ばさぁ、と音を立てて彼女が机に積んである書類を撒き散らしたのは、突然のことだった。
 それまで事務的にいつものように仕事をしていた僕と彼女。けれどふとソファから立ち上がった彼女がつかつかとこちらに歩み寄ってきたので、書類から顔を上げてどうかしましたかと、そう声をかけようと思っていた。思っていたらこれだ。思わず驚いてしまうのも当たり前のこと。
?」
「休憩ですイオン様。今日こそはお昼ご一緒していただきます」
「いえ、ですが、まだ仕事が…」
「問答無用!」
 がしと僕の腕を掴んだ彼女がずるずると僕を引きずって机から引き離した。仕事がと口にしたものの、部屋をひらひらを舞う書類を今から集めてもう一度、なんて気は起きず。随分と無理矢理だなと思いながら、僕はこっそり苦笑する。
「分かりました。今日はきちんと食べます」
 だから観念してそう言えば、僕を掴んでいた腕の力が緩む。「いつもそうしてくれればいいんです」とぶつぶつ愚痴のようなものまで聞こえるから、僕はやっぱり苦笑いしてしまう。
 そんなにここ最近食べていなかったろうかとふと考えを巡らせる。そうするとすぐ可能性に行き当たった。もうすぐ親書がこの手に届くのだ。そうすれば僕はここを出て行かなくてはならない。それまでに終わらせないとならないことが山とあったのだ。
 確かにそのせいでここ最近体調面よりも仕事を優先させすぎて、彼女に色々と言われていた気がする。
「無理はしないでくださいよ。私心配してるんですからね」
「…はい」
 かつ、と譜陣に足を踏み入れる。白い光に塗り潰される前に見た彼女の顔は言葉通り僕を気遣うものだった。それに感謝しながら目を閉じる。ぐん、と身体が下に引っぱられる感覚。
 踵が床に触れる感触と瞼の裏まで焼く白い光が消えて、目を開ける。「お疲れ様です導師」と控える兵に敬礼されて緩く笑みを返す。
 彼女が僕を引っぱって歩き出した。「スタミナあるものにしましょう、焼肉定食とか」と言うので「いえ、それはさすがに」と苦笑いしながら言葉を返した。振り返った彼女は本気らしく、「最近ろくに食べてないって知ってるんですからね」と言われる。僕はそんな彼女に薄く笑んで返すことしかできなかった。それは本当だったから。
 僕は同時にたくさんのことをこなせるほど器用ではなかった。優先すべきことが決まればそれを率先して片付けてしまう。そうするとそれ以外にあまり目がいかなくなり、結果的にそれ以外が疎かになるのだ。
 僕は全てのことを同時進行でこなせるほど器用ではなかった。
 だからまだ彼女に言い出せずにいることがたくさんある。それこそ山のように。
(あなたは導師派だから僕のそばに。導師守護役に。でも)
 僕の手を引っぱって歩く彼女を見つめて考える。僕のことをレプリカだと知る数少ない人物の一人である彼女を。
(でも、あなたは僕とシンクを比べられたら、どちらを取るのだろう)
「さぁどうぞイオン様! じゃんじゃん食べてください!」
 どん、と彼女がテーブルに置いたのはさっき言った通りの焼肉定食。彼女自身は何を食べるのかと思えばうどんだった。シンプルすぎて思わず「それでいいんですか?」と首を傾げる。うどんだなんて。彼女はいつも結構くどいものを好んで食べているのに。甘いものに限らず辛いものも彼女の好みだ。
 いただきますと手を合わせながら「そこは訊いちゃいけませんイオン様」とどんよりした顔をされ、さらに首を傾げてしまう。なぜ彼女の気分が降下したのか分からなかったからだ。
 いつもなら、僕が仕事に埋もれ昼食を取るのを忘れがちになる前、一緒に食堂でお昼を食べていたとき。あのときはもっとこう、色々たくさん手にしていたと思うのだけど。
「甘いものはいいんですか? いつもデザートは必須だったと思うんですが」
「…………増えたんです」
 ぼそりと返され、僕もいただきますをして焼肉定食なんて久しぶりすぎるものを口にしながら一つ瞬き。増えた。何が?
「あの、何がでしょう」
「……イオン様。女の子が増えたと表現するものなんてたった一つですよ」
「…ええと」
 どんよりした空気に何も言えずにいると、ずるずるとうどんをすすりながら彼女が「たいひゅうれふ」と言うから。
(…たいひゅう、じゃなくて、体重?)
 むぐむぐとうどんを租借して飲み込んだ彼女。どんよりした顔のまま「最近確かに書類仕事ばーっかで動いてなかったし、ちょっと控えないとなーとか思いながら油断していつものように食べてたらこれです」そう漏らしてはぁと陰鬱そうな溜息を吐いた。「あああ女としてこれはまずいんですよぉ」と頭を抱えてうどんを睨みつける彼女。その目はいたって本気。
 僕は何度か瞬きした。それから彼女の姿を思い浮かべたけれど、増えたと表現されるほどに見た目が変わったわけでもなく。だから僕は首を傾げて「僕にはいつもと同じようにしか見えませんが」と言う。というか、それくらいしか言うことが思いつかなかった。彼女が真剣な目を僕に向けて「甘いですイオン様、女の子は見た目だけじゃなく数字も気にするんです。五百グラム単位の体重計にいつもどれだけ緊張しながら足を乗せるか!」と言われて、体重計を目の前にして緊張した面持ちでいる彼女というものを想像した。想像したけれど、ピンとこない。
 冷めないうちに食べなくてはと油っぽい焼肉を口にしながら「そうなんですか」と、僕はそれくらいしか言えなくて。
 彼女がはぁと溜息を吐きながら「本当なら鍛錬なりなんなりしたいところなんですけど。運動したいんですけど。でも仕事はなんか山積みなんでできないし」と漏らされて「すみません」と謝った。彼女がちらりと僕を見て、ずるずるとうどんをすする。

「何かありますね?」
「、何がです?」
「このあと。まだまだ期限のある書類を片付けているのには理由があるんじゃないですか?」

 ごくごくとうどんの器を持ち上げて中身を飲み干した彼女。僕はといえば手が止まってしまっていた。久しぶりに昼食なんてものを取ったから胃が稼働していないのかも。さっきから仕事のことばかりが頭を占めていて、彼女の言葉にすぐに何も返せなかった。
 何か理由があるんじゃないのかと言われれば、その通りだ。近く僕はこのダアトを離れなくてはならない。そのときまでに必要最低限な書類だけは片付けておかなくてはと思って、だからまだまだ先でもいい決議案を出したり判子を押したりと仕事ばかりを。
「……理由は、確かに。あります」
 空になった器をよけて、彼女がテーブルに頬杖をつく。「イオン様、とりあえず食べちゃってください」と言われて止まっていた箸をまた動かし始めた。焼肉定食、なんて、どれだけ久しぶりに食べたことだろう。
 いつもの顔に戻った彼女が「私は導師守護役です。そしてイオン様、あなたのことを知る数少ない人物でもあります」「…はい」「隠し事なんて通せると思わないでくださいね」そう言われて、思わず苦笑いする。確かにそれはその通り。彼女は僕の体調面を気遣うだけでなく、アニスとは違いレプリカ方面での繋がりがある。切り離せる、わけもない。
(ならば話をしないとならないだろうか。このあと…世界大戦のことも含め、全て)
 頬杖をついている彼女に口を開こうとして。だけどその前に彼女がびしと食べかけの定食を指して「まずはそれです。食べちゃってください」と問答無用の声で言われて、一つ瞬きしてから苦笑いした。

 ああ全く、彼女には敵わない。

隠し事なんて無駄!