ある日のあるとき、アニスに恒例のように「イオン様大丈夫ですか?」と訊かれた。それはだんだんと僕の歩くスピードが落ちているせいにあった。皆の視線も気のせいではなく僕へと向けられていて、その歩みはさっきから少しずつ遅くなってきている。 僕はゆっくりと呼吸をしながら導師固定の笑みを浮かべて「大丈夫です」と言った。それが分かっているかのようにアニスが視線を逸らす。何か言いたげで、でも結局何も言わない伏せられたその両目に、僕はただ微笑む。 それから今度はアニス以外の皆に向けて大丈夫ですと言おうと口を開いたときだ。ぱん、と小気味いい音と共に頬が張り飛ばされた。瞬間的な痛みと衝撃に目を細めたのは束の間。僕の意識は、僕を張り飛ばした彼女へと向けられていた。 「ちょっとっ、イオン様になんてことすんのよ!」 アニスが声を張り上げて彼女に掴みかかるも、彼女の視線はアニスへと向けられることはなく、ただ一点、僕の方だけを見つめていた。そしてその唇が紡いだ言葉はただ一つ、 「嘘つき」 「…」 「いい加減にしてよ。もううんざり」 そう言った彼女が乱暴にアニスの手を振り払い、一人でざくざく歩いていって茂みの方へと消えていった。アニスが憤慨極まるとばかりに消えた彼女に向かって「待てこのやろー! イオン様に謝れーっ」と声を張り上げる。 僕はそんなアニスの肩に手を置いて緩く首を振った。「いいんですアニス」と彼女を宥めて、僕はが消えていった茂みの方へと目を向ける。 「…すみません皆さん。休憩にしてもらってもいいでしょうか」 搾り出した声は震えていた。アニスがこちらを振り返り「イオン様?」と困惑の声を上げる。 僕はただ無言で歩みを再開し、彼女の後を追って茂みへと分け入った。 「」 ほどなくして彼女の背中が見えて、僕は彼女を呼んだ。だけど彼女は振り返らなかった。だから僕もそれ以上何も言えず、ただ黙って彼女の背中についていった。 だけど足が重くなってきて、視界が暗くなってきて、ついにざしゃと膝をついてしまった。その音で彼女が振り返って僕を見て、溜息を吐いて、それから仕方なさそうに歩み寄ってくる。 「ほら。そんなに辛いくせに」 「…すみません」 確かにその通りだった。だから僕は微笑むしかなかった。彼女が咳き込む僕の背中をさすって、「言いなさいよ。じゃなきゃ分からないことってあるのよ」と言う。それは、確かに、その通りだ。 僕は溜息を吐いた。言わなくては、口にしなくてはいけないことというのは確かにたくさんあって、そうしてでしか人は自分の思いを伝えられず。ただだからこそ、そう、言わなければ、思いは伝わらない。たとえ行動で示したとしても。 あの、キスを。君はどう思っているだろうか。 「」 「何よ」 「僕は、」 そこで言葉が途切れる。果たしてレプリカ風情の自分がこんなことを言ってもいいものかどうかと思い悩む。 彼女が黙ってしまった僕にちらりと視線を向けた。それから息を吐いて、僕の背中をさする手を止める。 「僕は、嬉しかったんです」 そうしてこぼれた言葉はそれだった。彼女が訝しげな顔をする。僕は彼女を見た。膝をついて僕を支えるように背中に手を添えてくれている彼女を。その髪に手を伸ばして、自分の纏わなければいけない導師という仮面がごとんと音を立てて落ちた音を聞く。 「あなただけは、騙されてくれないから」 そう言ったら彼女は目を瞬かせた。それからそっぽを向いて「当たり前よ。馬鹿じゃないの」と言って僕の頭をぺしと叩いた。僕は笑う。君だけだ。そんなふうに僕のことを扱うのは。 そして僕は、それが何より嬉しい。 こんなふうに誰かと過ごせたならそれはまるで夢のようで、僕は、レプリカという立場から夢を見るように抜け出して。今この瞬間、彼女に触れている時間だけは、僕が僕であるように思える。 ふうと息を吐いて、僕は目を閉じた。「イオン」と気遣うような声。 本当はそれは僕の名前じゃない。僕には自分の名前さえないけれど、それでも、僕という個が存在していて、そして存在していることを束の間許してくれる時間があるのなら。それなら僕は、彼女と、一緒に。 「」 「何?」 「嘘をつく僕は、嫌いですか」 「……別に。でも」 言葉を切った彼女。瞼を押し上げる。彼女は地面を睨みつけるようにしながら「でも、私に嘘はよしてよ。どうせ分かるんだから」とだけ言った。僕は笑う。 それがどれだけのことかということを彼女は分かっていないけれど、言葉にしなくても僕の嘘が彼女に伝わるのなら、それは素晴らしいことなんじゃないかと思った。 |