ひとりの生け贄の話

「ん? あれ、しまった、また食べちゃった。じゃーかわりにこれ入れよ。料理って難しいなぁ」
「…そもそもあなたが台所に立つということが私には理解できません……」
「あれぇ、まだそんなこと言ってるの鎧糸。だから、のためだよ。いつもおいしいごはんを俺のために用意してくれるあの子に、俺がたまにはごはんをね。用意してあげようってね」
「……確認しますが、比企、調理をした経験は」
「ないねぇ」
「………やめておいた方が彼女のためにもなると思いますが…」
「え? そんなにまずそう? これ」
「お世辞にも美味しそうとは言いがたいですね」

 きっぱり言うと兄は残念そうな顔で最早ごった煮でしかない鍋の中身を見下ろした。「そう? 俺なりに頑張ったんだけどなぁ」…食物を前に食欲を抑えているという点は確かに頑張っていると言えるのだろうが、そのごった煮は、自分で片付けた方が懸命であると思う。
 はぁ、と額に手を添えて息を吐く。…なんだって私が調理場に立つ兄をハラハラしながら見守らなければならないのか。
 教本通りに材料を用意し、包丁を握った兄。それはまだよかった。あの兄が包丁を持つなどと落ち着かない気持ちで見守っていた。食材を前によく食欲を抑え込んでいると感心さえした。
 だが、時間がたつにつれ、やはり兄は本能に負け、つまみ食いどころかかなりの食材をそのままかじり、私が止める暇もなく三口で食べ終え、それで比企はようやく己が食欲に負けたことに気がつく。必然材料が足りなくなるものだから、仕方なく、私が調達してきて、兄が調理を再開し、しかしまたどこかしらで本能に負けつまみ食いをし、私が代わりになりそうな食材を調達し…その繰り返しだ。
 当初の予定ではチャーハンと中華スープというシンプルなメニューだったのだが、比企がつまみ食いを繰り返した結果、できたものは鍋にごった煮となった粥のようなもの、だった。
 その鍋を前にうーんと腕組みして首を傾げる兄。真顔で「おかしいなぁ。できないね」とまで言う。私だってそりゃあそうだと心中でツッコミたくもなる。
 そもそも。比企が自分で調理をするなど、己の中の満たされることのない食欲、癒えることのない渇きに喧嘩を売るようなものだ。当然、兄の中で葛藤がある。わざわざ自分からそのジレンマに飛び込むなど、兄が考えていることはやはり掴めない。
「比企、もうよしましょう。こんなごった煮を出されてもも困るでしょう」
 至極当たり前のことを言ったつもりだった。兄は呆れた顔でごった煮を見下ろす私を眺めて、「そっかぁ」と気落ちしたように肩を落とす。
「頑張ったんだけどな……。の作ってくれるごはんに比べたら、笑っちゃうくらい、不出来だね」
「…………」
 思ったより気落ちしている兄に視線が惑う。
 あの兄が、己の食欲に喧嘩を売ってまで作った料理。残念ながらただのごった煮にしかならなかったが、一応、食欲と闘った兄の成果なのだ。どんな形であれそれ自体は認められていいはずだ。なら比企の気持ちを汲むだろう。たとえごった煮であろうが口をつけて何かしら兄を慰めるはず。
 こほん、と咳払いを一つ。渋々「まぁ、いいんじゃないですか。頑張って作ったんだとアピールするくらい」ぼそぼそとそう言ったら兄はぼやっとした顔で私を眺め、へらっと薄ら笑いを浮かべる。
「まずいって言われても、俺が食べればいいんだものね。せっかく作ったんだから…作ったんだよってことは見せたいな」
 そう言いつつも兄の目は目の前の食べ物、自作のごった煮へと向けられている。尽きることのない食欲がその瞳にちらついていた。
 ここで兄の努力をぶち壊したくもないので、私は兄の背を押して「さぁ、少し休憩しなさい」と調理場から追い出す。兄はへらへら笑いながら「食べちゃ駄目だからねー鎧糸」「食べませんよ」あんな不味そうなもの、という言葉は呑み込んで、しっしと兄を追いやる。一息吐いて調理で使用ずみの食器類を片付けながら、ふと、私は何をしているのかと鍋のごった煮を睨みつけた。
 …そういえば兄は何も味付けをしていなかったように思う。さすがに、野菜と肉と魚のみの味では世辞の一つも出てこないだろう。
 逡巡した挙句、私はそのごった煮に調味料でないよりはましだろうという味付けを施した。
 中級神で風を操る風神、名を
 あの女が現れてからというもの、私の仕事はまた増えた。
 聞き分けがよく、賢くもあり、人型を取る。風を操り空気を司り空をも横断する能力を持つは国にとって貴重な存在で、一介の歌士にやるのがもったいないという理由で、今まで八仙の手足として国を世界を越えて飛び回ってきた。その仕事ぶりはどちらかといえば善神であり、多少休憩と称してサボることはあれど、特に問題も見当たらない、彼女は国にとって都合のいい神であった。
 それが崩れたのは、地震が起き、大地が大きく揺れ、比企がもがき苦しみ哭いた、あの日から始まった。
 風を、ひいては空気を操るには聞こえたのだという。その遠吠えが。悲鳴が。苦しむ声が。
 禁忌と知っていながら青柱殿に忍び込み、鎖に繋がれ、獣の姿でもがき、唸り声を上げ、餓えと渇きと激痛に苛まれる兄を彼女がどう思ったのかは分からない。
 哀れと思ったか。こんな牢獄で一人苦しむ兄に、かわいそうにと同情したか。
 空気を苛む靄を吐き出す兄に、その生まれ持っての業に、空気を手に取ることのできる神はなんと思ったか。
 は青柱殿の深部まで入り込んだ罪として厳罰に処された。だがそれでもまた兄に会いに来た。それを三度繰り返し、ついに我らが師父が登場する事態にまで至り、目的は何かと問い質された彼女はこう答えた。私は比企に会いたいだけです、とまっすぐ空気のように透明な瞳でそう言った。
 …双子の弟という位置にいる私は、親族感情を抜きにしても、比企の境遇には同情する余地があると思っている。
 生まれながらにして四凶の饕餮という業を背負い、喉が張り付くほどの渇きと内臓が捩じ切れるほどの餓えを抱え、そこに存在しているだけで責め苦を受ける兄。一度は逃げ出した前科者だからと足を切られ、歌士にその身を捕縛され、青柱殿で国を支える人柱として生贄になった兄。
 そんな兄に会いたいと望む女が一人。
 兄の獣の姿を見ても動じず、腐った空気に当てられても慣れようと何度も腐臭の中に赴き、本能に支配された兄のために食事を作り、兄のために笑い、兄のために泣く。
 その存在は比企にとって救いだったろうか。それとも、さらに餓えと渇きに苦しむだけの出逢いだったろうか。
 前者であると望みたいところだが、兄から餓えと渇きが絶えないこともまた知っている私としては、そうであれ、と願うことしかできない。
 は夜になってやってきた。衣服をボロボロにして、庭先の夜空からふらりと舞い落ちて、「」と腕を伸ばした比企の中に収まった。自力で立つことも長い時間はしんどい比企には、その衝撃を殺すことができず、どさっと一緒になって床に倒れ込む。
 私は黙って二人を見守った。それが私の仕事であり、正直なところ、に甘える比企の時間を壊したくはなかった。
 比企が物を大切にしているところなど見たことはないが、今確かに、兄は壊れ物を扱う手つきでのことを抱き止めていた。
「どうしたの。ボロボロだ」
「ちょっと…雷神とぶつかっちゃって、ね。未潔斎の子で、情報持って帰ってくるのに、だいぶ、実力戦を…」
 よいしょ、と起き上がった比企がを抱き起こす。「大丈夫なの?」とぺたぺたに触れて怪我のぐあいを確認している。
 …だが比企、一言言わせてもらうなら、触りすぎだ。もう少し遠慮しろ。相手が女型であるというところに気を遣え。
 くすくす笑みをこぼしたが起き上がる。比企の無遠慮な行動が気に障ったふうでもない。「お風呂入らなくちゃ、ね。埃っぽいし、焦げ臭いし」「そうだね。一緒に入る?」無邪気な顔で首を傾げた兄の当たり前のような一言に絶句する私だが、の方は気にした様子もなく「そうね、ついでのついで。すませて、今日はもう寝よう?」と控えめに微笑む。「はぁい」と手を挙げる比企も比企に笑いかけるも至極当然とばかりの流れだ。
 私はそこではっとした。思い出したのだ。このどう考えても不謹慎な流れを断ち切るものの存在を。
「比企、それよりも伝えることがあるでしょう」
 昼間あれだけ己と格闘して作られたごった煮。まずはあれだ。それを二人が片付ける間に次の手を考えねば。一緒に入浴など、どう考えても不謹慎だ。止めるべきだ。誰の指示を仰がずとも分かりきっている。
 比企は私の言葉に首を傾げた。私が無言で睨んでいると、さらに首を傾げる。そして、「ん…? あー、ああ、そっか。そうだった」ぽん、と手を叩いて、自分が作ったごった煮のことを思い出す。よいしょ、と立ち上がると、ゆらりと一歩踏み出して、「ちょっと待っててよ、。びっくりするもの用意したんだ」「びっくりするもの…?」「うん」ふらり、とまた一歩踏み出して調理場へ足を向ける兄に、はぁ、と息を吐いてその前に立つ。足の悪い兄に鍋を持って歩けと言うほど私も非情ではない。
「私が持ってきますから。比企はここにいなさい」
「…ごめんね、鎧糸。ありがとぉ」
 いえ、と残してツカツカと歩き出し、二人を残して調理場へ移動。鍋のごった煮を適当に温め、取り皿と匙を用意し、ふと、自分は何をしているのかという疑問に囚われる。
 …なんてことはない。この国に捕らわれた兄と、その兄を思っている女、二人に少し手を貸したまでのこと。これは監視の任からは少し外れるが、仕方がない。
 鍋と食器類を持って戻ると、椅子に腰かけたのそばで、ぺたりと床に座り込んでいる兄が見えた。の腿に頬を預けて目を閉じている。耳を掃除してもらっているらしく、髪の間から覗く獣の耳がぱたっと一つ動いた。
 兄の癖っ毛を撫でつけ、濡らしたタオルで丁寧に耳を拭うの姿に、邪は感じない。
 そんなことは私が疑うまでもないことだ。師父とて承知している。問題は八仙他地仙の面々がを疑っていることだ。だから私が監視役を買って出て二人の行動を見守っている。それが善以外でないと知りながら、時折祈りながら、笑い合う二人を見守っている。
 薄目を開けた兄が私に気がついた。ほんのりと笑うその顔にも邪気はない。
 だが、兄の存在は現実、毒にしかならないのだ。なんという矛盾。なんという不合理。なんという不条理。
「お待たせしました」
 どん、と机の上に鍋を置き食器を並べる。は私を見上げてから首を傾げてごった煮の鍋を見つめた。
「これは…?」
 料理未満のものを前にして当然の疑問を口にする彼女に、はぁいと手を挙げた比企がよいしょと立ち上がった。ふらりと一歩踏み出して隣の席へと腰かけ、「俺が作ったんだよ。がいつも、おいしいごはんを作ってくれるからね。でも、上手くいかなくてね。こんなものしかできなかったんだ」野菜は皮を剥かず大切り、肉も魚も大切り。米は水分を吸ってふやけきっていて、スープはないに等しい。どう見ても不恰好な、料理になり損なったもの。そんなものを前にしても、比企が作った、という事実を前には瞳を潤ませた。私の想像を超えて、はこの現実に感動したらしい。

 …知れば知るほど分からない女だ。
 ただの同情や哀れみだけでここまで心は揺れまい。泣きそうになるほど比企のごった煮に心を震わせたりはしまい。
 ならば、なぜ、この女は泣きそうになっているのか。
 ……本気で想っているのか。四凶饕餮の名を背負った兄を。生まれながらにして人柱になることを定められ、この国に繋がれ、その存在自体が邪悪だとされて仙人にも毛嫌いされる兄を。愛しているのか。そんな奇跡がこの世には存在するのか。
 存在するのだとしたら。この世界もまだ捨てたものではないのかもしれない。

「これ、比企が…? 本当に?」
「うん。鎧糸ならもうちょっと上手に作るし、待官ならもっと上手に作る。俺だから、こんなに下手くそなんだ」
 ごめんね、と言いながら比企がの首に腕を回してくっついた。猫のようにくっついて甘えながら「でもさぁ、俺なりに一生懸命、ちょっとつまみ食いしたりしながら、頑張ったんだよ」と言う。は何度も頷く。「食べてもいいの?」と問う声は震えていた。へらりと笑った兄が「食べてくれる?」と訊き返せば、がし、と匙を掴んだが躊躇うことなく鍋から粥をすくった。大口すぎる人参もそのままに口に押し込んで懸命に咀嚼する、その姿を、兄がぼんやりした顔で見つめていた。
 涙を堪えながらもくもくと口を動かしていたがようやく一口食べ終えて、泣きながら笑う。「おいしい」と。そんなを見て比企も笑った。素直に笑った。
 …今の二人に、私は無粋だな。自然とそう思ったが、二人を見守れる位置にいることが私の仕事だ。やるせないが仕方がない。
 二人からなるべく離れた位置の、夜の影に沈んでいる柱に背中を預けて腕を組む。「比企は食べないの?」「食べ出したら止まらないから、我慢する。が満足するまで」「…頑張ったのね。私のために?」「うん。のために」「比企…」大好きよ、と囁く声が微かに耳に届いた。なるべく二人の邪魔をしないようにと目を伏せていた私だが、その言葉にちらりと視線をやってしまう。
 恋ってねぇ、胸がこう、きゅーってなるんだ。が、今もさ、俺のところに戻ってこようとお仕事頑張ってるんだろうなーとか思うとね。胸がきゅーってなる
 ある夜の兄の言葉を思い出した。そう言った兄がどこか泣きそうな顔をしていたことも思い出した。
 ぼやっとした顔での泣き笑いを眺めていた比企が、ふいに机に手をついて、身を乗り出すようにして彼女の顔に顔を寄せた。あまりにふいの行動すぎて私が入り込む余地もなく、瞬きの間に兄はと接吻を交わしていた。
 呆然としているのは私だけではないらしく、にも動きがない。
 訪れた夜の空白がやけに長く感じる。
 ふふ、と笑みをこぼした比企が僅かに顔を離した。その両目にはきちんと理性があり、本能は意志により捻じ伏せられていた。
「なにぃ、その顔。俺のこと好きなんでしょ? 俺も、のこと大好き。愛してる。だからキスくらいいいでしょ?」
 ね、と顔を離した比企に、が阿呆みたいに頷いた。それから匙でごった煮を食べ始め、にこにことした笑顔で比企がそれを見守る。
 私は唖然としていたところから我に返った。
 …一瞬、比企があのままを頭から喰らうのではなどと想像した己が恥ずかしい。
 はぁ、と溜息を吐いた私に一瞥をくれた比企がへらりとした顔で笑う。
 面倒をかけるね、鎧糸。でも譲れないよ。あの顔はそんなことを言っているに違いない。
 …全く。どうしようもない兄だ。少しは私の負担というか仕事というかを減らそうという気はないのか。見ている私が苛々してくるぐらいにへらへらと笑って、四凶饕餮という名を背負いながら、あんなに、幸せだと言わんばかりの顔で笑って一人の女を見つめて。馬鹿なひとだ。本当に。
 はぁ、ともう一つ溜息を吐いた私は目を閉じた。
 …どうか、今、地が揺れることなどないように。今だけは本気でそう願う。
(どうかこの時間を邪魔しないでやってくれ。どうか兄のささやかな幸せを取り上げないでやってくれ。どうか。どうか)