気がついたときから導師守護役であったわたしに優しくしてくれたのはイオンさまだった。
 導師守護役、その役目の通りおそばにいて仕えて仕事をするわたしに、イオンさまはよくこう言った。すみませんと。
 何がすみませんなのかよくわからなかった。だからわたしはその言葉にいつもいいえと返していた。本当に何がすみませんなのかわからなかったからだ。なぜイオンさまが謝るのかがわからなかった。
 イオンさまという人は朗らかで、教団内の預言保守派と改革派との派閥争いにも始終かなしそうな顔をしていた。イオンさまのおそばにいて彼を護る役目だったわたしはそんな彼をよく知っていた。
 導師様。導師様。月に一度のミサで、とにかく預言をと殺到する人々にイオンさまは微笑みを返していた。だけどどことなくやっぱりかなしそうだと思った。おそばにいて彼を護る役目だったわたしはよくそんなことを思った。

 そういえばおかしな話だけれど、気がついたときから導師守護役であったわたしにそれ以前の記憶はない。わたしの記憶はイオンさまのおそばから始まる。そのときの彼の顔をまだ憶えている。
 とてもとても、かなしそうだったことを。まだ憶えている。
 そうして目が覚めましたかという言葉と、今日からあなたは僕の導師守護役ですという言葉を。まだぼんやりと憶えている。
「アニスと喧嘩? どうしたんです
「…アニスが悪いの。アニス絶対何か秘密がある。たまのこしってうるさいのにも絶対理由があると思う」
 わたしがぶっすり拗ねて食堂でいじけていたら、仕事放棄してるわたしをさがしにイオンさまがきてくれた。ついでに食堂でお昼ご飯にした。少し遅いお昼ご飯。いつもはこみあってる食堂が、導師様がおいでだというひそひそな声と一緒に静かになる。周りに人もいなくなる。わたしはそれに慣れているから今日のランチセットをつつきながら「アニスが悪い」と言い張る。そんなわたしにイオンさまはただやんわり微笑んだ。
、理由はともかくとして、喧嘩はよくないですよ。同じ導師守護役なのですから仲良くしましょう」
「……仲良く…」
 ハンバーグをぱくと口にする。いつもの味。変わらない味。眉根を寄せながら「秘密があるってわかってる相手に、仲良く?」とぼやいた。イオンさまは眉尻を下げて困った顔をする。「」とわたしを呼ぶ。そんな彼の前にはお盆とお茶とお茶菓子。今日はお昼食べたのだろうか。わたしはまだだったけど、イオンさまはどうだったかな。今日の食事当番はわたしじゃないからわからない。
「イオンさま、お昼ちゃんと食べた?」
「食べましたよ」
「何を?」
と同じものを」
「…導師さまなのに?」
 今日のランチを睨みつけてぼやいたらイオンさまがやわらかく笑った。「同じですから」と言う彼にわたしは首を捻って「何が?」と返す。彼はそこで黙してお茶を手に取った。何が同じなのか、よくわからない。
は」
「?」
「あなたの記憶は、どこからですか?」
「…わたしの記憶?」
 記憶。たどっていけば始まるのは薄目を開けて見えた天井とわたしを覗き込んだイオンさまの顔。伸びてきた手がわたしの額にひやりと当たったその感触と言葉。まだ憶えている。その前は全くない。
 だから「イオンさまに導師守護役だって言われた、あのときから」と返せば彼はやっぱりという顔をした。だからわたしは首を捻る。それが何か問題あるのだろうか。
 かたんと彼がお茶のカップを置いた。「」という声に「はい」と返事する。いつもならがやがやうるさい食堂なのに今はしんとしている。イオンさまの声がよく聞こえる。とてもよく。
 だけど結局彼は何も言わずにただ微笑んだだけだった。だからわたしは眉根を寄せながら今日のランチを片付けることにした。このあとは仕事が待っている。きちんと片付けないとまた上から何をどやされるやら。
 そのあとはきちんと仕事をした。つまり判子押しとか書類をまとめるのとかそんな感じのことを。
 いたっていつも通りだった。アニスが入ってきたときは無言の火花がばちばちと散ったけどイオンさまに視線で止められた。だからぷいとそっぽを向いて気にしないようにした。隠し事をしてる子と一緒に仕事なんてと思った。アニスが隠し事をしてるのは確かなのだ。大詠師モースとこそこそ会ってるのも知ってる。アニスはイオンさまにとって、純粋な導師守護役じゃない。
 だけど気にしたって仕方ない。アニスが隠し続けるのならわたしはそれに対して怒り続けるだけだ。イオンさまがそれをよくないって言っても同じ。隠し事をしてる方が悪いんだ。
 だってわたしに隠し事なんて一つもない。

「…
「?」
「聞かなければよかったと思うかもしれないことを、言ってもいいですか?」

 だからわたしは顔を上げた。すっかり陽が暮れて今日も残業の書類仕事。まぁ半分はサボったせいもあるのだけど。それですっかり慣れているそれをこなしていたときにそう言われて、それで顔を上げた先でイオンさまはいつもよりかなしそうな顔をしていた。どうしてそんな顔をしているのかわからなくて首を傾げる。「イオンさま?」と呼べば彼が微かに微笑む。だけどペンを持つ手は少し震えていた。
「僕はレプリカです」
「? れぷりか…?」
「はい。そしてあなたもレプリカなのです。
「…わたしも?」
 レプリカ。初めて聞く言葉に首を傾げる。彼が席を立った。白い手が羽ペンを置いていつかのようにひんやりとわたしの額に当てられる。「僕の導師守護役、あなたはそうやって生まれた」「…、」「僕は導師の代わりとして生まれた。すみません」わたしが何か言う前に彼がわたしを抱きしめた。おかげでぽろとペンが手から落ちた。緑の法衣が暗い視界に広がって「もう僕の胸のうちにだけ留めておくことができませんでした。、僕らは同じレプリカなのです」「…れぷりか」オウム返しに呟きながら、わたしはイオンさまの濡れた声を初めて聞いた。だからわかった。そのレプリカが何か分からずとも、それが彼の顔をかなしくさせるものなのだろうと。だから彼は泣いているのだろうと。
 わたしにはレプリカがよく分からない。イオンさまから詳しく聞かなくては。
 だけど少なくともこれだけは言える。
 わたしはイオンさまの導師守護役で、そしてイオンさまと同じレプリカというもの。イオンさまがかなしいと思っているそのレプリカが何なのかわたしにはまだよくわからないけど、わたしはイオンさまを護るのだ。色々なものから。わたしは確かに気付いたら導師守護役だったけれど、それを特別後悔したことはない。それをかなしいと思ったこともない。
 だからわたしはイオンさまの背中を抱き返して言う。「イオンさま大丈夫。わたしがいるから大丈夫」と。イオンさまの背中は震えていた。私は彼の背中を撫でながら言う。「イオンさま大丈夫。わたしがいるから大丈夫」と何度でも。

されどその理不尽さは
どこまでも公平で