本能に抗う、なんてことは愚か者のすることだ。
 いやそれ以前に本能たるものに抗うことが可能なんだろうか。本能っていうのは目で見て耳で聞くことに何も疑問を感じず当たり前に思っていることのように当たり前に存在するものだ。本能っていうのはそういうもので、つまるところそれは当たり前なのだ。
 本能が示すところイコール当たり前。夜兎の血が示すもの、本能、イコール戦い。血。戦。当たり前のこと。

「…あー。いて」
 ごきと音を立てて自分の骨が折れる音を聞いた。いてぇと思った。当たり前だけど。
 気付いたときには傘が吹っ飛んでいた。自分の片腕が吹き飛んだからだ。だから一緒に手にしてる傘も吹き飛んだ。当たり前っちゃ当たり前の法則。
「…ああ、あんたが第七師団の師団長。どおりで強いんだ」
「あれ、知らなかった? 俺結構有名なのに」
「自分で言う? それ」
 小さく笑ってぺっと血の塊を吐き捨てた。あーいてと思いながら遠くの方でどすと音を立てて自分の傘が地面に突き立ったのを見る。ついでにその傘を握ったままの自分の片腕が宙ぶらりんになってるのも見た。ほんとならくっついてるはずのものを遠くで見るっていうのはやっぱ変な感覚だ。あれオレの腕なのに。
 片足も折れてる。容赦なくぼっきり折られた。これじゃまともに歩けない。
 相手はこざっぱりした笑顔で「なんだ。この程度? 興醒めだなぁ」とさわやかに言ってくれる。あーはいすいませんね弱くてと思いながらもう諦めた。生きることと戦うことを。
 せめてオレが春雨に入団でもしてれば話は別だったか。雨の滴る戦場で、オレはどうしてこんな運悪く至上最強の人に出会っちまったんだか。
 相手は大きな傷一つ負ってない。掠り傷と擦り傷程度なら通じたけどオレではそこまでだった。それ以上は届かなかった。どの攻撃の何もかもが。
(春雨の雷槍か…なるほどね)
 吹っ飛んだ片腕のあるべき場所から血が止まらない。雨のせいで余計に寒くなってくる。
 止めを刺さないでこっちを見下ろしてるピンクの髪の持ち主に、オレは目を細めた。
「止め、刺さないの?」
「そうしてもいいんだけど。一個訊きたいことがあってねー」
 さっきまで一人無双で戦ってたとは思えないおよそいつも通りの顔でその場にしゃがみ込んだそいつは、オレに満面の笑みを向けながら言う。「お前神楽を知ってるでしょ?」と。
 だからいつ手刀が飛んでオレの首を刎ねるのかと思っていたところからがくと気持ちがぶれる。
(神楽?)
 ピンクの髪。さっきから妙に気になってたそれの正体がようやく分かった。記憶が古すぎて戦いの中に埋もれていた。そういえばオレは本能のままに戦いを求め新たな戦場を求めてあの星を出て行ったんだった。もう絶滅寸前とか言われてる夜兎のいる星を。置いてきたんだった。泣き虫だった、あの子を。
「……知ってるよ。それが?」
「生きてるよあいつ。しぶといことにね」
「ふーん」
 記憶の、古い片隅に。ピンク色の髪があった。霞む視界で血と雨で濡れそぼった地面を睨みつけて「だから? オレが神楽を知ってるとあんたに何か得があんの?」と返す。相手は肩を竦めて「別に。俺は弱い奴には興味ないからね」とあっさり一蹴してくれた。一体何がしたいんだと思いながらばしゃと音を立てて傘を握っていた自分の腕が水溜りに落ちた音を聞く。ああやっぱりいいもんじゃないや、こういうの。
 殺すなら早くすればいいのに。そう思いながら目を閉じる。なんか疲れた。
(…神楽。そういえば、いたな。そんな子も)
 戦うことを求めてあの星を出て行って以来一度も思い出したことがなかったから忘れていた。そういえばオレがまだ子供で本能というものをよく分かってなかった頃、それが抗っても無駄なものであると割り切る前。ピンク色の髪をした女の子と遊んだことがあるような気がする。
 遊ぶ、なんて。戦いを求めて生きる日々を続けてきた今のオレからしたらほんと、馬鹿みたいな話だけど。それでも確かにそういう日々もあった気がする。
 血の色しかない記憶の片隅に。セピア色の、違う日々が見える。
「俺はさ、あいつは馬鹿だって思ってるんだよね。夜兎の血を恐れ人を傷つけず、血に抗ってまで殺すことを拒否してんの。それでいてさ、目の前で親しい奴が殺られそうになるとやっぱ血の方が顔を出すんだよね。俺も見たかったなー、阿伏兎が絶賛した血に呑まれた神楽ってのをさ」
「…だから? なんだっての? あんたオレに何言いたいわけ」
 一人でぺらぺらよく喋る。それに神楽のことよく知ってる。夜兎最強の神威ってのはこんな奴だったっけ。そう思いながらがっと襟首を掴まれてげほと咳き込んだ。ただでさえぼろぼろなんだからもうちょっと丁重に扱えよ。
「だからさ、お前を餌にしてみようかと思って」
「…、は?」
「ちょうど殺す気も失せちゃったとこだし。ちょうどいいや」
 にこにこ笑顔で何を言い出すかと思えばそんなこと。オレは嘆息した。それから人の襟首掴んでずるずる遠慮なく引きずってく相手を睨みつける。
 こいつどっか思考能力欠けてるんじゃないのか。だいたいオレが憶えてる神楽だって小さい頃の話だ。今の神楽なんてオレは知らない。それどころか神楽はオレを忘れてるかもしれないって可能性を考えないのかこいつは。それともあれか、そのときになったらなったで容赦なくオレの首を刎ねるわけか。それで神楽の反応を待つわけか。
 確かにあの子は、オレの記憶の片隅のあの子は殺生ごとにはひどく敏感だった気がする。たとえば目の前で無関係の奴が首を刎ねられそうになってたとしたら、あの子はどうするだろう。助けるんだろうか。どうなんだろう。
「…あんたさ。神楽の何?」
 それ以前に、そこまでして神楽の反応を窺おうと考える神威を睨みつけた。俺の傘までちゃっかり拾って、でも転がってる俺の片腕はそのままでばしゃと水溜り踏みつけたそいつが笑う。
「俺? そうだなぁ、俗に言う兄妹ってやつじゃないの」
「…兄妹? あんたと、神楽が?」
「まぁね」
 ばしゃと水溜りを踏みつける音。血が流れ出たせいだけじゃなく、なぜか目の前が真っ暗になったような錯覚。
 兄妹? 神楽とこいつが? 名前は確かに似てるけど全然。ピンクの髪とか瞳の色は似てるかもしれないけど、全然。本質的には全然似てない。
(…いや。オレはそもそも、神楽の本質なんて、知らない。あの子は戦うことをしなかった)
 ぐっと拳を握る。余ってる片手を意識した。折れて使い物になりそうにない片足に意識を向けた。
 一度は失くした戦意が戻ってくる。
 今のオレじゃどう転んだって神威に勝てるわけないし、そもそも大した傷一つ負わせることができなかった。ぼろぼろのこの状態で何ができる? 恐らく何もできず、できたとして地面に転がって体勢立て直すの僅か数秒。その数秒で開いた距離は埋められ今度こそ手刀が飛んでくるだろう。
 それで構わない。
 オレはここまでだ。どの道このままでも神楽の前まで連れ出されて殺されるだけだ。ならオレが今選べるのはどう死ぬか。それだけだ。
(…ごめん。神楽)
 記憶の片隅の小さなあの子に謝った。
 あの子はオレの名前を憶えてるだろうか。オレが忘れてたくらいだからお前も忘れてるかもしれない。だけどお互い幼少の頃の貴重な遊び相手だったような気もする。減っていく夜兎の一族の中で子供なんて限られてた。オレ達は少しだけどそれでも時間を共有した。そうだよね、神楽。
 美人になるといいね。そう思いながら残った片腕で力の限り襟首を掴んでる神威の腕にどんと手刀を打ち込んだ。やっぱり傷一つつかなかったけどみしと軋む音はした。きょとんとした顔がこっちを振り返り、オレは無様に地面を転がり死んでる片足と無事な片足でそれでもどうにか起き上がろうとする。
(ねぇ神楽、こいつとお前が兄妹なんて信じられないんだけどさ。でも一個分かってるのは、こいつが考えてることをそのままにしといたら、どう転んでもお前が悲しむってこと。それだけは分かるんだ。だから)
 だから、と思う。幼い記憶の中で花冠なんてものを作って笑ったあの子が見えた。目の前で面白いものでも見るみたいにこっちを振り返った神威がぽいとオレの傘を放り投げた。どんと目の前に突き立ったそれを残った片手でがっと掴み取る。
 こいつと戦って残るのは。勝利か敗北か。今のところ勝利した奴はいないから敗北のみか。敗北はつまり死だ。神威と戦えば死ぬ。それが家族だろうが兄妹だろうがこいつには全く関係ない。誰でもいいんだろう、本能を満たす強さを持つ奴なら。それが妹だろうがなんだろうが関係ないんだろう。
 だから、と思う。
(だからね神楽。オレはお前のために、ここで死ぬよ。未来のお前が泣かないように、お前がなるべく長く生きてくれるように)

交わらない未来線
(だから、ごめんね。神楽)