これはまずいかもしれないな、と思ったときに、頭の中にぽっかり浮かんだものがある。
 急速に失われていく血の感覚と、熱かった身体が冷え始めて、寒い、と感じたとき。恋だったんだと分かった。
 ぽっかりと浮かんだ君の顔。君の声。君の姿。僕が見てきた君の全て。
 ああ、そうか。彼女にどれだけ貶されても平気だったのは、決してそれが痛くなかったからじゃない。どんなに睨まれても笑顔を返せたのは、今までの条件反射のせいではなかった。そうすればたいていのことは丸く収まるから、なんて惰性からの笑顔ではなかった。
 君には笑いかけたかったんだ。そして、できるなら、君に笑ってほしかったんだ。
 そんなことに今更気がつくなんて。僕も馬鹿だな。
 は、と短く笑ったとき、ばしゃんと水を蹴る音がした。黒い雨の降る空に投げ出したままの視界を遮る影が、僕の都合のよい形を作る。
 君が、泣いているのが見える。
「カイト?」
 唇からこぼれた震えた声は確かに君のものだった。
(どうか、そんな顔をしないで。どうか笑って。どうか。どうか。どうか)

 僕は結局、君を困らせただけで、怒らせただけで、笑顔なんて一つもあげられないままだった。
 僕はよほど身勝手な男だったろう。きっと、君にはそう見えていただろう。
 哀しいね。
 一番振り向いてもらいたい人には見向きもされず、挙句、こんなふうに死んでいく自分が自分で哀しい。
 …でも。最後に、君を守って死ねることは、少しだけ、誇らしいかな。

「カイト?」
 細く濡れた声が僕を呼んでいる。
 できることならその涙を拭いたい。それから、この雨は身体にあまりよくないから、傘を差すとか、建物の中に逃げるとか、してほしいところだ。
 伝えたいことはたくさんあるのに、少しも、口が動かない。声が出ない。
 は、と息を吐いて、最後の瞬間まで君を見つめていようかと思って、やめた。自分のことよりも君のことを優先した僕は、その瞳に焼きつくだろう自分の最後を、なるべく穏やかなものにしようと決めた。
 目を閉じてしまえば、もう何も見えない。
 ……カイト、と泣き濡れた声が、今はもう遠い。
 2078年3月20日。
 首都郊外の政府重要施設の一つである国立研究所を狙った隣国のテロ組織により、研究員の多くが死亡、殺害された。
 武力で制圧を強いていたテロ組織に警察が介入する穴を作ったのは、研究所内に最新作として安置されていた一人のVOCALOIDの存在があったからだという。
 本来なら搭載されることのない機能を携えたそのVOCALOIDの主人、今回の事件の生存者である研究員の一人が命令を下し、テロ組織の支配図に穴を開け、警察が突入するきっかけを作った。
 VOCALOIDの名はカイト。主人の名は
 この二人の功績は政府各人によって称賛されたものの、事件による損失は大きく、国宝級の優秀な頭脳の多くを失ってしまった政府は、今後の建て直しにしばし悩まされることになる。
 昼休みの時間になると、僕は食堂のある棟へと走って向かう。理工系でそう体力もない僕は食堂についた頃には息が上がっているんだけど、いくつも並ぶテーブルの隅っこに彼女が腰かけているのが見えたら、走った疲れなんてどうでもよくなっていたりする。
 券売機で天ぷら蕎麦を選んで購入し、できたての天ぷら蕎麦のトレイを持ってそばへ行けば、今日の彼女は僕に気付かないフリを通した。
 なんというか、相変わらず、仲良くなれない。思わず苦笑いしてしまうくらいには。
 それでも君のもとへ通う僕は、一体何がしたいのだろう、とたまに考える。
 女の子と仲良くしたいなら、違う子にすればいい。こんな場所だから全体の二割くらいしか女の子はいないけど、彼女以外を選べば、望む通りに仲良くできる。僕にはそういう資質みたいなものがある。
 でも、どうしてかな。気付くとこうして君とばかり一緒にいる自分がいるんだ。
「明日、休みじゃなかった?」
 天ぷら蕎麦を食べ終えた頃、彼女はまだ自分のハンバーグ定食をつついていた。じろりと僕を睨んで「そうだけど…なんであんたが知ってんのよ」と低い声で問われてあははと笑う。そんなこと調べればすぐに分かるのに。
「せっかくの休みの日にどこにも行かないのかい? ほら、女の子はよくショッピングって言うよ」
「行かないわよ。なんで群れに単独で突っ込む自爆行為が必要なの」
「自爆行為って…じゃあ、一人じゃなくて連れがいたら行くのかな」
「……連れなんていないから行かないんでしょ」
 苦い声でそう言われて少し考えた。三秒くらい。苦い顔の彼女ににこっと笑顔を向けて「じゃあ僕と一緒に行こう」と言ったら今までにないくらい攻撃的に睨まれた。ハンバーグに突き刺さったフォークの勢いがよすぎてガンと鈍い音がする。
「はぁ? あんた明日仕事でしょーが」
 棘々した声に「有休を有効活用しようかなって思ったんだけど…」と微笑むと、彼女はぎりぎりと力を込めた視線で僕を睨みつけた。それからぼそっと「前日に申請なんかしたって許可下りないわ」と言う。「じゃあ下りたら明日買い物に行こう」とにこにこ笑顔を浮かべて返せば、力の限り僕を睨んでいた彼女が脱力してハンバーグを口に運んだ。「下りるわけないでしょ」と言って残っているサラダとご飯を片付け始めた彼女を隣に、僕の頭の中では仕事の折り合いをどうつけてどうやって有休の許可を取ろうかという算段が組み立てられる。
 昼休みが終わり、勝負の午後。上司が女性だったので、わりとすんなり有休許可が下りた。こういうとき女性ウケがいい自分のスタイルに感心して、少し呆れる。彼女は僕のこういうところが嫌いなのに、と。
 自分が配属されている研究棟を出て、彼女のいる一番奥の研究棟に向かって歩きながら、空が嫌に曇っていることに気がついて足を止めた。
 雨が降りそうだ。傘を持ってない。しまったな。
 まぁいいか、と歩き出してIDカードを通して研究棟に入る。
 彼女は個室を与えられていて、そこで一人PCに向かって独り言を漏らしながら仕事をしている。一応いつもノックしてから入るんだけど、難題に向かっているらしい彼女は「違う。これは違う…ならこれ。こっち? あーもうっ」と苛立たしげに仮想キーを連打した。僕が来たことには気付いていない。
 PCとデスクの他には仕事のファイルが押し込んである棚と、ソファがあるくらいで、個室なのに私物らしい私物がない。それがまた彼女らしい。
 ソファに座って携帯端末を取り出し、明日の予定を頭の中でなぞってショッピング街のリストをダウンロードした。展開された立体ウィンドウに指先で触れてざっと確認し、お金あったかな、と財布の中を見る。うーん心もとない。ATMで下ろしていこうか。
 調べた資料をメールに添付して彼女の端末へ送っておいた。帰り道に少し目を通しておいてくれると嬉しい。
 それから一時間後に彼女は仕事を終えた。「くあ、全身ばっきばき」と漏らして席を立つとようやく僕に気付いて顔を顰める。そんな彼女に僕は笑うだけ。
「いたの」
「うん。有休取れたよ。明日はショッピングだね」
 PCの電源を落とした彼女がさっさと帰り支度を始めた。「それ本気?」と呆れた声に「本気だけど」と言うと彼女は閉口した。それからぼそっと「あたしと買い物行ったって楽しくないわよ。他の女の子誘えばいいのに」と言うから、僕はまた笑う。
 それは僕だって考えた。でも、君がいいなと思うんだからしょうがないじゃないか。
 着信を知らせる端末に気付いた彼女に「メール送っておいたから。少し見ておいて」「…はいはい」諦めたのか、肩を竦めた彼女が端末を鞄に押し込む。
 二人で部屋を出て、研究棟を出た頃は土砂降りの雨だった。そんな空を見上げた彼女は「幸先悪いわね。明日は雷嵐かも」と言うから、「そんなことないよ」と僕は笑う。君の手を掴んで握って雨の中に飛び出せば、「ちょっ、こらカイト!」と慌てる君の声が雨音よりも強く耳朶を打つ。
「行こう!」
 手を引いて走れば、彼女も走るしかなくなる。
 土砂降りの雨に二人で打たれながら走る。
 最初はなんてことすんのよとかびしょ濡れじゃないのとか言っていた彼女も、どうしようもないくらい濡れそぼると諦めたように笑った。
 君が笑ってくれると僕は嬉しくなる。とても。
 ああ、ひょっとしたら僕は、と思ったことを今は胸のうちにしまう。
 伝えたら、壊れてしまうかもしれない。この関係さえ。
 君は僕をよく思っていない。僕はそれを知っているし分かっている。それでも君のそばへ行く。自分が傷ついても、それが君の刃なら、僕は受け入れる。
 でも。これを否定されるのは、少しだけ怖い。
 だからまだ。まだもう少しだけこのままで。

 そんな甘いことを考えた僕は、結局、君に想いを伝えることなく、半年後に短い人生を終えることになる。