ぱち、と目を覚ます。それはふと息苦しさを感じたからだ。それまで夢は見ていなかった。だから私の意識はすぐに浮上した。
 目を凝らす。暗闇に沈む部屋の中、月明かりがもうだいぶ傾いている。その月明かりに照らされて黒いパジャマが見える。ここはどこだったか、ここは誰の家だったか。私の家じゃない。まだ見慣れることのできない天井のある部屋、ここは、
「…ひばり。さん」
 その人を呼ぶために出した掠れた声。
 掠れてしまったのは今意識が醒めたせいだけじゃなく、首にかけられている彼の手が私の喉を圧迫しているからだ。その表情は分からない。月明かりが照らしてるのは喉もとまで。彼の表情は暗闇に隠れて見えない。
 何を考えているのか。たとえ彼の顔を見たとしても私には分からないのかもしれない。骸さんと雲雀さんは似ている。そんなこと言ったらお互い絶対似てないと主張するのだろうけど、私は似ていると。そう思ってる。
 私には理解できない高い場所に立つ人達。高い場所からさらに高みを目指す人達。その人達から見れば私はきっと地表を歩く蟻と同じくらい小さくてどうでもいい存在で、意識せずとも踏み潰せるだけの力があるのだろう。二人からはそれくらいのものを感じる。強い力を。私には何の力もないけれど、何の力もないからこそ二人が遠くて遠くて。
 それなのに今その手は、私の首にかけられている。
「…起きたの」
「くるし、かったので」
「…そう」
 手が離れる。喉の圧迫感がなくなって私はけほと咳き込んだ。
 特別怖くはなかった。これが初めてじゃなかったからだ。こうしていきなり雲雀さんに何かをされるのは初めてじゃない。最初に会ったときだって容赦なくトンファーで頭を殴られた。彼は気に入らない者は咬み殺すが口癖でトンファーで殴り倒す。私はそれを知ってる。だけど最初に殴られたあのとき、私が特別彼の気に入らないことをしていたわけじゃなかった。群れていたわけではないし、特に何かしていた憶えもない。
 どうして殴られたのかは分からない。今どうして首を絞められていたのかも。だけどそれが事実なら、事実は事実でしかないのだ。
 だから、そっとベッドに手をついて起き上がる。端っこに腰かけた彼。顔は、やっぱり見えない。
 これで首を絞められるのは何度目だろうか。
 私は彼にかける言葉を持たない。彼は強い人だからだ。私は弱い。そして彼は群れるというのを嫌う。彼が群れると表現するのがどこまでのことなのかは分からないけれど、少なくとも初めて会った、それだけで殴られた私をきっと群れてる人と同じくらい気に入らなかったということだ。だったらそんな私が彼に余計なことをすべきではない。
 だけどそれでも、私はここにいる。
「雲雀さん」
 少し喉をさすったあとに声をかける。彼は言葉をくれなかった。だから私は手を伸ばしてその背中に触れる。黒いパジャマ越しの体温。
 ここはとても広い家だけれど、彼は誰も雇っていない。だから私が掃除するのだけどちゃんときれいになってるかどうか。帰宅したら夕飯の用意をして、お風呂の用意もして。雲雀さんが早く帰ってくるとそういうのを一緒にやってくれる。そうしているとまるで新婚家庭とかそういうものを思い浮かべるけれど、彼の表情はいつもない。だから私もいつも表情をなくしてしまう。彼にどうやって接しても私は彼を妨げるものでしかない気がした。だけどそれでも彼は私をそばに置く。
 雲雀恭弥という人が今何を考えてそこにいるのか、私を自分の家に置いているのか。私には少しも分からない。
「雲雀。さん」
 彼の背中を撫でた。普段は風紀委員で学ランを羽織る人の背中を。黒い色が似合う人の背中を。月明かりに照らされたその背中を。
 彼は何も言わない。私は何を言えばいいだろうか。彼がここに来たのは私を咬み殺すためだろうか。それとももっと別の何かなんだろうか。
 彼は、何を考えているだろう。
 雲雀恭弥に庇護されて、迷惑していませんか
 いつかの骸さんの言葉が甦る。
 ぎしとベッドを軋ませて足を下ろす。床に踵が触れれば冷たいフローリングの感触。彼はこういうことを嫌うだろうか。そう思いながら毛布の方を手に取って彼の肩にかける。もう夜は冷え込む時期になってきたし、そのままでは寒さで風邪を引いてしまうかもしれない。いつかに彼は風邪をこじらせて病院に入院した。またあんなことになったらいけない。風紀委員の人が困るから。
 私は。そうなったらこの家に一人だ。こんな広い家に一人でいても、やっぱり困ってしまう。

「風邪。引きますよ」
「…引かないよ。これくらい」
「引いたら大変ですよ。お部屋に戻って眠ってください。明日も学校です」
「分かってるよそんなこと。眠れるなら寝てる」
「…?」

 はっきりした物言い。だから私は首を傾げた。彼が顔を上げて私を見る。獣が獲物を見つめる目。雲雀さんの目はそういう目だと、そう思っていた。
 獣の。そういう人だと。上に立つ人だと。鷹が兎を狩るように物事を押し通す人だと。思っていた。
「…雲雀さん?」
 だけど今の彼は人の目をしていた。本能の目ではなかった。獣の目ではなかった。人の目だった。感情を映す目だった。それが何の感情かまでは私には分からなかったけれど、それは確かに普段の雲雀恭弥という人とは少し違う目だった。


「、はい」
「…馬鹿な話だけど。君を起こしたかったんだ」
「…はい?」
「僕は眠れない。だけど君は寝てる。君の寝てる顔を見たら、邪魔したくなった」
「…そう、ですか」

 嘘なのかそうでないのか。私は彼を見つめた。彼は視線を逸らして私が被せた毛布をばさと私の方に被せる。一つ瞬きして彼を見た。彼はもう私ではなくて床かどこかを見つめている。
「起こして。次はどうするつもりだったんですか?」
「…考えてなかった」
 ぼそりとそうこぼした彼。私はますます彼がらしくないことを言っていると考える。いつもなら明確な彼なりの理由があって、気に入らないとか咬み殺すとか、そういうものがあったのだけど。彼でも次のことを考えないで行動することがあるのか。
 それきり雲雀さんは黙り込んでしまった。だから私はなんて言葉をかければいいのか分からず声を出せない。
 ただ静かに、かち、こちと時計の針が時を刻む音がする。
 月明かりが照らし出す彼の背中。私は窓を振り返った。月が見える。蒼い色で、とてもきれいに。

「……話を」
「、」
「したかったのかも。しれない」

 彼の言葉に顔を戻す。月明かりの視界。もう見えないその表情は、一体どんなものだったのだろう。どんな顔で彼は今その言葉を。
 私は。彼にとって群れていると表現する人と同じくらいの価値しかないのだと思っていた。だけどその声を聞いたらそれは間違いだったと思った。間違いというか、それは違うのかもしれない、と思った。
 彼が何を考えているのかは分からない。やっぱり私と彼が立つ場所はあまりにも違うから、一般人の私は風紀委員長の彼を理解はできないしきっと近付けもしない。骸さんも一緒だ。彼は今遠いどこか知らない場所にいる。幻になってしか会いにこれないような遠い場所。同じだ。それでも骸さんは私に会いに来るけれど、これはそれと同じ。
 私は。彼らにとって何なのだろうか。
「雲雀さん。一つ質問してもいいですか」
「何?」
「私。雲雀さんにとって何でしょうか」
 彼が私を見る。獣じゃない目。人の目。ときどき忘れてしまうけど、骸さんも雲雀さんもちゃんと人間だ。私と同じカテゴリの生き物だ。同じ土台に立っている。ただ彼らは階段を上った。上にいった。私は動いていない。多分それだけの差。
「…僕にもよく分からない。けど」
「けど?」
 首を傾げる。彼が手を伸ばして私の髪を撫でた。そして撫でた場所が最初に会った頃トンファーで殴りつけられたところだったことを思い出す。
「それ。ごめん」
 それ、とは。多分殴った場所のことで。目を伏せた彼が「君の代わりはいない」と口にした。私はそれに瞬く。
 人は確かに個々人で成り立っている。私とそっくり同じ人はこの世にはいない。だけどその言葉が何のどういう代わりなのかが分からなくては、代わりがいないでは、意味によっては私の代わりはいることになる。
 家政婦さんなら、雇えばいいだけの話だ。私よりもよっぽど器量がよくて家事も炊事も全部上手な人。そんな人ならたくさん。
 だけどそんなことを考えている私に、彼はこう言った。
「僕には多分、君が必要なんだと思う」
 彼は。そう言った。だから私は何度も瞬きして目の前の光景を、今の現実を確かめた。
 そんなことを彼が口にするとは思っていなかったからだ。本当に心の底から思っていなかった。
 こう言っては何だけど、私は彼に一方的に殴られたり迎えに来られたりと全部が一方的だった。弱肉強食の世界、それはこの社会でも同じだ。強い人の言うことに弱い人が何を言っても仕方ない。私は雲雀さんが嫌いじゃない。だから骸さんが言うように雲雀さんに庇護されていることも別段苦ではない。
 苦ではないと。じゃあ楽なのかと言われたら、どうなのだろうとも思っていた。雲雀さんが苛々したりするのは私のせいだと知っていたし、私が勝手をするから雲雀さんはそんな私を迎えに来たり携帯電話をくれたりした。私は自分が雲雀さんをいい方向に持っていけているとは思っていなかった。ちっとも。
 だから。そんなことを言われるとは思っていなかった。
 気付いたら彼の腕が伸びていて、毛布を被る私を抱き寄せた。ばふと音。彼の黒いパジャマの胸ポケットが見える。
(……………、)
 頭が真っ白になるというのはきっとこういうことを言うんだと。思って。そろそろと視線だけ上げる。彼はごつと私の額に額をぶつけた。月明かりが視界に眩しい。
 お互いの息遣いが分かってしまうような近さ。
 目を閉じている彼の表情はやっぱりよく分からなかった。何を思っているのか、何を考えているのか。けれど、でも。
 だから私も目を閉じた。
 明日は学校だ。分かってる。彼は風紀委員長だし、明日は会議だから少し早く出るって言ってた。だから私もちゃんと起きて朝食を作らないと。分かってる。
 今だけ。明日になったら全部いつもと同じになるだろう。だから今くらい、私は彼とこうしていたい。

屈折した優しさを抱きしめて