって僕を怒るよね。普段からもっと笑いなさいって事あるごとに言っていたものね。死んだように生きている僕なんて、見たくないよね。
 僕は僕のためではなく君のために、この世界を破壊しなくては。心を鉄か鋼のように硬くして、藁や青銅のように呆気なくこの世界を壊して、引き裂いて、全部を見下ろしながら、呑み込むんだ。愛も。涙さえ。

 全てを赤に照らす斜陽を受けながら、遊び疲れて眠ったをそっと抱き上げて、とん、と地面を蹴る。
 僕は身体は動いた方だったけど、地面の一蹴りで5メートルの高さを跳ぶなんて超人じみたことはさすがになかった。簡単にそれができてしまうこの身体がもう人間ではないこと、この世界が夢であることを噛み締めながら、を抱いたままさらに跳んだ。背中から翼を生やしたくはなかった。まだ人間でいたかった。この世界で生きていた僕でありたかった。
 21世紀末。世界中から移民や難民がなだれ込んできたために多民族都市となった東京。
 急激に外国人の人口が増え、安月給でも働く外人に職を奪われあぶれた日本人が溢れ、治安や雇用状況が混乱し、東京は混沌を極めていた。
 ネオンの色が騒々しい街は様々な人種で溢れ、路地裏は生き物のようにぬるい風が吹き抜ける。
 外国人の増加に伴う異常性の増した事件。綻んだ倫理観。適度な、疑いようのない現実度でもってあり続けた、夢の世界。
 最後の場所をどこにすべきかと迷って、あのアパートも、沢田のマンションにも行けやしないと思った僕は、高く、飛んだ。今度は翼が必要だった。シャツと上着を突き破って生えた翼は例のつぎはぎのキメラの翼で、気持ちが悪いことこの上なかったけど、それが今の僕だ。否定したところで消えやしないしもうどうにもならない。
『もう、いいのかい』
 静かに訊ねてくる声に唇を歪めて笑ってやる。
「何が。どうせ終わりにするんだろう。こんな街、さっさと壊せばいい。もうとっくに壊れているんだから」
 夕陽に染まる、騒々しいネオンで彩られ始めたこの街は、もう死んでいる。終わるべき、醒めるべき、ただの、夢だ。
 ずるずると背中側から何かが這い出ていくのを感じながら、「前だけはよしてよ。に見られたくない」とぼやいて眠ったままの少女の額にキスを落とす。『はいはい』と呆れながらもリヴァイアサンと名付けられたプログラムは僕の希望を汲み取った。前面は崩すことなく、背中側からずるりずるりと緩慢に、東京の空の上につぎはぎのキメラの巨大な肉塊が暗雲のように広がっていく。
 この夢の街で生きている人間にとっては二度目の災厄だ。
 僕は、一度目を飛行機の中から見た。晴天に轟く霹靂。実験段階だった巨大な匣兵器が暴走し東京を吹き飛ばすのをただ見ていることしかできなかった。
 あの一瞬で全てが死滅した。東京に暮らしていたほぼ全ての人間と、と、そして、僕の心も。
 ああ、それにしてもこの腐ったにおいはどうにかならないものか。鼻がもげそうだ。死体から花のにおいがしたらそれはそれで気持ちが悪いけど。
「ぅ…?」
 僕を中心にずるずるとキメラの肉塊が広がっていけば、同時に腐臭も広がっていく。遊び疲れて眠っていたもひどいにおいに目が覚めてしまったようだ。ワンピースの袖で目元をこすって「変なにおい」とぼやく彼女に小さく笑う。「ごめんね」と謝るとは首を傾げて僕を見上げて…ぽかんと口を開けた。「きょーや?」と僕を呼ぶ声が掠れている。
 ミラーヒューマンなんかよりよっぽど醜い姿を晒しながら、できれば何も見てほしくないからと、青と緑の瞳に掌で蓋をした。
 受け入れなくていい。受け止めなくていい。無理に笑う必要もないし、こんな醜い僕を愛してくれなんて言わない。
 でも、愛することだけは、許してほしい。
「僕はね、本当に、のことが大好きだったよ。かわいくて仕方がなかった。にとって僕は、本当にかっこよかった?」
「うん。きょーやが一番だったよ。二年の間に、いろんな人に会ったけど、きょーやが一番だった」
「そっか。嬉しいな」
「…きょーや?」
「うん」
「わたし、怖くない。怖くないから、見せて。ちゃんと」
 ぐっと僕の手を掴んだ小さな手に。現実を受け止めたいと言う君に、大人しく手を外す。
 僕の手を握ったままそろりと目を開けた君は、僕と、僕の後ろから蠢いて広がっていくキメラの肉塊を見て、きゅっと目を閉じた。「…夢じゃないんだ」「うん」夢は、この世界。そう話したところで君のためになるとも思えず、君にとっての現実だ、と肯定した。
 無理矢理にでも笑ってみせたサラは僕に抱きついた。僕の背中からずるずると這い出ていくキメラの肉塊と腐臭を物ともせず、怖くない、と言ってみせた言葉を嘘にしないで、引きつってでも笑ってみせる。
「きょーやはこれから何をするの?」
 とても答えづらい質問だ。でも、正直に言った方がいい。これが君と過ごす最後の時間だ。嘘も誤魔化しもしたくない。
「……この街を、憎んで、愛して…作られた楽園を、壊す。かな」
「むつかしいね。つまり、どうするの? 壊すの? 全部?」
「そうなると思う」
「どうして、壊すの?」
「……そうしなきゃいけないから」
 本当は壊したくないと言ったところでを困らせるだけだ。僕の迷いに引きずられての心まで迷わせたくない。僕が揺らぐ分だけも揺らぐ。彼女は僕の希望で夢だ。僕に呼応する、そういう存在だ。
 …都合のいい夢は、ここで、終わりにしよう。
 オオオオーンという低い地鳴りのような音が、終末を告げる獣の声が、東京の空から世界へと響き渡る。
 幾千もの人や獣や魚の身体をつぎはぎしたキメラの肉塊は東京の頭上を覆い、幾千もの口と目から真っ白い光線が落ちる。
 斜陽に灼かれながら呆気なく吹き飛ぶ東京を眼下に見下ろし、僕はの耳を塞いでずっと抱いたままでいる。二度目になる災厄の降る東京を感慨もなく眺め、ちょん、と唇を押しつけてきたに一つ瞬いてから視線をずらす。
 これで最後。そんなことこの終末の光景を見れば誰にだって理解できる。にだって。
 寂しそうに、はにかんだように笑う顔が愛しくて、ぐっと強く彼女を抱き締めた。
 もう止められない。最初から止まらない。この世界を壊すために送り込まれたリヴァイアサン、それを拒絶し崩壊を始めていた世界。遅かれ早かれこうなっていた。僕でない誰かがこの役目を負ったとしても結末は変わっていなかった。
 分かっている。これが正しい道だと。
 分かっているんだ。
(それでも、)
 それでも、さびしいのは、どうしようもないね。

 海の水が涸れるほどの光でもって全てを焼き尽くし、
 キメラの肉塊が覆う、滅びの空へ。
 全てを焼き尽くす炎でもって時間すら奪い去って、
 路地裏に蔓延っていた生き物のようにぬるい闇を呑み込んで、
 星を落とす、終わりの空へ。

「嘘を、ついたね。ごめん」
「嘘?」
「…本気だったよ。でも、もうできないから。のウエディングドレス姿、見たかった」
 最後の後悔を口にした僕に、彼女は笑った。困ったなという顔だった。困ったなという顔で笑っておきながらぽろりと涙をこぼして、泣いたことに唇を噛んで、引き結んで、また笑う。
 愛しさで爛れていく錯覚を覚えながら、キスをして、抱き締めて、降ってくる隕石を見上げた。
 愛している、という声がに聞こえたかどうか。
 全てを破壊し尽くしたリヴァイアサンはプログラムを終了させるために隕石を呼んだ。それがこの地球にぶつかって、おしまい。全ては弾け飛んで、世界を保っていたデータも消し飛び、夢に浸かっていた人間は強制的に目覚めるしかなくなる。
「…………、」
 長く、長く夢に浸かって、ろくに動くこともしていなかった身体を引きずりながら起こした。半透明なカプセルの蓋を蹴り開けて、夢の世界が消し飛んだことにビービーとうるさい警告音と赤いランプの光を撒き散らす暗い部屋で笑う。笑って、滲んだ視界を掌で覆った。
(ごめんね、。…ただいま。