幸せってなんでしょうか。
 単純な問題のように思えるこのフレーズ。しかしながら我々人間は幸せってなんだろうと訊かれたら、百人いたら百通りの幸せがあるわけで。恋人と一緒にいられる時間が幸せだと答える人もいれば、お風呂のあとのビールが至福だと言う人もいる。片思いの人とただ話をしてるだけで幸せだと感じる人もいれば、両思いにならなくちゃ意味なんてないと言う人もいる。
 たとえば、私の幸せはすごく単純。ケーキを食べてるときはその甘いこととおいしいことに思わず顔がにまーってなる。それが幸せ。すごくありふれてて、だけどケーキを食べているときだけ限定の幸せの時間。
「じゃあ君は、ケーキがないと幸せになれないわけか」
 少しばかりそういった話をしてみたところ、向かい側にいる黒髪の彼は無表情にそう言った。私は慌ててぶんぶん首を振って違う違うと示してみせる。
 別にケーキを食べているときしか私は幸せになれないわけじゃない。確かにケーキは大好きだけど、甘いものは他にもある。たとえばクッキー、焼き菓子系、洋菓子。和菓子だっておいしい。そこに紅茶や抹茶を合わせれば、さらにおいしい。甘くておいしい時間はやっぱり私にとって幸せなのだと思う。ケーキだとなお幸せ。それだけの話だ。
 甘いものを離して考えるなら、そうだなぁ。何かな。だけどそう考えると思い浮かばない。うーんと天井に視線をやって考える。私、甘いもの以外だとどんなときが幸せかな。
 試しに彼に訊いてみた。そうしたら彼はきっぱり「気に入らない小動物を咬み殺してるとき気分がいい」と言う。だから私は苦笑いして、それは幸せとは違うんじゃないかなぁと思ったり思わなかったり。
 ことん。彼が紅茶のカップをテーブルに置く。私は猫舌だったからまだふーと息を吹きかけていた。テーブルに甘いものがあれば私は幸せなのだけど、残念なことにここにはそういったものは置いていなかった。テーブルにあるのはいつもの書類や帳簿その他だ。風紀委員の彼のお仕事。
「…幸せの話だったね」
「?」
「どうして僕がそんな話したか、分かる?」
 黒い瞳がこっちを見ている。私は首を振った。いつも無表情か、はたまた機嫌が悪そうな顔をしているか、それとも怒っているか。彼が見せる表情のうちあまり見ない、たとえるなら悲しそうな顔。彼はそういう顔で私を見ていた。だから私は逆に微笑む。そんな顔をしないでと笑う。
 少しでも早く彼に私の言葉を伝えようと、筆記の練習を始めた。歪んだ文字で『そんなかおしないで』と書く。それを見た彼がさらに顔を歪める。耐え難い、そんなふうに。
 長い足を組んで、その上で両手を組んで、組んだ手に額をぶつけて彼が顔を伏せる。「どうして君の声が聞こえないんだろう」という独り言みたいな言葉。私は困ったなと笑う。だって、声が出ないものは出ないし。掠れた吐息程度なら唇からこぼれるけど、それ以上はない。
 私は声を失った。そういう病気だった。手術をした。病気は治った。定期的にお医者さんに通って手術後の状態を確認してる。今でも他の腫瘍や転移等は見つかっていない。
 病気は治った。代わりに、私は永遠に声を失った。
 少し前までなら言えてた。そんな顔しないでと声に出せていた。だけどもう私は声が出ない。俯いている彼に言葉をかけることができない。だからソファから立ち上がって向かい側にいる彼の隣に座って寄り添って。そうやって言葉の代わりに行動で示さなくてはいけなくなった。
 不便ではある。でもしょうがない。病気にならなければ一番よかったけれど、しょうがない。すぎたことだ。
 私はそっと彼の手に自分の手を添える。彼は顔を上げなかった。もう片手で彼の黒いさらさらの髪を撫でる。それでも彼は顔を上げなかった。『泣かないで』と紙に書いた文字も、彼が見てくれなければ伝わらない。
「一番泣きたいのは君なのにね。僕は馬鹿だね」
 そんなことを言われたから私は首を振った。彼の声はとても小さく弱々しかった。
 私達の関係は、声を失ってから変わった。前までなら恭弥と言って、咬み殺すの制裁を加えていた彼を止められた声。今はそれがない。だから私は走っていって彼と誰かの間に割り込んで、どうにか事態を収束させる。そんなふうになった。私は声がなくなったから恭弥と彼の後姿に声をかけられなくなった。代わりに彼が私に気付いてと呼んでくれるようになった。だから私は答えて笑顔を浮かべるようになった。
 私達の関係は変わった。だけどそれは大きなことじゃなくて、変化についていくための変化で。彼は悲しそうにそのことを話すけれど、私はもう悲しむのはやめた。だって悲しんでも、私の声は戻らないのだから。
 彼が私のことで悲しんでくれるのなら嬉しい。だけど悲しむよりも、さっきした幸せの話みたいに、嬉しいことがいい。喜べることがいい。だから私は手にしたペンで紙に書く。『帰りにケーキ屋さんでケーキが食べたい』と。彼の膝に紙を押し込んだら、顔を上げた彼が「分かったよ」とこぼして私を抱き締める。彼はやっぱり悲しそうだった。
 私から声が失われたことはそんなに悲しいだろうか。
 悲しくないなんて嘘だから言えないけど、死ぬよりはよかったんじゃないだろうか。そんなことを思いながら慰めるように彼の頭を撫でる。よしよしと。吐息しかこぼれないこの唇は、もう彼に好きだと伝えることもできない。それはやっぱり少し悲しいことだ。
 彼は力がある。だけどそれが全てじゃない。暴力で壊すことや守ることができても、癒すことはできない。
 彼の胸に指を当ててひらがなで『だれかくるよ』と書く。私の書く指の文字の感覚を分かってる彼は顔を上げて、ようやく私を離した。いつもの無表情になった彼が立ち上がってずかずか扉に歩み寄りすぱんと開け放てば、びくっと震えた風紀委員の人が一人廊下にいる。これからノックしようとしていたようだ。「何」「委員長、こちらをお届けしろと草壁さんが」「…そう」いくつか書類と帳簿を受け取った彼がすぱんと扉を閉める。かなり乱暴だ。だから私は困ったなぁと笑って、すぐに無表情を崩して眉を顰めて耐えている彼を見ている。
(どうか泣かないで。あなたが泣いてくれるのは嬉しいけれど、それで私が幸せになるはずもない)
 扉の前に立ち尽くしたままの彼のところに行く。彼の手を取って、その掌にひらがなで文字を書いていく。『じゃあしんでみようか』と。そうして彼のそばを離れてぱたぱた窓に歩み寄ってかちんと鍵を外してがらがらと窓を開けて、それなりに高さのある外の景色を見つめて窓枠に手をかけて。そこで乱暴な手にぐいと肩を引っぱられてたたらを踏んで後ろにすっ転んだ。どさっと尻餅をついていたたと顔を顰める。そんな私を背中から強く抱く震えた腕。「やめてよ、分かった。分かったからそんなことしないで」という震えた声に吐息する。私の手を握り締めた彼の手をゆっくり離して、文字を書く。
『私は生きているから大丈夫。明日もくるし明後日もくるし、その先の未来もある。死んでない。生きてる。私の声は死んでしまったけれど、恭弥の中で私を殺さないで』
 長い文章。伝わったろうか。私を抱き締めて震えている彼は、少しあとに私の手を握って「分かってるから。僕が、頑固なんだ。まだ受け入れたくないって思ってるんだ。君の声がなくなって君が僕を呼ばなくなって、そのうち君がそのまま消えてしまうんじゃないかって僕は」馬鹿だよねとこぼれた言葉に私は緩く首を振る。
 馬鹿なんかじゃない。恭弥は私を心配してくれて、そして不安なんだ。私もそう。だけどそれを笑い飛ばせるくらいの力がないといけない。この先まだ生きていこうと顔を上げたら見える障害、それを乗り越えるために。
 だから私はもう一度彼の掌に文字を書く。『恭弥が隣にいるなら、私は生きていけるよ』と。私を抱く手が強くなってちょっと痛いなと思う。だけど彼がまだ震えていたから、私は尻餅をついた格好のまま彼の手をそっと握った。すぐ握り返される。強く強く、縋るように。
「本当に、縋りたいのは君の方なのに。僕がしっかり立ってないと駄目なのに。弱くてごめん、
「、」
 吐息がこぼれた。瞬きして彼を振り返る。私の肩を強く抱く彼。俯いた顔の少しくらいしか分からなかったけど、彼が自分のことを弱いなんて言うとは思ってなかった。
 私は口元を緩めて彼に笑いかける。大丈夫よ恭弥と。大丈夫だよと笑いかける。だいじょうぶと唇を動かしてみてもやっぱり声は出なかった。だけど私はそれでもいい。このまま先に進めなくなるよりは、少し何かを失って、そこからでも先へ進める方が全然いい。
 まだ私の道は途絶えていない。なら、歩くしかない。
 舞い込んだ風に髪をさらわれて顔を上げた。開け放ったままの窓。その向こうからお陽様が変わらずに降り注いでいた。私は目を閉じてその光を浴びる。
 浴びようと思えば陽の下に光を浴びにいけばいいだけのこと。そう、それだけなんだ。
 彼が変わらず私を抱き締めている。私は瞼を押し上げて太陽を見上げ、片手をかざして視界を庇いながら目を細めた。眩しいや。

 百人いたら百通りの幸せがある。
 私の幸せは多分、そんなに贅沢じゃないんだけど、それなりには贅沢だ。甘いものと、それから彼。恭弥がいるから、私は間違っても不幸ではない。

ある放課後