ぱちっと目を開けて、陽が射し始めたばかりの窓から弱い光を受けながらベッドの中で寝返りを打つ。
 朝だ。起きなくちゃ。
 寒い、と腕をさすりながらもベッドを出て洗面所へ行って洗顔等をすませ、寝癖のついてる髪を適当に結んで誤魔化した。左右対称に結べば変なところを結んでいてもなんとなく自然に見える。うん、なんとなく。今日はこれでいこう。
 部屋に戻って導師守護役の制服に着替え、どこもおかしなところはないのを確認してから食堂へ飛んでいく。
 今日の朝ご飯はサンドイッチとオニオンスープのセットを選んだ。手早く食べてお腹に入れて、部屋に取って返して歯磨きをすませ、鏡でもう一度自分が変でないことを確認してから宿舎を飛び出す。
 陽が昇っていて、空気はまだ寒いけれど、陽射しに弱いぬくもりがある。
 今日も預言どおりの晴れた空。風もなし。きっと午後は陽射しを浴びればあたたかい冬の一日になるだろう。
 宿舎から伸びる歩道の道を走り、門を右に曲がって煉瓦の道に出る。さらにまっすぐ一分、息を切らせながら階段を上っていくと、関係者用の両開きの扉が見えてくる。神託の盾の兵が見張り番として立っているあの扉を抜ければもう教会だ。
「おはようございます!」
 息を切らせながら挨拶すると、軽い敬礼をした兵の人が「おはよう。今日も早いなぁ」と呆れ声で扉を開けてくれた。「元気が取り柄ですのでっ」と返してニコッとスマイルを残して扉の中へと滑り込む。
 最初は挨拶されても返事のなかったあの人も、最近は挨拶に挨拶を返してくれるようになった。
 よしよし。新入りながらも、私はそれなりに順調にこの場所に慣れ始めているに違いない。
 思わず音符マークを浮かべてご機嫌だよ状態になりかけ、おっと、と一つ咳払いして自分を自制。
 ここはもう教会内だ。ローレライ教団総本山のここで導師守護役が浮かれた顔をしているわけにはいかない。一端ながらも一応導師守護役なのだから。先輩方にこき使われてばかりだけれど、導師イオン様をお護りするため、頑張らないと。
 よし、と一度拳を握って自分に気合いを入れた。深く呼吸して息を整えつつ、もうちょっと明るくすればいいのに、と思う教会の廊下の中を歩いていく。等間隔の柱に模様。慣れていない人では道を迷う暗い廊下を歩いて、向かいからやってきたローレライ教団員の人にニコッとスマイルを向けて「おはようございます」と挨拶すると、軽く会釈された。
 …ここって、あまり元気な人はいないなぁ。ローレライ教総本山だけあって、厳粛、という空気の方が合っているのかも。
 それでも私はめげずに、顔を合わせる人全員に挨拶しながら、教会の礼拝堂へと足を早める。
 私が勤務時間より早くここへ来るのは訳がある。
 たまたま早起きして、仕方がないから早めに教会に来て、せっかくだからと大きなステンドグラスのある礼拝堂でお祈りをしようという気紛れを起こしたその日。私はそこで導師様に会ったのだ。そしてお話をした。導師様は私と同じくらいの歳の物腰柔らかなお方で、噂のとおりに優しい人だった。
 導師守護役は導師様を護り補佐するもの。一口にそう言っても、三十人もいる導師守護役で一番新入りなのが私で、任に就いて日が浅い。主な仕事と言えば先輩にこき使われることくらいで、導師様と直接話すことなど許されない導師守護役見習いの立場だった。
 導師様はそんな私の愚痴にも付き合ってくれた。親身になって私の心配をして、何度も頷いて話を聞いてくれた。

 それならこうしましょう。朝早い時間になってしまいますが、普段会話ができない分、ここで僕とお話しましょう?
 僕が直接彼女達にそういったお話しをすると、恐らく機嫌を損ねるだけで、への当たりが弱くなるということはありません
 時間が解決してくれる…というのは無責任な発言かもしれませんが。新人を厳しく扱うのはどこも同じでしょうから、少しの間、耐えてください
 ならきっと大丈夫です。僕はそう思います

 そう、導師様はそんな優しい言葉をかけてくれたのだ。
 さすが導師様、なんて優しいお方なんだろう。私みたいな新入り導師守護役のために早起きして時間を作ってくれるなんて。
 私は感激しながら導師様と話をした。小声でひそひそと、礼拝堂の教壇に隠れて、ユリア様を象ったステンドグラスからの光を受けながら、色んな話をした。
 導師様は優しい。先輩は厳しいけど、きっと大丈夫。導師様の言うように時間が解決してくれるだろう。私が仕事を憶えて一人でできるようになったらいびられることもなくなるはずだ。
「導師様」
 そっと礼拝堂内に滑り込んで、ガランとしている広い空間に声を投げる。きっともう来ているだろうと思ったのだ。けど、いつも教壇の陰から立ち上がって私に向かって微笑んでくれる導師様が今日はいなかった。
 あれ、と首を傾げつつも「導師様?」と声をかけながらきょろきょろ辺りを見回し、歩いていくと、視界の端に柱に背中を預けた誰かがいるのが見えて大げさに驚いて振り返ってしまった。顔の辺りに何か、仮面のようなものをつけている。鳥のくちばしみたいな変な形だ。
「アンタか。最近導師と逢い引きしてるって奴」
 気のせいか、その誰かの声は導師様とよく似ていた。
 ごくんと唾を飲み込んで「…なんのことでしょうか」と慎重に言葉を返す。「私は礼拝堂にお祈りをしにきただけです」と続けると、相手は肩を竦めて柱から背中を離した。「まぁそういうことにしておいてあげるよ」と礼拝堂の扉に向かって歩き始める背中を油断なく観察する。制服に特徴があることを見ても彼はきっと私より上の位の人だ。あの仮面も特徴がある。調べれば誰かくらいすぐ分かるだろう。このこと、導師様に報告しないと。
 扉の前でピタリと歩みを止めた彼がこっちを振り返るから、どきっとして慌てて顔を逸らした。
「…今ならまだ間に合う。ダアトから離れて、アイツの目の届かないところへ逃げろ」
「え?」
「忠告はした」
 かつ、と靴音を響かせて礼拝堂を出ていく背中をぽかんと見送って、アイツ、と称されたのが導師様のことを言っていると遅れて気がついた。
 ……今の、どういう意味なんだろう。
 首を傾げた私は、お祈りをしにきたと言った手前何もしないのも、と思って、床に跪いてステンドグラスに頭を垂れ、目を閉じる。
(逃げろ? 導師様から? あんなに優しくて私のことを案じてくれるあの人から、逃げる? 意味が分からない。一体何なんだろう、さっきの人は)
 結局その日は導師様に会えず、次の日になってそのことを話すと、彼は少し考えるように床を見つめた。朝のシンとした寒さが身に沁みて、制服の腕をさする。寒い。
 昨日導師様が礼拝堂に来なかったのは、体調が悪かったせいらしい。あまり身体が強くないという話は私も聞いている。申し訳なさそうに頭を下げてきた導師様にいいんですいいんですと手を振って、そして今。導師様はいつになく神妙な顔つきだ。思わず私も緊張してしまう。
「…鳥のくちばしのような仮面をしていたんですね」
「あ、はい」
「彼はシンクと言って、神託の盾六神将の一人です」
 導師様の言葉に私はぴょんと跳ね上がってしまった。「えっ、神託の盾幹部の…人ですか」驚きで上ずった声を抑えつつ後半は声を潜めた。導師様は神妙な顔で浅く頷いて、「彼は、なんというか、人にいじわるでして。にもいじわるなことを言っただけだとは思いますが」とこぼして私を見つめた。翡翠の瞳にじっと見つめられて、心臓が意味もなく騒ぎ始める。
「だっ、大丈夫です。私、気にしてません。先輩達の小言を毎日聞いてるんですから、そんないじわるだいじょーぶです!」
 どん、と自分の胸を叩いて笑うと、導師様がほっとしたように瞳を緩めた。薄く唇を開いて「リップ、変えたんですか?」と言われて、え、と目を丸くする私。話の流れが変わったことにも驚いたけど、リップを変えたことに気付いた導師様の鋭い観察眼にも驚いた。
「あの、目立ちますか?」
「いいえ。少し香りがするなと思って」
 …当たりである。ちょっとだけ、ちょっとだけフローラルな香りのするリップ。その少しだけ背伸びしたところに惹かれて購入してしまったものだ。昨日仕事を終えてから噴水広場の前の雑貨屋さんで買ってきて、今日試してみた。香水なんて上品なものは私にはまだ早いだろうからと微香料の印のついたリップを買ってみたのだけど…。
 気になるものなのかな、と自分の唇を意識する。自分じゃもう分からないというか、気にならないと思ったんだけど。あまり香るようなら先輩達に何か言われそうだし、使用を控えないとならない。
 …でも。せっかく買ったのになぁ。
 そんな私の憂いを読み取ったタイミングで導師様が優しい笑みを浮かべて「大丈夫ですよ」と言う。「そう、ですか?」でも導師様は気付いたのだし、と思うんだけど、彼の笑顔を見ているうちにきっと大丈夫だと思えてきて、その日の朝の時間を終えた。
 結果的に、先輩達が私がリップを変えたことに気付くことはなかった。自分達のおしゃれの話や流行りになるだろうファッションの話に花咲かせていて、私の小さな変化になど気付かない様子だ。
「ねぇそういえばミーアは?」
「あたしも聞いただけの話だけど、急病らしいわ。昨日からだっけ」
「えー? 一昨日までピンピンしてなかったっけ? 仮病じゃないの?」
 そんな会話を聞きつつ導師守護役の控え室の掃除をせっせとする私。今日もこき使われてます。
 急病といえば、私が導師守護役に配属されることになったのも、急な怪我で現場復帰が難しくなった人の代わりだとか。
 …正直なところ、ミーア先輩は私に一番当たりのキツい人だったので、休んでくれていた方が穏やかに過ごせるというものだ。っていうのは現金すぎるかなぁ。
 今日は変な方向に前髪が跳ねてしまった。頑張って水で撫でつけてみたけど結局直らなくて、目立たない茶色のピンで前髪を左側に寄せてまとめた。変かもしれないけど仕方がない、今日はこれでいこう。
 いつものように宿舎を出て煉瓦の歩道を走り、階段を駆け上がり、いつもの見張り番の人に挨拶したら戸惑われた。鎧に兜という格好だからぱっと見て違う人だと気付かなかったのだ。
 あれ、と思う。昨日までいつもの人と朝の挨拶を交わして、帰りはさようならを言っていたのに。
「あの、交代されたんですか?」
「ああ、いや。前の奴はちょっと怪我を負ってな…今日から私がここに立つことになったんだ」
 え、と目を丸くする私。見張り番だけに賊と相対して名誉の負傷を負ったということだろうか。
 神託の盾って大変だな…と名前も知らない人に心の中だけで同情し、教会内に入ったら自然と足早になる自分を落ち着けつつ礼拝堂に向かう。
「導師様」
 カコン、と静かに扉を閉めてから声をかけると、教壇の向こうで静かに人影が立ち上がった。いつもの微笑を浮かべた導師様がステンドグラスから落ちる光を帯びて淡く輝いて見える。
 いつものその笑顔にほっとしつつ、小さな変化は仕方がないことだとして、私は導師様に向かって一歩踏み出した。