血と腐った肉の臭いが満ちる昏い場所では、美味しいはずのものでさえその魅力をなくす。どれだけ出来立てのものを用意しようとその腐臭には敵わず、香りなど埋もれてしまう。
 そうと分かっていながら、私は今日も彼のために食事を作り、運ぶ。
 鼻を突くのはむっとこもった甘く重い空気。そして、目を凝らさなくては見通せない幽暗。慣れていない者がこの場所を訪れてしまったら、きっとこの毒気に当てられて早々に倒れていることだろう。
 私がこの場所で平気な顔をしていられるのは、私が人ではないことと、この場所に慣れようと努力を重ねたためだろう。
 風、ひいては空気を操ることのできる私なら、その力でこの毒に満ちた空気を吸わなければいいという話にもなるのだろうけど。それはなんだか、比企を否定しているように思えて、一度もしたことはない。
「比企」
 鉄格子でこちらとあちらに隔てられた暗く冷たい空間の、あちら側に声をかける。ジャリ、と冷たい鎖の音が響いて、「ああ、」と、彼の声。目を凝らせば冷たい石の台座に腰かけている比企がいて、餓えた両目でこちらを見据えていた。
 幾重にも幾重にも鎖と枷で繋がれて、縛られて。こんな昏くて冷たい場所で、一人きりで、かわいそうな比企。
「お腹が、空いたんだ。ごはんをちょうだいよ」
「うん、ごはんにしようね」
「やったぁ」
 彼が上機嫌にゆらゆらと揺れるとジャラジャラと鎖が鳴る。「俺はね、のご飯が一番好きだよ。牛も豚もみんなおいしいけど、のはねぇ、特別あったかい」上機嫌な彼の餓えを満たすために鉄格子の向こうの部屋に移動する。その際、一瞬だけ鎧糸と視線を合わせた。大丈夫。その意思を持って頷くと、はぁ、と溜息を吐いた鎧糸が鉄の扉を解錠して押し開けた。
 本当なら比企のそばまで行ってちゃんと食べさせてあげたいところだ。でも、今の彼は餓えている。私がそばに行くことは望まないし、鎧糸も止めるだろう。
 だから、空気をぎゅっと圧縮して、平面にしたその上にどさどさどさっと胸焼けがするくらいの食べ物を乗せて比企の前までスライドさせる。
 今日も呆れるくらいたくさんのものを作って持ってきた。外界へ行く度に憶えた美味しいものを比企のために作る。何十人という人が集う宴会でもない限りなくならないはずの量の食事は、全て、彼に食べ尽くされてなくなる。どれだけ作ってきてもお残しされたことはない。彼の胃には制限がないのだ。
 とんだ大食漢だ、なんて簡単に言えたら、どんなによかったか。
 どれだけ丁寧に作っても、時間をかけても、全ては蹴散らかされるように食い尽くされて、彼の本能を慰める。
 食べても食べても満ちることを知らない彼の凶暴な食欲は獣だ。生まれ持った本能の強さに、己の意志でしか抗うことのできない比企は、すごく、かわいそうなひとだ。
 呆れるほどの量の食事全てを食べ尽くした比企が顔を上げた。はぁ、と息を吐いた瞳にはいくらかの理性が戻っていて、私がきちんと分かっていて、へらっとした笑みを浮かべてみせる。
「おいしかったよ。また、新しい味があったね。こんなに作るの大変だったでしょ」
「少しね。でもいいの。私が作りたくて作るんだもの。本当なら毎食私が作ってあげたいくらいだけど…ごめんね」
 仕事と時間の都合上、私が毎食比企に食事を持ってくることはできない。それが少し歯痒い。この国の一員としてしなければならないことがあると分かってはいるけれど、比企と二人でのんびりできるなら、ずっとそうしていたいくらいなのに。
 ジャリ、と鎖を引きずって、ゆっくりとした歩調で比企がこちらに寄ってくる。鎧糸が警戒するように一歩踏み出すので「大丈夫」と言葉で制し、ゆっくりと歩いてくる彼を待つ。
 ジャラン、と鎖が鳴って、私の前にぺたんと座り込んだ比企に合わせて膝をついた。その服も、口元も、黒っぽく凝り固まった血の色で汚れていた。毎度のことなので、上品に食事のできない彼のためにと用意していた布巾で汚れている顔と手を丁寧に拭う。ぼやっとした顔をしているけど、その目は私の行動を追いかけていた。
「…ねぇ、最近は安定してるから、俺、またお外に出られるかなぁ?」
 それは私にはなんとも答えられない問いかけだった。ちらりと鎧糸を見上げるけど、無言だ。彼にも答えかねることなのだろう。
 そんな私達にふふふと比企が笑う。猫みたいにゴローンと私に甘えて抱きついてジャラリと鎖の音を響かせる。幾重もの鎖に繋がれて牢獄にいるというのに、その現実をまるで気にしてないみたいに、彼は笑う。そうでもないとやっていられないのかもしれない。私にはそれが歯痒い。
「俺の感だけど、次はきっと、やさしい場所で会えるよ」
「…そうだね。私も、それがいいな」
 血なまぐさい彼の髪をふわふわと撫でた。「そのときはお風呂も入らなきゃね」「そうだね。俺、臭い?」「少しね」「ふふ、少し、だって。はいい子だね」いい子いい子、と頭を撫でられて、私は無性に寂しくなった。甘ったるいようにも感じるこの腐臭も、血が染みついた昏いここも、比企には全然似合っていなくて、悲しくなった。
 するりと彼が私から離れる。ジャラ、と鎖の音を響かせて人一人分開けた距離に座り込み、目を細めて私を見上げた。
「さあ、もうおいき」
「…うん」
 別れのときは決まってこれだ。ここに長いこといてはいけない、と暗に言う。自分は毒だから、と自負としている。
 鎧糸に連れられて青柱殿を後にする。
 私はいつもの如く立ち止まり、オオーン、と低い唸り声を上げる重い空気の立ち込める場所を振り返った。
(比企が、泣いてる)
 ケーキという手間のかかる甘いものの作り方を憶え、クリームでたっぷり飾ったデザートを作って持っていくと、物欲しそうな顔で囀る小鳥を眺めていた比企がぱっと私を振り返った。香りで食べ物だと気付いたようで、「なぁにそれ」と嬉しそうに寄ってくる。
 最近は地面が落ち着いているから比企の調子もいい。良いことだ。
「これはね、ケーキっていうの。外界のデザート」
「へえぇ、初めて見た。すっごい甘いにおいだ」
 キラキラと顔を輝かせる比企をテーブルの席に着かせ、丸いケーキの一切れを自分に切り分けておいて、残りは全部比企のものだ。早く食べたいとうずうずしてる比企のため、手早く席について「さ、いただきます」と合唱すれば、「いただきます」言うが早いか、手でケーキをつまんで食べ始めた。比企には食器なんて無用な概念なのだ。
 ぱくぱくと手と口を動かす比企にお茶を用意する暇もなくケーキは三分でなくなった。さすがだ。
 げぷ、と息を吐いた比企がクリームのついた指を舐める。しみじみと「甘いなぁ。すごく甘い」「そう? じゃあ次は砂糖少なめで…」「ちがぁうよ。の愛が甘いんだよ」ぺろ、とクリームを舐め取った彼が笑う。
 愛。
 …愛、かなぁ。愛なのかな。私は、自分があなたを思うこれが何なのか、分かってないよ。
(でも、愛だったら、きっと素敵)
 お茶を淹れると、彼はすぐにカップを空にした。鼻の頭についたままのクリームにくすりと笑って、布巾できれいに拭う。彼は子供みたいな顔で「ついてた?」と首を傾げる。「もう平気」と空のカップにお茶を注げば、彼はまたすぐ飲み干してしまう。永遠に癒えぬ渇き。食べても食べても満たされることのない食欲。そんなものを生まれながらに背負ってしまった、かわいそうな、比企。
 陽の下で、整えられた庭の風景を眺めながら、お茶をする。
 青柱殿のときとは全然違う空気。やわらかくて、あたたかい、幸福な時間。
 どうかこれが彼の現実に成れ、と私は願う。願っている。どうかこの当たり前のような幸福が、ささやかなこの時間が、彼の中の当たり前になってほしいと、願う。
 そんな私に比企は決まって笑う。はいい子だね、と。
 私はいい子じゃない。いい子は仕事をサボって比企に会いに来たりしないし、仕事そっちのけでケーキ作りに勤しんだりしない。そんな私でもいい子だよと言う比企には一体私がどんなものに見えているのだろう。比企にとって私はなんだろう。私にとって比企は、なんだろう。
 夜、比企がベッドで微睡んでいる横で彼の髪を撫でつけながら、そろそろ仕事を真面目にやっつけてこないとなぁと気持ちが翳る。
 できることなら比企がここにいることを許されている間はずっと一緒にいたいものだけど、それじゃあ、いけない。やるべきことはやらなくては。そうでないと比企も困ってしまう。
 比企の髪からそっと手を離し、大きな枕に埋もれるようにして眠っている彼を起こさないよう、息を殺してそっと立ち上がった。空気を揺らさないように気をつけた。でも、比企は目を覚ましてしまった。ぼやっとした顔で中途半端に腰を浮かせた私を見上げてふっと笑う。
 その笑顔は、たとえ空気が揺れなくたって、私が離れたことなんて分かるよ、と言ってるみたいに見えた。
「おしごとぉ?」
「…うん。できればずっと一緒にいたいけど…ごめんね、比企」
「なぁに言ってるの。が謝ることなんて一つもない。お仕事、おわるまで待ってるよ。いってらっしゃい」
 ひらひらと手を振って見送られて、私は唇を噛んで部屋を抜け出した。
 ここは青柱殿ではないのに、オオーン、と空気が震えた気がして足を止める。
 …今頃比企は泣いているのだろうか。泣いているなら、今すぐ部屋に戻ってあげたい。
 待ってる、なんて笑って。いつまた地震が起きてあの牢獄に戻るか分からないのに、無責任だな。戻ってきたときちゃんとここにいてくれる保証なんてないくせに。
(それでも、行かなきゃ)
 きっと顔を上げてタンと空気を踏みつけ、加速し、最短ルートを通って執務室に飛び込んで自分の席に着席、山と積まれた書類の処理にかかる。それが終わったら風を操ることのできる私は外仕事に出向かなくてはならない。必然、時間がかかる。一度始めたら机の上が片付くまで比企のもとへ行くことはできない。私が自分の立場より比企を優先させると、その彼が、自分のせいで私の立場が悪くなることを気にするから。だから私はそんなことないよって仕事と比企のことを両立させなくてはいけない。
 いつ終わるのか分からない仕事の山を前に、それでも比企は私が戻ってくるのを待っていてくれるだろうか、と考える。
(どうか、地震が、起こりませんように)
 祈る気持ちを込めて書面に筆を走らせる。
 比企ばかりが苦しむのはもうたくさんだ。だから、私は、風を使って噂を拾い、四凶並びに強い力を持つ神獣の行方を探る。情報を集め、それを書面にしたためる。四凶の噂はとんと聞かないけれど、神獣の話は各地に多くあり、まだ潔斎されていない神を見つけては、国に情報を持ち帰る。それが歌士官へと伝わって、彼らが神を捕らえ、国に連れ帰るのだ。それが国の安定に繋がる。
 早く、早く、比企の負担が減りますように。早く残りの四凶が見つかって、比企が。
 でも比企は。四凶の一人として生まれて。生まれ背負ったその業のせいで、彼には永遠に自由というものがない。永遠に苦しみ続ける。あんな昏くて腐臭に満ちた場所で鎖に繋がれている。かわいそうな比企。
 …最近鎧糸の目が厳しい。もしかしたら私のことを疑っているのかもしれない。比企を自由にしたいが故に私が機会を窺っているのではないか、と。かつての四凶がそうして逃げ出したように、私が比企を逃がす手助けをするのではないか、と。
 そうね。そうできたらどんなによかったか。あんな国なんて知らない、沈んじゃえって投げ出せていたら、どんなによかったか。
(それができないから、私、頑張ってるんじゃない。鎧糸の馬鹿)
 ゴオ、と外界の空気に全身をなぶられて思考を中断する。
 仕事は仕事。今は比企も鎧糸のことも忘れて、己の職務を果たさなくては。じゃなきゃ、比企に会うのがずっと先延ばしだ。早く全部終わらせて、彼のもとに戻ってあげよう。
§  §  §  §  §
 が仕事に出て行って、俺は途端に暇になった。がしてくれる外界の話はいつも面白いし、この大地から離れることのできない俺の慰めになっていただけに、彼女がいなくなると途端にぱったりだ。
 は風を操れる風神だ。つまり風。自由に飛べる。どこへでもいける。
 それなのに俺のもとに帰ってくる。俺のために自分の時間を費やしてごはんを作る。青柱殿に封じられてる間もできるだけ俺のところへ通う。ときには仕事をそっちのけで、俺のことを案ずる。
 …もったいない話だ。俺に彼女はもったいない。
「……なぁに鎧糸。お兄さんに用事?」
 もふ、と枕に手をついて起き上がると、部屋の入口で気配を殺していた鎧糸が仕方なさそうに姿を見せた。もともと仏頂面か顰め面しかしないのに、余計に眉間に皺を寄せて、怖い顔をしている。
「比企。いい加減あの女と手を切りなさい」
「あの女…のこと? どうして? あんなにいい子なのに」
 首を傾げてそう返した俺だけど、渋い顔をした鎧糸が言いたいことなんて分かっていた。
 は中級神で風を操ることのできる子だ。即ち、空を飛べる。外界へ赴くためには海を渡るか空を渡るしかない歌士官にとっても貴重な存在。信頼のできる誰かにを従神として仕事をさせた方が国にとって効率がいい。
 それに。俺の尽きることのない食欲と渇きを知っているくせにそばにいようとする彼女は危険だ。食欲という本能に支配された俺がいつその存在を喰らってしまうとも分からない。
 気をつけてはいるけど、俺がコーフンして本性を出してしまったときは、空気が害される。彼女の力ならば退けることもできるだろうけど、俺の発する空気で彼女自身を害してしまう可能性だってある。
 そうでなくとも、饕餮比企という存在を思う彼女は危険視される。俺の不自由を案じた彼女が俺を逃がすのではないか。上の方の人達はきっとそんなふうに彼女のことを疑っている。
 …確かに、いい子なんだ。こんな俺の境遇に同情して、同調して、同じように悲しんでくれる。同じように泣いてくれる。味わう暇なんかない、本能に負けた俺にでも、手間暇かけた食事を作ってくれる、いい子なんだ。
 もふ、と枕に身体を埋めた。
 鎧糸の言いたいことは分かる。俺のためにも彼女のためにも、手放せ。そう言ってる。俺が彼女を喰わないうちに、彼女が国に危険視される前に、手放せ。
 比企、と俺を呼ぶ声と控えめな微笑み。それを喰らってしまうようなことがあったら俺はもう駄目になる気がする。
 …でも。のいなくなった日常がこの先もずっと続くのだと思うだけで、俺の心はとても重たくなって、生きることがしんどくなる。手作りのごはんが、こんな俺でも肯定してくれるあたたかい空気がなくなると思うだけで、死にたいぐらいに切ない。
「鎧糸はさぁ、恋って何か、わかる?」
「は…? 恋?」
「うん。恋ってねぇ、胸がこう、きゅーってなるんだ。が、今もさ、俺のところに戻ってこようとお仕事頑張ってるんだろうなーとか思うとね。胸がきゅーってなる」
「…………」
「だから、無理かな。ごめんね鎧糸。お前にばっかり、世話をかけて」
 きっとすごい顰め面をしてるだろう弟を想像する。目を閉じて、ふー、と深く息を吐く。
 鎧糸は今もの行動を監視するよう言われているはずだ。その面倒をなくしたい意味でも俺に手放せと言ってきたんだろう。
(でも、ごめん。お前の言いたいことが分かっていても、俺はを手放したくないんだよ。それが俺の本心なんだ)
 はぁ、と溜息を吐いた鎧糸は黙って部屋を出て行った。
 しばらく枕に埋もれていた俺は、ちっとも震えない空気にのそりと顔を上げて、ベッドを転がり、窓の外の月をぼんやりと見上げた。
 は今外界だろうか。それともきりきりと書類を仕上げているのか。どちらでもいい。ただ、こうして同じ月を見上げているのだと、思いたい。同じ空の下にいるのだと。同じ世界の中に生きているのだと、そう思いたい。そうしたら俺は頑張れる。君が暮らす大地を支えるための人柱。ああ、それならまだ、頑張ろうって思える。
…」
 手を伸ばす。欠けた月には届かない。彼女が操る風は吹かない。空気は揺れない。
 青柱殿の幽暗に比べたらずっとあたたかい闇なのに、俺は寒くて、寒くて、布団を掴んで頭まで被った。

 叶わない恋ほど、叶わない愛ほど、余計に心を焦がしていくものだ。
 幸せになどなれない俺の幸福を願う君は。本当に、尊いほど、眩しくて、いとしい。そう、なきたいくらいに。