東王父が厚意で用意してくれている比企のための部屋で、大きなベッドで二人で夜を過ごしていた。
 最近は地震もなくて比企も調子がいいし、特に大きな出来事もなく、問題もなく、平和と言えば平和だ。そろそろ私のデスクワークと外仕事が机に山積みになっているだろうからそちらをこなさなくてはという憂鬱はあるけれど、この時期は、その憂鬱も少しだけ晴れる。
 外界の東の方へ赴くと、バレンタインという行事がある。今がちょうどその行事が盛んだろう時期に当てはまり、この行事というのがなかなかに悦なのだ。甘い日を認可されている、とでも言おうか。詳しい由来は知らないけれど、恋人やお世話になった人にチョコレートや花束、カードなどで感謝や愛を贈る日だとされている。
 もちろん比企にあげるのにカードや花束なんて選ばない。クッキーやケーキは今まで作ってきた。それなら今度はバレンタインらしくチョコレートをあげたい。
 …それには少し冒険をしないとならないのだけど、これも比企のため。美味しいチョコを持って帰ってきてあげたい。自分で作れない分せめて。
 痒いと言う比企の獣耳を掃除してあげながら話しかける。
「知ってる比企。外国ではバレンタインっていうイベントがあるの」
 のそりと動いた比企が片耳をぱたっとさせた。「ばれんたいん…? なぁにそれ。おいしいの?」そう言うだろうと思っていた私はうふふと笑みをこぼす。「美味しいの。美味しいイベントなの」「へえぇ」美味しいに興味をつられた比企が身動きするのでぼふっと膝に頭を押しつけさせた。「動かない」「はぁい」大人しく私の膝に頬を預けた彼が言う。「おいしいイベントって、どんなもの?」「んーっとね。甘い日が認可されてるの」「甘い日?」何それ、とこっちを見上げる彼の目に上手いこと説明ができない。
「外国では、この時期、いつもよりチョコレートが出回るの」
「ちょこれーと?」
「甘くて美味しいもの。それをね、恋人やお世話になった人に贈る行事なの。普段の感謝とか、愛を込めてね」
「ふーん…?」
 くすりと笑った比企が手を伸ばす。細長い指が私の髪を引っぱった。引き寄せられて、自然と顔が近くなる。「なぁに?」「別に。ねぇ、外国は、決まった日にしか気持ちを伝えられないの?」訊かれて、ふと考える。大昔ならそれもありえたかもしれない。でも今は…時代が進んで男女の区分がなくなり、身分も立場も公平にという風潮もある。限られた日にしか会えないとか、国によって管理されているとか、そんなことをしているところは少ないはずだ。
 私も言うほど外界に詳しいわけではないので、自然と眉が八の字になる。「どうかな。バレンタインは…そういう気持ちを伝えやすくする日に、なってるんじゃないかな」ふーんと笑った比企がごろんと転がって私の腹部に顔を埋めた。反対側の耳を掃除してくれということらしい。
 耳の手入れくらい自分でやりなさいと思いつつ、タオルで彼の耳を拭う私も甘い。
 比企の息遣いが、服を通して肌まで伝わってくるようだ。それくらいに近い。ぎゅってされてる。
 ああ、なんだか幸せだ。
「ひとは言葉を惜しむものね」
「…そうね。その人の幸せより、自分の幸せを優先するからかな」
「? そうなの?」
「うーん…だって、好きですって伝えて、ごめんなさいって言われたら、やっぱり傷つくでしょう? 自分の想いが否定されてしまった、って。だから言わないんだと思う。それで自分が傷つかないように」
「…意気地のない話だね。否定されて、それで相手を嫌いになれるなら、そんなに楽になれることもないだろうに」
 人間の想いってそんなものなのかな、と言う比企に、私は首を傾げた。如何せん私は人間ではないから彼らの気持ちはよく分からない。藍様や八仙、香茗様は一番身近にいる人、だったひとだ。人の寿命を超え外見の成長を止めた彼らを人間として見るのも何か違う気がするし。
 はいおしまい、と耳から手を離す。よいしょと起き上がった比企がぷるぷると頭を振る様子に自然と笑みがこぼれる。
 ぱち、と目を開けた彼はぼやっとした顔で私を眺めた。はて、と首を傾げる。
 眠いのかな。いい時間になってきたものね。私はこのあといい加減仕事に行かないといけないけど、比企は眠れるときに眠った方がいい。神獣は寝溜めだってできるんだから。
「……欲しいものがあるなら、手に入るまで粘って、作戦練って、これでもかってくらい作り込んで…それで玉砕して、初めて諦められると思うんだけど。俺なら、そんな簡単に諦められるもの、欲しいって思わない」
 珍しく語気を強くする比企にぱちぱちと瞬く。そんな私にいつもの顔でへらりと笑った彼。「さ、お仕事でしょ。いってらっしゃい」と言われて弱く笑う。
 本当は仕事なんて行きたくないよ。比企の調子のいいときはずっとそばにいてあげたい。でも、それじゃあ成り立たいんだよね。
 仕方なくベッドから下りる。「じゃあ比企、なるべく早く…?」ぱし、と手を取られて振り返ると、彼のギラギラした瞳がすぐそこにあった。食欲という本能に支配されそうになっている。一瞬そう思ってヒヤリとした心地を味わったけれど、比企は私に唇を寄せてキスしただけで、私を食べることはなかった。いつものへらっとした顔で「帰り、待ってる」と囁く声にこくりと頷く。
 比企の唇っていつも何かの味がする。今はさっきまで食べてた魚介の燻製の味。
 ねぇ、キスが燻製味ってどう? 普通じゃありえないよね。比企らしいけど。そんなふうに笑って部屋を出ると、鎧糸に遭遇した。気のせいではなく私を睨んでいる。「師父からそろそろ仕事を片付けろと催促がきています」トゲトゲした声で言われて「はぁい」と肩を竦めて足場の空気を固め、ダン、と力強く踏み締めて空間を駆け抜ける。
 まずはデスクワークをさささっと片付ける。さささっと言っても丸一日机にかじりついてようやく片付く量だ。それをこなしたあとは外仕事に出かける。いつもの情報収集だ。そして、今回はついでに、チョコレートを仕入れてくる。
 外界の品を国に持ち込むことは禁止されている。そんなことは知っている。だからこそわざわざ外国の料理を憶えて帰ってくるのだ。買って帰ってくることができないから、外のものを再現するには自分で作るしかなかった。でもチョコレートは無理だ。この国にはない。チョコレートの原料になるカカオっていうものがない。なら、チョコレートを食べさせたいなら、密輸入を承知で持ち込むしかない。
 私は水門を通るわけでもないから、入国出国の手続きは簡単だし、身の回りを調べられるわけでもないから所持品の確認なんてされない。いつも行ってきまーすと出国の手続きをして戻りましたーと帰国の手続きをする。それだけ。だからチョコレートを少し持ち込むことくらい何も難しくはない。
 が。三日後、帰国時に私を出迎えたのは、なぜか藍様だった。
 普段から仕事に忙殺されている上役、国を支える八仙の一人。そして、比企や鎧糸達の師父でもある。そんな偉くて忙しい人が一風神でしかない私の帰りを出迎えるなんて、嫌な予感しかしない。
「…なぜ藍様がこちらに、」
「鎧糸から話を聞いてな」
 鎧糸、の言葉に少し身構える私。
 鎧糸め、私と比企の話をしっかり聞いていたんだ。ついでに藍様に報告と称してチクるなんてひどい。
 幼い外見のまま仙となり成長の止まった藍様がジト目で私を見上げてくる。腕組みして「で、俺に隠しているものはないか?」とズバッと訊ねてくるので、背中を伝う冷や汗を感じながら袖の中に隠しているチョコの包みを固めた空気の上にそっと置いた。しゅっと移動させてぱっと両手を掲げてひらひらさせる。八仙に仕えるうちに覚えた作り笑顔はこういうときにとても役に立つ。
「何も持ってませんよ。やですよ藍様、鎧糸、なんて言ってたんです?」
「お前が何やら比企に持ち帰ってくるつもりでいるのではないか、と言ってたぞ。苦い顔で。念のため気にかけてくれ、とな」
 鎧糸め。憶えてろ。笑顔の下でそんなことを思ったとき、ふっと後ろから影ができた。はっとして振り返ると獣姿の鎧糸がいて、口には避難させたはずのチョコの包みが。しっかり藍様の隣に下り立って人の姿に戻り、「師父」とチョコの包みを揺らす。
「返して!」
 私はムキになって鎧糸に突進した。空気を踏んづけて加速して掠め取るつもりでいたのに鎧糸はあっさり私を避けた。呆れたような目でこっちを睨んで「密輸入ですよ。禁止されていることなど知っているでしょう」「知ってるわよ!」ムキになる私に鎧糸も譲らない。さすが兵士の格好をしてるだけあって実戦慣れしているとでも言おうか。私も外仕事でそれなりに経験をしてるつもりでいるけど、男と女はやっぱり違うのかもしれない。大きな手に腕を掴まれるとびくともしなくて、離れることもできなくなる。
 うーと涙目で睨む私にはぁと溜息を吐く鎧糸。私が伸ばす手を無視して藍様にチョコを預けてしまう。
「藍様ぁ」
 涙目で訴える私に藍様は呆れ気味だ。「そんなに美味いのか? このチョコとやらは。規則破って持ち込むくらいに」胡乱げな顔でチョコの包みを振る藍様に手をバタバタさせる。片方は鎧糸に捕まったままだ。
「甘いです。きっと美味しいです、それはいいんです。私はただ比企にチョコをあげたくて…!」
「あ? 比企に? ああ、食いもんだからか」
「それもありますけど! 藍様は知らないんですか? 外国は今バレンタインなんです。大切な人にチョコをあげるのイベント真っ最中なんです。でもウチにはチョコレートなんてないから、だから、私、こっそり持ち込んででも比企にチョコ、を」
 比企のためにチョコをこっそり持ち込んだ。でも鎧糸が藍様にチクったせいで取り上げられてしまった。せっかく買ってきたのに。そのために仕事を早く切り上げようって頑張ってたのに。
 ぼろりと涙がこぼれた。鎧糸がしまったって顔をして、藍様がぎょっとした顔をして、そこで、バシャアンと水の音。
 すぐそこの噴水の水が重力にも浮力にも逆らって鎌首をもたげ、蛇の頭を持ち上げている。水の蛇。
 鎧糸がパッと私の手を離して、藍様がさっと私にチョコを返した。え、と目を丸くして二人を交互に見やる。その二人はといえば、水の蛇に油断なく視線を向けている。
、帰ったんだね」
「、比企」
 水の蛇が比企の声で喋った。駆け寄って「ただいま」と言うと水の蛇が口を開ける。「おかえり」と。
 忘れがちだけど、比企は水を操ることもできるのだった。そうして国の中を覗いて退屈しのぎをすることもあると言ってた気がする。
「それは、おみやげ?」
「うん、そう。この間話したでしょ、チョコレート」
「ふぅん。でもそれ、ホントはいけないことだよね?」
 図星を突かれてうっと口ごもる私に、蛇が笑う。「まぁいいや。おいしいものなんでしょ? 待ってるから、早く帰ってきてね」そう残して水の蛇は空中分解してバシャバシャと噴水の水の中に散って、あるべき姿に戻る。
 さっそく比企のいる場所へ行こうとする私の袖を鎧糸が捕まえた。今度はチョコを離すものかと抱き締める私に呆れた顔だ。「…帰国手続きがまだでしょう」「あっ」そうだった、忘れてた。藍様に出迎えられて慌てちゃってた。
 いそいそ帰国手続きをすませる。帰ってきましたよ、っと。
 藍様がそれを受理し、はぁ、と湿っぽい息を吐く。取り上げられまいとチョコを抱き締める私を一瞥して「今のはヒヤッとしたな…」そうこぼす藍様に首を傾げた。今の。比企の水の蛇のことだろうか。
 首を傾げている私を置いて藍様に同意したのは鎧糸だ。「不覚でした」と頭を垂れる。藍様は師父だから鎧糸も頭を下げるんだな、と思う。私は…仕事柄頭を下げることに慣れてしまったな。師父はいないけど。
「マズいことをしたか」
「ギリギリかと。泣かせた、とは、取られていないと思いますが…」
「あいつがキレるところはもう見たくないぞ…」
 げっそり息を吐いた藍様に首を傾げる私。二人がなんの話をしてるのかさっぱりだ。
 息を吐いた鎧糸が私の背中を押した。「手続きはすんだのですから、もう行きなさい。比企が待っています」「…いいの?」そろりと鎧糸を見上げる。もちろんチョコは離さない。そんな私に鎧糸は呆れた顔で「もともとそのつもりだったのでしょう。見なかったことにしてあげますから、行きなさい」二度目の行きなさいにこくんと頷いて空気の足場を蹴って飛ぶ。

「比企」


 ベッドでねんごろしていた比企が伸ばした腕の中に飛び込む。今度は魚臭いキスだった。比企、何を食べたのか知らないけどもうちょっと歯磨きとか心がけようね。「おかえり」と言われて「ただいま」を返し、袖の中からチョコの包みを取り出す。よかった。比企のもとまで届けられた。
「鬼みたいに甘いのよ。美味しいの」
「うん」
 あー、と口を開ける彼に、包みから取り出した丸くて茶色いお菓子を食べさせてあげる。それで自分も一つだけ食べる。あとは全部比企のものだ。
 どうかな、と反応を見守る私に、口をもごもごさせた比企が笑う。「本当、甘いね」「ね。ウチにはない味でしょ?」「うん。甘い」口内に広がる甘い味。どんなものでも食べる比企と甘味が好きな私は自然と笑顔になっている。
 ふいに伸びた手が私の目元をなぞった。ぱち、と瞬く。
 さっきまで笑顔だったのに、今の比企には表情がない。
「鎧糸と、藍さんが、ひどいことをしたか、言った?」
「え、」
が帰ってきたのは見てた。水鏡で。そうしたら鎧糸が出てきて、藍さんにコレ渡して、、泣いたろう」
 マズいことをしたか。ギリギリかと。泣かせた、とは、取られていないと思いますが…。あいつがキレるところはもう見たくないぞ…。
 今更ながらに藍様と鎧糸の会話の意味を理解して、慌てる。
 比企がキレるっていうことは即ち正気を失うということで、それは地震のときだけで十分だと思ってる私は、彼を保たせるためにあわあわと思考を巡らせる。「ええと、規則を破った私がいけないの。どうしても比企にチョコを持ち帰りたくて、いけないって分かってて外国のもの持ち込んで…ああ、だからね、悪いなら、私にチョコを持ち帰らせることになった比企が悪い、かも…?」我ながらひどいこじつけだった。彼はきょとんとした顔で私を見つめた。「俺が悪いの?」と不思議そうな顔だ。
 でも、ここで私が誰かが悪いと名指ししたら、それこそ比企がキレてしまうと思うので、こじつけでも、ここは比企が悪いってことにしておく。
「チョコがないのもいけないのかも。でも、比企のために頑張ったんだからね? だから比企のせい」
「うーん…そうかぁ。俺のせいかぁ」
 不思議そうに首を捻りながらも反論しない比企が、チョコを口の中に放り込む。もごもご食べながら「じゃあ、いいか。泣かないでねが泣くと俺まで悲しいよ」なんて言う彼に私の頬は自然と緩む。
 私だってあなたが泣いていたら悲しい。青柱殿を出るときいつも思う。空気を震わせる低い唸り声に、泣かないで比企、って。
 もぐもぐチョコを食べた比企が最後の一つを口に入れた。「美味しかった?」「うん。すごく甘い」「…来年もこっそり持ってきてあげるね」こそっと耳打ちするとぱちくり瞬きした彼が笑った。「うん」と。
 私達神にとって寿命という概念はあまりなく、当然、人より長く生きる。
 それでも彼の置かれている状況は特別だ。だからこそ私は希望を描く。彼が生きる苦しい道の先に、少しでもいいことがあるようにと、祈りを込める。その一つがこれ。年に一度のイベント、バレンタイン。
(今度はもっと上手に、もっとたくさん)
 ごろんとベッドに転がって「」と手招きする彼の腕に収まると、途端に眠たくなってきた。寝ずにぶっ続けで仕事をしていたのだから当然といえば当然だ。いつも何か食べ物のにおいのする比企の服に顔を埋めて「ねむたい」とこぼす声がすでに寝そうになっている。
 くすくすと頭上で笑う声がする。なんだか楽しそうな笑い声だ。それから、頭を撫でる掌のかたち。「眠っていいよ。目が覚めるまで、俺がこうしててあげる」…そんな甘い言葉に思わず笑って、大人しく目を閉じる。
 今日は、もう疲れたから。また明日、たくさん話をして、一緒に、笑って、過ごそうね。