二人のための白い部屋

 僕の新たな殿は生まれつき身体が弱く、入退院を繰り返す居場所のない日々を送っていた。それ故に心の奥深くから根付いている全てのものに対する不安と不満と嫉妬の心が強く、その怨みもまた深かった。
 今日も嫉妬で心を揺らす殿がいる。お茶の時間にしたいと言われて紅茶とクッキーを用意しながらでも殿の心は容易に感じられた。窓際に設置されているベッド、その上から見える景色に殿は心を焦がしている。外で自由に生きることのできない身体をもどかしいと思い、外で生きる自由なもの全てに嫉妬を抱いている。
 申し分ない。その心こそが僕には必要なのだから。
「殿」
 カタン、とベッドの足元のテーブルをスライドさせて枕元へ。白いテーブルの上に銀色のトレイを置くと殿はようやく視線を窓から剥がした。嫉妬の心など感じさせない笑った顔で「ありがとうジェラス」と言われる。ポットからカップへ紅茶を注ぐと、殿の視線がポットを見つめて「ジェラスの分は?」と首を傾げた。「僕には食物を摂取する必要がないので」と返すと、殿は表情を曇らせた。「私と一緒にお茶しない?」と。
 そうこられると、必要のないことでもした方がよいんだろうか、と毎度考える。殿の心は疑いようもなく伝わってくる。ただ純粋に僕と一緒にお茶をしたいという望みが。
 そして結局、僕は今日も殿のために一つ息を吐いてカップをもう一つ取ってきた。ポットの紅茶をカップに注いで、ベッドのそばに常備してある椅子に腰掛ける。そんな僕を見て殿が満足そうに笑う。カップに口をつけるその姿を見てから僕も紅茶を一口飲んだ。特別必要のない食物の味は、やはりよく分からない。
「今日は調子がいいから、ちょっと外に行きたいなぁ」
「…嘘はいけません殿。あまり元気ではないはずです。僕に嘘を吐いても仕方がないでしょう」
「むぅ。ジェラスは意地悪ねぇ」
 パキ、とクッキーを割って口に運んだ殿が頬を膨らませた。手を伸ばして同じようにパキとクッキーを割ってみる。口に運んで咀嚼して飲み込む。殿はここのクッキーが一番おいしいと海外のものを指定して注文するけれど、そのこだわりは僕にはよく分からない。
 視線を感じて顔を向ける。殿はテーブルに頬杖をついてにこにここっちを見ていた。眉根を寄せて「何ですか」と訊く。訊かずとも心を読めば分かることでも、殿はお茶の時間は話がしたいといつも言う。だから僕はこの時間は人らしくすると決めている。
 クッキーに手を伸ばしてパキリとかじった殿が言う。「ジェラスとのこういう時間、私大好きなの」と。僕は「そうですか」くらいしか言うことが思いつかなかった。それに殿が悲しそうに笑うことを、僕はもう分かっていた。
 七つの大罪・嫉妬のジェラス。悪の童子である僕に必要なのは、僕を動かす原動力となる嫉妬の心。
 避けられぬ百機回向の定め。そこに辿り着くため、そしてその戦いに勝利するための、これはただの過程に過ぎない。
 善と悪のどちらが強いのかを知るためだけに作られた機巧童子。百機回向が終われば、勝者がどちらにしろ、僕らは役目を終えた道具として破棄される。
 ただの道具で終わらないためにも僕はさらに悪についてを学び取り、生き残る術を模索しなければならない。
 過程で出会っただけの人。弱い身体で生まれ落ち、周囲を妬みながら育った人。
「殿。身体が冷えます。ベッドにお戻りください」
 陽が落ちて、闇が訪れた部屋で殿は窓を開け放ちずっと外を見ていた。こちらを振り返らずただ窓辺に立ち尽くす後姿は何も言葉を発しなかった。小さく吐息してからベッドの上のカーディガンに腕を伸ばす。手甲の先で広げたカーディガンを肩にかける。殿は動かない。周囲の闇を再現するかのように黒くドロドロとした心を持っている殿に何を言えばいいのかも分からない。周囲や世界を妬み怨むその心は確かに僕の原動力だ。この人と契ってから僕は何度か善の童子と対峙しいずれも退けることに成功した。殿の嫉妬の心は僕が思っているよりもずっと深く、暗く、淀んでいる。
「ジェラス」
「はい殿」
「殿って呼ぶの嫌」
「…はい。
 くるりとこっちを振り返った殿が膝をついて僕を抱き締めた。されるがままに抱き締められて、震えている殿の細い肩からカーディガンが滑り落ちる。
 どうすべきなのか。何度も思い何度も躊躇い、何度も考えてから、殿の心を読んだ。抱擁を求める心に手甲の手を伸ばしてそっと殿を抱き返す。壊さぬように細心の注意を払いながら。
 黒く渦巻いていた嫉妬の闇が、光明が射したように薄れていく。
「ジェラス」
「はい
 背中に回っている腕がぎゅっと僕を抱き締める。「…ジェラスが。人間だったら、よかったのに。言ってもしょうがないことだね。ごめんね」そう呟く声は耳元で聞こえた。手甲をしまい込み人の手の形にして殿の背中を撫でながら僕は黙する。それは確かに言ってもしょうがないことなのかもしれない。僕が機巧童子であったからこそあなたと出逢った。そうでなければ僕らが出逢うことはなかったのだ。
 ただの過程で出会っただけの人。身体が弱く、人一倍嫉妬の闇を抱きながら、それでも笑ってみせる人。悪と呼ぶには純粋すぎる嫉妬の心と、そして愛。僕に愛を向けるその人は、悪の殿には不向きであるのかもしれないと今頃になって思ったりする。
 周囲を妬み、怨み、憎み、それでも僕を愛する。それは嫉妬心から必要とされるだけの僕からすれば本当に望んで止まない心だけれど。それでこの人は本当にいいのだろうかと考えたりする。
「…。僕は、」
 言葉にしようと思った思考のそこから先が出てこなかった。僕の頬を冷たい掌が挟み込み、唇を重ねられる。
 これでいいのだろうか。僕はこれで満足だけれど、あなたはそれでいいのだろうか。そんな疑問を胸にしまい込み、人の形の手で同じように殿の両頬を挟んで口付けを重ねる。
 愛してほしいと、嫉妬から生まれた機巧人形が願うのは、おかしなことだろうか。
…?)
 ある日、いつものようにコインランドリーに行って殿の洗濯物を乾燥機で乾かしてから病室へと戻る途中、常に意識している心をふっと感じなくなった。
 ぴたりと一瞬足が止まり、それから走らないぎりぎりの速足で殿の病室まで急ぐ。
 病弱な彼女は満足に出歩くこともできず、外出には当たり前のように制限があって許可も必要で、窮屈この上ない生活を送っている。けれどそれは全て殿の体調や体力を慮った結果であって、つまり、殿はいつこの手からすり抜けてもおかしくはない命の状態だということでもあるのだ。
 まさか。そんな言葉が頭を埋めそうになる。
 洗濯物を片手にガラ、と勢いよく開けた扉の向こうに広がるいつもの病室の景色。急に感じられなくなった殿の心に嫌な予感をいっぱいにして開けた病室の扉の向こうでは、いつものように殿がベッドに臥せっていた。静かな横顔に速足でベッドに歩み寄って手甲の先で肌に触れる。体温と息遣いを感じたことにほっと胸を撫で下ろしてから、袋に適当に突っ込んでくしゃくしゃになってしまった洗濯物を広げて丁寧にたたみ、いつもの場所にしまって、ベッドのそばにある椅子に腰掛けた。
 窓の外からは鳥の声。人の声。遠い音。病錬を行き交う人の靴音。話し声。
 手を人の形にしてからぎゅっと殿の手を握った。細く折れそうな手を。
(僕は、この人が嫉妬の殿としてふさわしくないとしても、この人を殿としていたい)
 過ごす時間、過ごす日々、通り過ぎた様々なものを思い、僕が出した結論。妬みや怨みに心を黒く焦がしている彼女ではなく、僕にそうしてくれるようにやわらかく笑って抱き締めてくれる、そういう彼女が溢れればいい。そうやって生きてくれればいい。
 そこに嫉妬の心がなくなってしまったとしても、僕はあなたのそばにいたい。
(こんなことは嫉妬の童子が思うべきことではない。分かっている。けれどもう止められない。止めたく、ない)

 どれくらいそうしていたろうか。ふいにぽっかりとした空洞に色が灯るのが分かって顔を上げた。薄目を開けた殿がぼんやりした顔を僕に向けて「ジェラス?」と僕を呼ぶ。口元を緩めて「はい」と返すと、彼女も口元を緩めた。「ごめん、なんだか眠くて」「いい天気ですから。眠れるなら眠った方が」「いい。もう起きる」ゆっくりした動作で起床する殿の背中を支える。出逢った頃より細くなってしまったような気がする。やんわり僕の手を止めた殿が「ジェラス」と僕を呼ぶ。黒い瞳に見つめられて「はい」と返しながらその手を握り返す。
「一緒、ね。これからもずっと。ね」
「はい。
 僕が好きな笑顔で笑いかけられる。愛してると言われる。心の中だけで。悪の童子である僕に愛は不必要で、悪の童子の殿である彼女に必要なのは嫉妬の思い。愛は善側が必要とするだけの代物。僕には必要のないもの。だけど望んでいるもの。そして彼女がくれるもの。
 手を取り合い、額を合わせて体温を感じ合う。笑い合う。人間同士のように。
 機巧童子だったから彼女と出逢い、彼女の心を思えて、彼女のそばにいられる。
 避けられぬ百機回向。善と悪の大合戦。それに向かい進む刻。
 その過程で出会っただけの一人の人を、僕はそれでも確かに愛した。