朝食の準備をすませて、少し時間があることに気付いて新聞を取りに行く。
 今日の見出しは何かな、と灰色の紙を広げてざっと目を通しても、明るい話題はどこにも見つからない。
 新聞をたたんで視線を上げれば空がある。重い鈍色の雲が空のほとんどを覆い尽くす、朝とも昼ともつかない天気。
 どこか東邦の国が核実験に失敗し跡形もなくなった。どこか南米の国が異常気象により瀕死状態にある。我が国でも万全を期すために地下シェルターの建造が進められており、と、新聞はだいたいそんなことを毎日毎日繰り返すだけ。
 確実に、少しずつ滅びの道を歩んでいるこの世界に、僕は生まれた。そのことを特別どうこうは思ってない。
 生まれたのなら生きる。擬似的なこの命でも息を重ねる。それが、生まれてくる者全てが共通して持っているものだと僕は思う。
 新聞をテーブルに置いてリビングキッチンから離れ、光の射さない廊下を歩き、一つの部屋の前で足を止める。
 こんこん、とノックしても返事はなかった。鍵のかかっていないドアを開ければ、カーテンもしていないのに暗い部屋があり、窓辺には人のふくらみがあるベッドが一つ。
、朝ですよ。起きてください」
 そばに行って声をかけても僕の主人である人は布団から顔を出さない。掴まえた布団をめくれば、眠そうな顔でどうにか覚醒しようとしている主人がいる。
「…むぅ……あさぁ?」
「はい」
「こんなくらいのに…」
「そうですね。でも時間的には朝なんですよ」
「うう…」
 のそり、と身を起こした彼女がベッドの上に座り込み、恨めしげに僕を見上げた。僕はそんな彼女を困ったなという微笑で迎える。
「今日も、缶詰の一日を送れって?」
「それがあなたのお仕事です。だから僕も生まれた」
「…知ってる」
 苦い声でそうぼやいた彼女がベッドを下りてはーと息を吐く。「カイト」与えられた名を呼ばれて「はい」と返事をすれば、彼女はクローゼットを指して「あたし顔洗ってくるから。その間に着替え見繕っといて」と残して部屋を出て行く。
 言われた通りクローゼットを開ける。中には飾り気のない服がいくつか収まっていて、彼女がいつも着ていく白い白衣のようなコートを手に取った。これだけはいつも着ていく決まりだ。だから僕が決めるのはそれ以外のコーディネート。
 国の中で重要な研究を担う彼女は、その地位を望んだわけではないらしい。というのは僕の憶測だけれど、恐らく外れてはいないだろう。
 紫のタートルネックと黒のタイトスカートをハンガーにかけて吊るしたところへ主人が戻ってくる。さっきよりも幾分か醒めた目で僕が選んだ服を見て小さく笑う。「そろそろ服でも買うべきかな。レパートリー少なくて、考えるのも難しいよね」「そう、ですね」僕が苦笑いすると彼女も笑った。僕の背中を押して部屋から追い出すと「朝食の準備しといて。着替えてすぐ行く」ばったんとドアが閉まり、言われた通り朝食をすぐ食べられる状態にするためにキッチンへ足を向ける。
 主人と共に食事を摂り、体内で食物を余すところなく自らのエネルギーに変換し、彼女が薄く化粧をしている間にぱっぱと洗い物をすませる。
 黒のカーゴパンツと白のワッシャーシャツを着た僕に化粧道具を鞄に突っ込んだ彼女が顔を顰めて「上着」と言うから、部屋に上着を取りに戻った。僕はこの格好でも寒さを感じることはないのだけれど、見ている主人が寒いと思うのなら、仕方がない。
 何がいいだろうと考えている間にファンとクラクションの音がした。研究所からの迎えの車のクラクションだ。到着した、乗れ、という印の。
 感覚的に灰色のロングコートを掴んで外に出た。「カイト」と玄関でヒールの靴を履く主人に呼ばれて「はい」と返事をしてコートに袖を通す。
 そして、今日もまた、主人の嫌う研究所に缶詰な一日が始まるのだ。
「は? いや、ここは…いや待てよ。でもだよ……じゃあこれでどうだ。…あー、うーん……」
 一つの机には三つの立体ウィンドウ。それぞれに違う数字と英字の羅列を前に、眉間に皺を寄せてぶつぶつと独り言を漏らす彼女は、この研究所の中でも一目置かれている。それはあまりいい意味ではなく、どちらかと言うと悪い意味である方が多い。そんな彼女の傍らにはいつも僕がいる。今日はライブラリに突っ込んである適当な電子本を引っぱり出してきて斜め読みしていた。
 彼女の大きな独り言は、それだけ難しいことを前にしているときの癖のようなものだ。解決すれば彼女の表情はすっきりしたというものになり、自然と独り言も止む。
 …それにしても、今日は随分と長く唸りっぱなしだ。そろそろ一時間になるだろうか。
 彼女がパンクする前にとカフェオレを淹れて持っていけば、画面を凝視してぶつぶつと独り言をこぼすだけで、僕に気がつくことはなかった。あるいは、頭の中をまとめるために意識的に目の前の数式と英字以外を排除しているのかもしれない。
 ことん、とテーブルにカフェオレのカップを置いてソファに戻る。オフにした携帯端末をオンにして読みかけのページを開き、ソファに座って読書を再開する。
 主人がカフェオレの存在に気付き、英数字の羅列と決着をつけたのは、それからさらに三十分後。
「くあ……か、身体痛いしっ」
 机に手をついてがったんと立ち上がった彼女に視線を上げる。「できたんですか?」「あーなんとかね…おかげで全身ぼっきぼき」はは、と空笑いした彼女が僕の淹れたカフェオレにようやく気付く。すっかり冷めてしまっているカップを手に取って「ごめん、気付かなかった」とこぼす彼女に「いいえ」と微笑んで手元の端末をオフにした。
 ソファを立って、肩をぐるぐる回したり大きく伸びをする彼女の肩に触れた。「休憩してください」と言えば彼女が参ったなと笑う。
「まだいけるよ」
「駄目です。さっき全身ぼっきぼきだって言いましたよ。僕が少しマッサージして血行をよくしますから」
「はいはい」
 首を竦めた彼女がソファに座ってヒールを脱いだ足をぶらぶらさせる。その足元に膝をつき、壊れ物を扱うようにそっと、彼女の片足を取る。

「そういえば先ほど、カフェオレを淹れてくるとき、他の研究員の方に会ったんですが」
「うん」
「確か、自然回復理論か何かを担当している方だと思ったんですけど、成果は芳しくないそうです。愚痴をこぼされました」
「ふーん」
「あとは、僕があなたつきのVOCALOIDだと気付いて、こうも言ってました」
「…なんて?」
「彼によく似ている、と」

 肩を揉む手を止める。主人はゆらゆらとカフェオレのカップを揺らし、閉口した。
 …問い質すつもりはなかったのだけど、彼女にはそう取られてしまったらしい。口を噤むその姿に微笑して「それだけです。少しは楽になりましたか?」背中を掌で撫でると彼女は浅く頷いて僕を振り返った。何か言おうとして失敗し、睨むような目つきで床を見つめる姿に困ったなと微笑む。
 少し気になったから口にしてみただけだったのに。あなたにそんな顔をさせるつもりはなかったのに。

 背中側からゆっくりと抱き締めれば、主人は決まって息を詰まらせる。「他意はありませんでした。ただ、あったことをそのまま話しただけなんです。すみませんでした」と謝ると、彼女は緩く首を振った。細い指が僕の手の甲を撫でていく。何度でも、確かめるように。
「カイト」
「はい」
「いつか…話すわ。きっと話す。から」
「…はい」
 腕の中で弱く小さな存在になっている主人を抱き、シャンプーの香りのする髪に顔を埋めた。
 いいにおいだ。とても。心が穏やかになるような。…懐かしいような。
「…仕事。する」
「はい」
 するりと腕から抜け出した主人の姿を見つめる。今度はそう難しい仕事ではなかったのか、三十分ほどでファイルを一つ片付けた彼女が僕の視線に気付いて唇だけで笑った。あなたが笑ったから僕も笑う。そうしたらあなたはもっと笑ってくれると、僕は知っているから。
 あなたが笑ってくれるなら僕はなんだってしよう。それが僕の存在意義だ。