カイトという名の男が死んだのは、二年前の話になる。
 そいつは誰にでも人懐っこい優男で、色気飾り気のない研究所内の人気の的だった。彼から言う異性、あたしから言う同性からの。
 あたしはその頃彼に興味なんてなかったし、人気の優男よりも優先して取り組むべき課題や仕事がいくつもあった。そう、あたしは仕事一徹の一匹狼の女だったのだ。
 仕事はいつも山積みで、片付けても片付けてもなくならない。
 その優男についてきゃあきゃあと黄色い声を上げて盛り上がる集団に、そんな暇があるなら仕事しろ、とよく思ったものだ。
 コーヒー単体は苦すぎて苦手なあたしは、考えがまとまらず一定時間が過ぎるとカフェオレを摂るという癖のようなものがある。
 それもインスタントではまずっくてとても我慢できたもんじゃないので、鞄からコーヒー豆の入ったパックを持っていき、給水室でそれを粉にしてちゃんとコーヒーを淹れてから牛乳を足してカフェオレにする、ということを毎度やっている。
 ああ頭の中がぐちゃぐちゃだ。まとめないと。分からなくなる前に。
 一人ぶつぶつ言いながらコーヒーを淹れ、香ばしい豆のにおいに一人満足して頷く。あとは牛乳を淹れるだけ、と冷蔵庫の方へ行ってぱかんと扉を開けて、首を捻った。
「ん…? うっそ、牛乳切れ?」
 いつもの場所に牛乳パックがない。定位置以外も見てみたけど牛の描かれた紙パックがなかった。
 いちいち配給室まで言って牛乳パックをもらってこなくちゃいけないとか。面倒くさい。でもコーヒーを淹れてしまった。カフェオレを飲む気でいたからここまできたら飲みたい。
 はぁ、と息を吐いてばたんと冷蔵庫の扉を閉めたとき、「どうぞ」という声のあとに牛マークの紙パックが視界の端に見えた。顔を上げてみれば、牛乳パックを持った例の優男がいた。名前は…知らなかったそういえば。
「違いました?」
「…そう。これ。どうも」
 その手から紙パックを奪って大きなマグカップに半分以下のコーヒーに牛乳を投下。コーヒーの質にはそれなりにこだわるけど、おいしいカフェオレのコーヒーと牛乳の比率とかそこまではこだわらないあたしのいい加減さがこの辺りに表れている。
 大きなマグカップにたっぷりのカフェオレを作ってレンジで加熱。冷蔵庫の定位置に牛乳をしまう。
 その間手にした普通のマグカップの中身を時折傾けつつ、優男がまだそこにいる。っていうかこっち見てる。何見てんだよこの野郎。
「何? あたしに何か用事?」
 ちょっとイライラしつつレンジの中のマグカップを睨みつけつつそう言うと、相手は笑った。「あなたとはまだお話してないなと思って」「は?」「カイトって言います。よろしく」すっと差し出された手に、あたしは相手の顔を一度見て、もう一度差し出された手を見て、それから腕組みしてそっぽを向いた。とんとんと指で腕を叩く。早くあっため終わらないかな。
「あたしは。はいどーもよろしく」
 ぴしゃっと会話を終わらせる言い種だったにも関わらず、カイトと名乗った最近話題の優男はやわらかく笑った。それがまた癪に障った。
 あたしはこの研究所の中でも結構変人扱いされる人種の類だ。頭がいっぱいになってくると自分の内側だけで整理できなくなり、独り言として撒き散らす、という癖がある。それのおかげであたしは独り言がぶつぶつうるさい仕事一徹のとっつきにくい人、ということで有名なのに、そのあたしによろしくとか。意味が分からない。それともそれがこの優男のスタンスなのだろうか? 女の子とは誰とでも仲良くしようって? うわ、あたしそういう人種って大嫌いかも。
 あたしは特に友達とかいらないと思ってるし、食べていけるだけの仕事をして、先の未来のためにある程度の貯えが見込める生活ができれば満足なのだ。たとえ仕事場で変人扱いされようが、遠巻きにひそひそなんか言われようが、関係ないのだ。
 だからね、あたし、自分と正反対みたいなあなたみたいな人は大嫌い。
 だって、惨めになるでしょう。同じような仕事をして同じように研究所に缶詰の生活を送っているのに、人にちやほやされて笑顔を向けるあなたと、一人ぶつぶつ言いながら仕事して人に遠巻きにされているあたし、なんて。嫌になるでしょ。別にこれでもいいし、なんて言ってツンとしてるあたしが意地張ってる馬鹿みたいに思えるじゃない。
 だからあたしはあなたのことが嫌い。嫌い。嫌いよ。とっても嫌い。
「白状すると、そんなに嫌い嫌いって連呼されたのは初めてなんだ」
「へーそう。はいじゃあもう消えてくれる? あたし仕事なの。あなたの配属は別所でしょ。むしろ棟が違うでしょ。さっさと帰って仕事して」
「今日分はもう終わってしまったから。戻っても明日の仕事をするだけだし」
「……あたしのこと馬鹿にしてる?」
「してないよ。たまにはいいじゃないか、見学も」
「あたしは迷惑だわ」
 立体ウィンドウを指先で弾く。必要な書類を探して仮想空間に呼び出しては指で弾き、とりあえず必要なものを揃えた。じろりと睨めば、あたしの横にはなんでかにこにこしてるカイトがいる。
 鬱陶しい。うざい。いくらでも吐き捨てて言葉を浴びせるのだけど、奴はそんなことではちっともめげない。むしろあたしが口を開けば開くほどにこにこ度が増すので、しまいには閉口して、隣の奴は無視で仕事を始めた。
 たとえばここへ上司がやって来てカイトを見咎めたとして、あたしには一切関係ない。うん。
 頭の中から隣の奴を排除して、目の前の仕事のことだけで頭を埋め、数式と英字の羅列で思考を埋め尽くす。
 ばらばらになってちらばっているピースがたくさんあって、枠組みだけどうにかできている。その中をこれから埋める。そういう作業。
 特別楽しくはない。やり終えたあとは多少の達成感はあるけど、結局思うのは疲れたな、ってことだけだ。
 仕事って多分そういうもの。生きがいがイコールで仕事になってる人なんてそう多くはないし、そういう人種は、恵まれている。あたしは特別運もないし、生きがいと言えるような趣味もない。結構頭のできがよかったからそれを活かす仕事に就いた、それだけだ。
 ……それが、寂しくないのかと言われたら。ちょっとは寂しい、というのが本音ではある。
 でもね、そんなこと言ってもどうにもならないことは世の中にたくさんある。あたしはそれを知ってる。だからもう寂しいなんて泣き喚くことはできない。そんな自分とっくの昔に死んでしまった。
 今のあたしは多少なりとも社会に揉まれてしわくちゃになって、自分の椅子を見つけて、疲れて、今の場所に座り込んだ、そんな人間なのだ。
 かわいそうな。運のない。愛想もない。普通の人よりちょっと頭のできがよかった、あたしはただそれだけの。


「、」

 呼ばれてぱちっと目を開ける。がばっと起き上がるとPCがスリープ状態になっていた。慌てて再起させてどこまで保存してあるのかを確認して、ほっと息を吐く。よかった、唸って出した解が消えていたりはしなかった。よかった。
 PCの方を確認してからじろりと視線を上げると、カイトがいた。優男らしい笑みを浮かべてあたしにマグカップの片方を差し出してくる。「どうぞ」「…何それ」「カフェオレ。好きだったよね」首を傾げた相手を睨みつけて、二つもカップ持ってるわけだし、一人で全部飲めっていうのはまぁ酷だし、とか自分の中で言い訳を並べつつ差し出されたマグカップを受け取った。ぼそっと「どーも」とこぼしてカップを両手で持つ。
 頭の中で詰まってる仕事が上手く片付かなかった。終わるまでは帰らん、と意気込んで一人研究所に残って仕事をしてたはいいものの、どうやら、気付かないうちに寝ていたらしい。不覚だ、あたし。しかもそれをカイトに見つけられるとか。
(…ん?)
 ず、とカフェオレをすすってからちらりと視線を上げる。カイトは仮想空間に展開されているウィンドウを眩しそうに見ていた。
「あんたなんでここにいるわけ。どうせ仕事終わってんでしょ」
「ああ。うん。帰りに食事でもどうかなって誘いに来たんだけど、寝ていたから。カフェオレを淹れて声かけたところだった」
「…あたしはそういうの行かないって言った」
「憶えてるよ」
 朗らかに笑った相手が気に入らない。じゃあ誘うなよ。無駄なことなんだから。
 ぎりぎり視線に力を込めて睨みつけても奴は笑う。笑うだけ。
 気に入らない。
 あたしはどうやったってあんたみたいに人に接することはできないし、あんたのように笑うこともできやしない。あたしは仕事一徹の女で独り言が多くて人から避けられる変人なんだから。あんたみたいな人間とは、人種が違うんだ。
 不必要になったウィンドウを消しながら次の仕事を呼び出す。さっきよりずっと簡単なものだったから、カフェオレをすすりつつぱっぱとすませた。奴はどこかから持ってきた椅子に腰かけてあたしの隣を陣取り、仕事を片付けるあたしの手元と仮想空間全体をじっと見ていた。
 片付けるべき仕事が終わった頃には深夜の三時を過ぎていた。
 今から帰っても大して時間は取れない。明日、日付け的には今日も仕事なのだ。移動時間にかかる分をここで寝てしまった方がよっぽど睡眠時間が取れる。
 今日分の仕事を上に送りつけてからPCの電源を落として、ふわ、と欠伸を漏らす。目をこすっていると隣で笑う気配があって、はっとして気の抜けていた身体をびしっとさせた。隣を睨めば組んだ足に頬杖をついてこっちを見ているカイトがいる。くそう足長いな。羨ましい。じゃなくて。
「あたしは明日も仕事なの。今から帰っても移動時間で睡眠時間削られるだけだから、泊まってくけど。あんた明日休みならもう帰りなさいよ。言っとくけど仮眠室の寝心地は中の下だから」
「僕も明日も仕事だよ」
「は? …明日も仕事なのにこんな時間まであたしのとこにいるって、馬鹿? 馬鹿なの?」
 呆れて物も言えない、ってあたしに彼は笑った。「馬鹿なんだろうね」と。ええそうでしょうとも。あんた馬鹿よ。間違いなくね。自覚してんならもうちょっと気をつけなさい。
 あふ、と欠伸が漏れて、本当に寝ようと思った。明日に響きそうだ。今から寝ればだいぶぐっすり眠れる。
 部屋に鍵をかけて白衣のポケットに突っ込み、エレベータに乗って一番上の仮眠室へ。カイトは当然の如くついてきた。例のににこにこした笑顔で。眠たくてカイトをあしらう元気もないあたしは奴をスルーすることに決めて、何人かが熟睡中の仮眠室へ入った。
 一番端の一番前が一番静かだ。隣が一人だし、前はいないし、扉からは一番遠い。
 飛行機のビジネスクラスみたいなリクライニングシートに鞄を置いて肩をぐるぐる回した。カイトは初めて仮眠室に入ったのか、ちょっときょろきょろして、それから当然の如く隣のシートに荷物の鞄を下ろした。もう半分諦めているあたしはブランケットを二枚取ってきて、一枚をカイトに放ってやった。
「じゃ、あたし寝るから」
「うん。おやすみ」
「…おやすみ」
 ぼそっと返すと彼は笑った。いつものにこっとした笑顔や微笑みとは違う、ちょっと嬉しそうな、いつもより子供っぽいなと感じる笑顔だった。
 もしかしてあれが本当の、あいつの。そんなことを思いながらブランケットを被ってシートを倒し、目を閉じれば、あたしの世界はすぐに闇へと落ちた。