もうじき僕は駄目になる

「イオン! ナタリア!」
 ばん、と勢いよく開いた扉と一緒に飛び込んできたその声に、一瞬自分は幻聴を聞いているのではないかと思った。
 軟禁され続けてしばし時間の感覚を忘れてしまっている節があって、そのせいかもしれないとも考える。だけどそれも声のした扉の方を振り返るまでのこと。そこには思っていた人物が仲間を引き連れて立っていた。待ち焦がれていた人が蒼の双眸でこっちを見ている。優しい色。
 思わずかけていたベッドから腰を浮かして「ルーク…?」と彼を呼んだ。長かった焔の髪をばっさりと切ってしまったらしい彼はこざっぱりとした印象を受ける。まるで人が変わってしまったかのようだ、と思った。
「二人とも無事か?」
 室内に踏み入ってきた彼がナタリアを見ながら声をかけた。それからこっちに視線をスライドさせた彼と目が合う。思わず足を踏み出して彼のそばへ歩いて行けば、「大丈夫かイオン」と優しい声が降ってきた。それはアクゼリュスが崩壊する以前、僕と二人きりでいたときだけにかけてくれた彼の声だった。懐かしいと思った。あれからそんなに時間はたっていないはずだというのに。
 ルークがナタリアの「ルーク、ですわよね?」という問いかけに、彼は短く切ってからまだ日のたっていないらしい髪を慣れない手つきで触って少し固い笑みを浮かべた。「アッシュじゃなくて悪かったな」と皮肉にも聞こえる言葉を返す彼に、けれど以前のような邪険さは見られない。素直にそう思ってそう口にした、という印象。
 ナタリアが少し頬を赤らめて「だ、誰もそんなこと言ってませんわ!」と言い返した。それは微笑ましい光景だったのかもしれない。事実、ルークは笑っていた。まだ少し固い笑顔だったけれど、それでも笑っていた。
 僕だけに笑いかけてくれていた以前のルークはここにいない。そのことに自分でも驚くほど愕然とした。
(ルーク…?)
 穴が開くほど見つけていたら、また彼と目が合った。彼がこちらに笑いかける。だけどそれはさっきナタリアに向けたものと変わらない笑みだった。同価値のものだった。それはつまり僕が彼の中でもう特別ではないのかもしれないと思わせるのに充分な打撃があった。
 こっちに駆け寄ってきたアニスが僕の周りをぐるぐる回って怪我がないかどうかを確かめている。その間にも彼女から言葉がかけられて、「イオン様大丈夫ですか? お怪我は?」と見れば分かるだろうことを訊かれた。緩く首を振って答える。
「平気です…」
 だけどそこから先の言葉が発せられることはなかった。本当ならここまで潜入し助けにきてくれたのだろう仲間達に言うべき感謝の言葉があったのに。それにも関わらず僕の口は閉ざされたまま、ただこの両目はルークを捉え続けた。
 手を伸ばせば届く距離にいる彼がひどく遠い人に思えた。仲間と今後の打ち合わせをしているらしい彼はやっぱり今までとは違う。それはきっと彼が良い方向に変わったということなのだ。だから今この状況を僕は歓迎すべきなのだろうと思う。アクゼリュスのあの一件から彼が立ち直りここまで来てくれた。そのことは嬉しい。だけど。
(どうして……)
 それでも問いかけられずにはいられなかった。
 一緒に過ごしたいつかのあの日々が遠く感じた。
 彼は僕だけに向けていたあの微笑みを、あのきれいな微笑みを、他の誰にでも向けるようになっていた。それはつまり彼が素直になって他の人々にも分け隔てなく接せれていることの証だ。歓迎すべきことだ。だけど僕にはそうは思えない。どうしても。
(僕だけに笑いかけてくれていたのに。あの笑顔は僕だけのものだったのに)
 どす黒いと表現できる感情が胸に渦巻くのを感じる。アニスの「ほら、早くここから出ないとまた見つかっちゃいますよ」という声がすぐそばからしたのに遠く感じた。僕の視線の先にはルーク。だけど彼の視線の先には他の仲間達。
(ルーク)
 心で強く呼んでも彼は振り向いてくれなかった。いつでも抜けるようにか剣の柄に手をかけて、彼の意識は仲間達への注意と周囲への注意とに向いていた。僕にはそれがひどく悲しい。
 あの視線、あの笑顔、その全ては僕だけのものだった。
「イオン様? 行きますよ」
 アニスに袖を引かれてふらつくように歩き出す。彼は振り向いてくれない。ただ背中を向けて先頭を歩いている。
 以前なら僕と同じ位置にいて、庇うように戦ってくれていたのに。
 ひどくひどく悲しい気持ちとどす黒い感情が渦巻く胸中に、僕は人知れず嫉妬と憎しみを抱いた。それは愛しい彼にも向けられていた。だけどそれ以上に彼を取り巻く仲間達へと向けられていた。
 黒い黒い感情がとめどなく溢れるのを感じる。
 だけど止めようと努力することはしなかった。ただ気持ちの向くまま彼と見つめ、目が合うのを待った。そうして笑いかけてくれるのを待った。それだけがこの気持ちを抑える唯一のものだと僕は知っていた。
 自分の居場所であるはずのダアトの教会をこっそりと逃げるように後にする。
 それはとても後味の悪いものだった。逃げ出しているという事実に変わりはなく、それならば後味が悪いのはもう決まっているようなことだろうと思うのに。
 街に出ればそれまでしきりにこちらを追い回していた信託の盾本部の兵は徐々に引いていった。街中に入ってしまえばもう兵の姿は見当たらず、代わりにいつもの景色を見せ続ける街の人達で視界が埋め尽くされる。今日もダアトはいつも通りの日々を送っている。導師として育てられてきた僕の思考がそれに微かに安堵した。
 それまで先頭を歩いていたルークが肩の力を抜いて歩みを緩める。その肩をぽんと叩いたガイと言葉を交わしたあと彼は明確にこっちを振り返った。目が合う。そのことに心臓が跳ね上がる。
「イオン。平気か?」
 隣に並んだ彼からの言葉に頷いて、「ルークこそ大丈夫ですか。随分やつれたように見える」と彼の手を取りながら言えば、彼は困ったように笑った。緩く首を振る彼の顔には疲労の色。
「俺は平気だよ。これくらいじゃへこたれていられない」
 その言葉には決意というものが感じられた。その瞳には強い意思が宿っている。それはとても誇らしいことなのだろう。だから僕は胸を満たされた気持ちになって知らず笑顔になった。だけどすぐにその笑顔も消え失せる。どす黒い感情がまた頭をもたげたからだ。
 ぎゅっと彼の手を握って黒い黒い感情の一抹を吐き出す。それでも優しく、彼にだけは微笑を浮かべられる顔を向けながら。
「頑張らなくてもいいんですよ。僕は貴方という人が大好きなんですから」
 もう頑張らないでほしい。言外にそう含めた言葉。だけど彼は元気付けられていると取ったらしく、照れたようにぽりと頬をかいて「そう言ってくれるのはイオンだけだよ」と言った。はにかんだ笑顔。それは少し前の彼のそれとは違っていた。秘めた秘匿さというのがない。誰にでも向けられる、笑顔。
(どうして)
 僕はルークだけに向ける顔を他の誰かに向けたことなどないというのに、今のルークは違う。そうじゃない。皆に平等に接しようとしている。今だってそうだ。前なら俺もイオンが好きだよと言ってくれた。だけど違った。彼はそうは言わなかった。まるであえて言わず、避けたかように。
 今繋いでいるこの手もルークからは握り返されていない。僕が一方的に握っているだけだ。彼は握り返そうとしない。以前ならこんなことはなかったのに。
 人混みに紛れてダアトから離れる僕達に手をこまねいて見ているのだろう神託の盾の兵に、僕は叫んでやりたくなった。もう一度最初からやり直したいと思った。捕まっていたのが僕だけであったなら、彼は僕に優しくしてくれていたのだろうか。こんな平等な薄っぺらい笑顔でなくて本物の笑顔を向けていてくれたんだろうか。それなら僕は喜んでもう一度教会へ戻って捕まってやろうと思う。そんな馬鹿なことを考える。
 だけどやっと握る至った彼の手を離したくはなかった。そうするともう二度と彼の体温には届かないような気がした。
 だけどそれもダアトを出て第四石碑の丘に来るまでのこと。
 先頭を行くガイが振り返ったのと同時に彼の手はするりと抜けて逃げていってしまった。「どうやら追っては来ないみたいだな」という彼の言葉にルークが肩の力を抜いたのを感じる。彼はまだ隣にいたけれど、手を繋いでいないせいかひどく遠く感じた。
 仲間達が今後についての会話を交わす。それにルークが加わる。僕はそれをそばで聞いている。
 そんな中やはりというか、今までとは違うルークについての会話があった。本人がいる前で遠慮なしに言葉が交わされる。それはナタリアの一言からだった。
「それにしても、ルーク…髪を切ったせいでしょうか。随分雰囲気が違いますわね」
「そ、そうか?」
「確かに。あなたなりに色々思うところがあったのかもしれませんね。まあ、今更という気もしますが」
 至極当然とばかりにそう言うジェイド。それに「う…」と短く漏らして頭を垂れるルーク。僕の中の黒いものがのた打ち回っているのを感じる。静かな怒りが、心を支配していく。
「うんうん。人の性格なんて一朝一夕には変わらないもんね〜、ルークお坊ちゃま?」
 からかうような口調のアニスの言葉に、繋ぎ止めていた理性がぶつりと切れた。一歩踏み出してそのままの勢いでアニスの頬を叩く。ぱんといい音がした。彼女だけではなく皆が目を丸くして僕を見ているのが分かる。
「い、イオン様?」
 なぜ自分が叩かれたのか分からないとばかりに困惑気味の声を出すアニス。その彼女を睨むようにしながら思いつくままの言葉を吐き出す。
「皆さん勝手すぎます。どうしてそうルークばかりを責め続けるのですか。彼を責めるというのなら、僕もあのときあの場にいて何もできなかったのだから同等に責められてもおかしくないはず。それなのになぜ彼ばかりを責めるのです。彼はもう自分の犯した過ちを反省してここにいるというのに、皆さんにはその自覚が足りていないのではないですか」
 黒い感情が僕を突き動かしているのが分かる。ルークのためなら平気で人を傷つけられるんだと思う。アニスはまだ信じられないものを見るような目で僕を見ている。だけどそれは僕も同じだった。仲間達がここまで酷い人間だとは思っていなかった。いや思いたくなかったのか。
「ジェイドも勝手ですよ。彼が何者なのか分かっていながら放っておいて、その責任はあなたにだってある。止められなかった僕達にも責任がある。それをルーク一人になすりつけて、あなた達という人は…っ」
 いつに間にか握っていた拳。その手を誰かに包み込まれたのを感じた。間違えるはずもないその体温の持ち主に顔を向ければ、困ったような悲しんでいるような顔をしたルークがそこにいる。
「イオン」
 諌めるような口調だった。だけど僕は首を振る。もう我慢ならない、と胸中に吐き出す。
「ルークもなぜ黙っているのです。貴方はもう充分に報いを受けてここに立っている。僕はそのことをよく知っている。貴方の気持ちが痛いほどよく分かる。だからこそ僕は、黙って責め苦を受け続けている貴方を見るのがたまらなく辛い」
 それでも彼は諌めるような目で僕を見続けていた。それがひどく悲しかった。僕は彼を想っているのに、こんなにも僕は貴方を思っているのに、彼は僕を想っていないのだと、思い知らされたようで。
 衝動的に彼の手を振り払ってその場に背を向けて走り出した。「イオンっ」と彼の声が届いたけれどそのまま丘の茂みに飛び込んで走り続ける。すぐに息が上がって苦しくなったけれどそれでも走り続けた。
(なぜ)
 とても悲しかった。彼が僕にあんな目を向けたという事実も悲しければ、あそこまで言っても彼が何も返してくれなかったことがとても悲しかった。視界は涙で滲んでいた。だけどそれでも走り続ける。
(ルーク)
 叫びたくなった。もう一度僕を捕まえてくれと信託の盾の兵に叫びたくなった。そうすればもう一度ルークが助けに来てくれる。そうすればもう一度最初からやり直せる。きっとルークは助けに来る。そうしたら今度は言いそびれた言葉をちゃんと彼に伝えて、こんな黒いものとはさよならをするんだなんて勝手なことを思う。
 今までにないくらい気持ちが爆発していた。沸騰していた。抑えがきかなかった。これまでにないくらいに泣いていた。だから視界に映った鈍い色にも気付かないでそのまま走り続けようとして、「イオンっ!!」と今までにないくらい大きな彼の声が背中にかかって反射的に立ち止まった。肩で息をしながら振り返りたい衝動に駆られながらも視線は目の前に釘付けになる。
 信託の盾兵が立っている。武器を構えている。標的はもちろん僕だろう。僕を捕らえることが前提の大詠師派の兵だ。気迫で分かる。多少傷つけてでも僕を捕らえようと思っているのが。
 迂闊だったと自分を呪う。今の立場も何もかもを忘れて一人になってしまった。ダアト式譜術を使えない僕は無力だ。それを信託の盾兵が捕らえることなど簡単。要は僕が一人きりになればそれが逃し得ない最高のチャンス。そしてそのチャンスは今。あろうことか僕は自分から進んで相手の胸中に飛び込んだようなものなのだ。
「……、」
 息が上がっていて、視界はまだ涙で滲んだままだった。しっかりしなければ。そう思っても足は自然と相手と距離を取ろうと後退りした。その分相手もこちらへ距離を一歩詰めてくる。伸びもしなければ縮まりもしない距離。
「導師イオン、ご同行願います」
 固い声でそう言われてゆるゆると首を振った。首から下がっている音叉をぎゅっと握る。
 まだ帰るわけにはいかない。さっきはもう一度捕まえられたならなんて馬鹿なことを考えたけれど、思ってみればそれはルークとの別れを意味するのだ。もしかしたら一時的な別れではなく永久的な別れかもしれない。それは僕には耐えられない。いっそ死んでしまいたいと思うくらいに。
「嫌です。僕は僕として、生きる」
 絞り出すように言って、茂みを掻き分けてこっちへ走ってきているのだろう彼の姿を脳裏に見た。その前に僕を捕らえてしまおうという兵の意図も。重たい鎧のがしゃんという音を響かせながら相手が一歩踏み出してくる。それに一歩下がる。背中は向けられない。何が起こるか分からないから。
 だけど足元は草木の生い茂る地面で、足場は悪かった。兵へと意識を集中させていたら足元への注意は遠く及ばない。が、と踵が木の根か何かに当たってぐらりと身体が傾いた。しまったと思う。チャンスだとばかりに兵が駆けてくるのを傾く視界で捉える。
 だけど信じられないものを見るように僕の背後に向けられた兵の視線を、どさと尻餅をつきながら見た。次の瞬間にはその左胸に飛んできた剣がその身体を貫く。

 それが投げられたルークの剣だと分かるまで数秒を要して、その間にもう兵士は倒れていた。ゆっくりと振り返る。そこには剣を投げた格好のままのルークが荒い息遣いで立っている。
「…、ルーク」
 走ったせいで渇いている喉で彼の名を紡いだ。我に返ったように彼が自分の手を見て、それから微かな笑いを浮かべてこっちを見る。ああ悲しそうだ、と思える笑い。
「平気か? イオン」
 今日何度目の言葉か分からないくらいそう言われた。僕を気遣っているだろう言葉。地面に座り込んだまま緩く頷けば、彼がゆっくりと歩いてきて僕のそばに膝をついた。今更ながらに血の臭い。
 前触れも何もなく静かに抱き締められて、涙がこぼれきったはずの視界がまた歪むのを感じた。愛しい体温。久しぶりに感じる彼の温もり。全身を包むこの安堵感はやはり他の誰でも味わうことはできない。彼だけが僕を満たしてくれる。彼だけが。
「また、離れ離れになるのかもしれないって思ったら…ああしてた」
 静かな呟きの声は掠れていた。それは多分兵を殺したことを言っているのだろう。
 だけど僕に言わせればそんなことはどうでもよかった。平和の象徴であるはずの導師がと罵られようがそれでもよかった。ただ縋りつくようにルークの背中に腕を回して「いいんですよルーク、ルーク」と壊れたように彼の名前を呼ぶ。彼が僕の頭を撫でて「ごめんなイオン」と掠れた声で謝ってくるのを首を振って許した。黒くどろどろしたものが溶け出していくのを感じる。やはり僕という人格は彼を中心になされているのだなんて運命じみたことを考える。
「もう離れたくないですルーク。僕はもう貴方が独りきりになるのが耐えられない」
 ぽろぽろと涙がこぼれたけれど、すぐに彼の白いコートに吸い込まれて消えた。後には少しの染みが残るだけ。
 ぐっと強く抱き締められた。それでもまだ血の臭いが立ち込めていることが疎ましい。
「俺だって独りは嫌だよ。だけどこれ以上イオンの迷惑にはって思ったら、どうしても素直になれなくて」
 ごめん、と降ってきた言葉と一緒に前髪を掻きあげられて額に口付けされた。何度も何度もごめんという言葉が続く。僕は首を振ってそれを否定した。言葉を否定したのではなくて、その言葉は場違いだという否定。
 顔を上げてみれば、彼の瞳はきれいなままだった。明け方の空の色。燃えるような焔の髪も全てそのままだ。彼という人は変わってはいない。きっと。
 顔を傾けて彼の唇と自分の唇を重ねる。彼が少し動揺した気配が伝わってきたけれど、それも数秒のことだった。後はいつものように唇を割って舌を絡ませる深いキスをする。少し久しぶりな気がした。そんなに離れてはいなかったはずなのに。
 色々なものが変わってしまったのだ、と思う。あのアクゼリュスの一件から、世界、人、関係、その全てが。
(だけど変わらないものだって、あるはずだ)
 瞼を押し上げて唇を離す。名残惜しそうに銀の糸が引いて消えた。血の臭いは消えない。だけどそんなことはもう関係ない。
 彼の瞳は僕だけを捉えている。僕の瞳も彼だけを捉えている。変わらない二人の関係に黒いものが溶けて流れていくのを感じる。
「ルーク」
「イオン」
 優しく頭を撫でる彼の手の感覚に目を閉じた。鼓動を繰り返すその胸に頬を寄せて息を吐く。安堵する。それだけで。
「あとでちゃんとアニスに謝れよ。あれはやっぱりやりすぎだ」
 苦笑の混じった声に「はい」と返す。相変わらず涙は止まらなかった。だけどそれでもとても幸せだと思えた。彼は変わっていないと分かったから。彼の中に僕はちゃんといるのだと、分かったから。