イオンという人がいた。その人はかの有名なローレライ教団の最高指導者である導師だった。
 だけど見た目はのほほんとしたまるで女の子みたいに華奢な体つきの私より年下の男の子で、とても教団で一番のお偉いさんだとは思えなかった。
 事実、彼は身体が弱かった。とてもじゃないけど最高指導者という力強い印象はなかった。とても弱々しい、守らなければと思わせるような人だった。
 人より一倍弱い身体を持っているくせに、人一倍、彼は優しい心を持っていた。

「イオン」
 夜。宿屋で一人ゆりかご椅子に座って目を閉じている彼に近付いて声をかけた。彼は私だと分かっていたかのように薄く微笑みを浮かべて目を開け、「はい」と返事をする。少し疲れたような、そんな顔をしている。
 どうせまた体調がよくないのだ。顔を見れば一目で分かる。目元が眩しそうに細められているのは無理矢理押し開けようとしているからだし、その睫毛が震えているのは目を開けているのが辛いからだ。その手は力なく法衣の上で組まれていて動かない。
 大丈夫です、と口癖のように答える彼の視界を、私は掌で蓋をして塞ぐ。
?」
 私を探すように伸ばされる手。それをもう片方の手で捕らえて、その細く白い手を握る。彼が私の手を握り返す。私と同じか、下手をしたら私より小さいかもしれないその手。
 力の入っていない手。私と彼以外に誰もいない部屋。私は椅子の背中側に回って、彼を後ろから抱き締めるようにして腕を回す。
「苦しいんでしょ」
「いいえ」
「辛いんでしょ」
「いいえ」
「悲しいんでしょ」
「いいえ」
「淋しいんでしょ」
「…いいえ」
 どの言葉にも、彼は否定の言葉しか口にしなかった。私はイオンの耳元に唇を寄せて「嘘つき」と囁く。彼が薄く笑う。導師の笑みではなく、イオンという個人の笑みを浮かべる。
「嘘ではありませんよ」
「じゃあ何?」
「意地です」
 そう言って、彼は悪戯する子供のように笑った。その笑いには無邪気さが見えた。純粋さでもあった。それが危ういものであると分かっている私は、ただ彼の頬に唇を寄せて一瞬だけ口付けて、それから何もなかったみたいに彼の視界をクリアにしてするりと側から離れた。けれど予想外に彼の腕が伸びて私の手首を掴む。思っていたよりも強い力で、不意打ち攻撃に背中から倒れ込むように彼の座るゆりかご椅子に倒れた。ぎぃと軋んだ悲鳴。
 彼が上から私を覗き込むようにしてこっちを見ている。揺れている翡翠の双眸。きれいな目だ、と私は思う。
「知っていましたか」
「何を?」
「僕はあなたが好きです」
 私は一瞬だけ目を見開く。そうしてその一瞬の間に彼が私に口付けてくる。唇に温かいものが触れる。目の前には彼の翡翠の髪が広がっている。

 ああ嘘かもしれない、と直感的に私は思う。
 誤魔化すために口付けている、とは言わない。私を誤魔化すために好きですと言ったのだとは思わない。
 だけどこれは彼の嘘だ。優しい嘘だ。そうすればどんなにひどいことを言ってもひどいことをしても、最終的に許されると、彼は思っている。
 これは、彼の優しさだ。とても卑怯な優しさ。

「……私は」
 ぐいと華奢な肩を押して唇を離す。彼がぱちと瞬きして私を見る。見下ろす。
「その優しさ、嫌いよ」
 彼が何度か瞬きして、緩く微笑む。やはりあなたを騙すのは無理でしたか、と言っているように感じる。
 私は彼の膝からぽんと立ち上がって床に立ち、かつかつと歩いて行ってドアノブに手をかけて勢いよく開けると彼の方を振り返りもせずに後ろ手にばんと扉を閉めた。
 それからずっとその扉に背中を預けて気配を殺していれば、けほ、と扉の向こうから彼の咳き込んだ音が聞こえる。
(…馬鹿みたい)
 ぎりと唇を噛んで、私は歩き出した。胃がむかむかしていた。それは彼に対してではない。ただ自分の、彼を拒絶しきれず受け止めきれずの中途半端な覚悟に対してだった。