「VOCALOID…て何?」
「知らない? ネットでは流行の存在なんだけど」
「知らない」
 きっぱり言うと、カイトは苦笑いして端末でいくつか資料のようなものを見せてくれた。
 その記事を読むに、歌って踊れる仮想アイドル。らしい。あまり関心がなくて「ふーん」とだけ言うとカイトはまた苦笑いした。「そのうちの一つなんだけど、作ってるんだ」「へぇ。プログラムってこと?」「違うよ。現物。等身大のもの」「へぇ。……等身大ぃ?」彼の言葉を反芻したあたしが顔を顰めると、彼は笑った。あたしの反応を予想してたんだろう。当たった、と子供っぽい笑顔を見せる。そんな奴を、あたしはあらん限りの力で睨んだ。
「で? そんなお遊びのVOCALOIDとやらを作るのがあんたの仕事なの?」
「副職、かな」
「へえぇ。あたしは副職なんてする暇ないわ。ふつーに仕事でいっそがしいもの」
 ひらひら手を振ると、彼は一つ頷いた。「は僕よりもずっと高度のデータを扱ってるからね」とか言われると、嫌味の一つや二つ言おうとしていた口が閉口する。半ば呆れてしまうあたしに相手はにこにこ笑うだけ。
 食堂の片隅でうどんをすするあたしと、カツ丼を食べるカイト。そんなあたし達、というか主にあたしのことを言ってるんだろう同性集団を視界に入れつつ、七味をさらに振った。この七味が古いのか、あたしの舌が馬鹿なのか、ちっとも辛くならない。
 カツ丼を食べ終えたカイトが「今日の帰り、寄って見ていかない?」とか笑うから、あたしは彼を睨みつけた。「なんであたしが」ずるずるとうどんをすする。「客観的な意見を聞きたいんだ」「そんなの他の人に頼めばいいでしょ」「じゃあ言い方を変えるよ。君の意見が聞きたい」「……はぁ」ずるずるとうどんをすする。カイトのしつこいところはいくらあしらってもあたしのとこへやって来る日常で理解しているので、とりあえずうどんを食べ終えるまで答えを保留にした。
 遠くからちくちく女子の視線が刺さってくる。うざい。鬱陶しい。
 これであたしがカイトのいる研究棟に顔を出してみ? この視線、さらにうざくて鬱陶しいものになるに違いない。
 器を傾けてずず、とうどんの汁を飲む。
 …正直言うと、女子のちくちくした視線よりも、隣でガン見してくるカイトの視線の方が痛い。近いだけに。
 ごん、と器を置いて「ああはいはい、見るだけね」と両手を挙げれば奴は嬉しそうに笑った。いつもより子供っぽい笑みで「うん。はりきって仕上げておくよ」と笑った彼にがたんと席を立つ。「あたし仕事詰まってるから。遅くなるかも」「迎えに行くよ」「いちいちいいっての。自分で行くわ」器を片付けるあたしにカイトがついてくる。ああ、女子の視線が鬱陶しいったら。
 あたしはこのときカイトの迎えに行くの言葉を一蹴したけど、このときばかりはそうしてもらえばよかった、と思った。
 仕事を終えてPCを落とし、部屋を出て、カイトのいる研究棟に向かう。そして入口で食堂であたしを敵視していた女子の集団と運悪く鉢合わせたのだ。
 きゃっきゃとはしゃいだ声を上げていた集団があたしを見るとぴたっと口を閉じて、揃って睨みつけてきた。ああこういうの面倒くさい。だから女子っていうのは。
 あたしは極力スルー方向で考えてたのに、女子集団は研究棟の入口で立ち止まったまま動かない。
 ちょっと、あたし中に入りたいんですけど。バリケードか。
「退いてくれない? 中に用があるんだけど」
 そう言っても揃ってこっちを睨んでくるだけで、ちっとも譲る気がないらしい。
 それどころかさっきより攻撃的な視線を向けてくる。はーと息を吐いて、ちょっとこのままの流れはマズいかなと思って鞄から携帯端末を取り出す。アドレスからカイトを呼び出してピッとコールボタンを押せば、三コールで繋がった。
? どうかしたの。まだ仕事が終わらないとか?』
「あーうん、終わった。今入口まで来たんだけどね? ちょっと」
 邪魔な人達が、と言おうとしたらカメラを向けられる前に女子集団は全力で逃げ出した。…なんて逃げ足の早い。自分が気のある異性にはそんなによく見られたいわけか。つか、だったらあたしに睨みきかせるのやめてほしい。
 ぽかんとして逃げていった女子集団を見送っていると、ばたばたばたと荒い足音のあとにガチャンと重い扉の開く音がした。「っ?」と弾んだ声に呼ばれて振り返ると、携帯端末を持って走ってきたらしいカイトがいる。
「や、大したことじゃないのよ。ちょっと女子集団が邪魔だったからさ」
「え?」
「いーのいーの気にしないで。さ、見せてよVOCALOID」
 カイトの背中を押して研究棟に入り、あたしのいる棟とほぼ一緒の造りの建物内を歩いた。途中からカイトが先導してあたしを案内し、訊いてもないことを色々説明されつつ歩いて、カイトが普段仕事しているんだという階に辿り着いた。
 あたしは個室なことに慣れてて部屋に入るまで気付かなかったけど、普通は大部屋でPCと人がいっぱいなんだった。
 あたしとカイトが入室したことにざわつく室内であたしがめんどくさいと顔を顰めていると、カイトがあたしの背を押して「あっちだよ」といつもの顔で笑う。
 部屋の端っこにゴミゴミした空間があって、そこに一つ、よく知った顔がある。
「……どれ?」
「これ」
「…あんたの顔してんじゃない。っていうか背丈とか体格とかも同じじゃない。何これ」
「昼間に言ったVOCALOIDだよ。今はとりあえず僕を基本にしてるだけ」
 今隣で喋ってるカイトと眠ってるみたいに目を閉じたままのカイトを見比べる。よく似てる。ちなみに、と手を伸ばして眠ってるカイトの頬に指先で触れると、冷たかった。そうだよな、と思って手を引っ込める。「これが歌うの?」「うん」「歌って踊って?」「そうだよ」「…これいくらするの?」「それはまだ分からないかな」苦笑いしたカイトにふーんとこぼして閉口する。
 あたしの意見が聞きたいとか言ってたけど、正直、意見らしいものは出てこない。
 まさかVOCALOIDがカイトの姿形をしてるとは思ってなかったし。
「じゃあ声もカイト?」
「うん」
「へー…なんか」
 本物と同じに見える蒼の髪に触れる。「クローンとかに見える」とこぼすと彼は笑った。意見らしいものは何も出てこなかったけど、カイトはそれで満足したらしい。
 帰り道の空は重い色をしていて、最近こんな空しか見てないな、と思った。
 どこかの国がソーラーエネルギーに頼る国への嫌がらせでこんな雲を作り始めてからというもの、空はいつも曇天。その国がお手上げしても、この雲を作り出した国も消去法が分からないとかで、本当、迷惑な話だ。
 その除去法を探してあちこちの国が研究に乗り出た。もちろんこの国も。
 あたしもその一角を担ってはいるけど、何せ分野外だ。掻き集められた資料に目を通しはしたけど、まだ全然頭が追いつかない。
 …悪い話題ばっかりで、いい話題、聞かないなぁ。仕方ないのかもしれないけど。
 戦争とか、核実験とか、再生エネルギーとか、異常気象とか、財政破綻とか、同盟破棄とか、最近てそんなのばっかり。
 いくら国宝級の頭脳を持つって褒め称えられても、あたしはちっとも嬉しくない。

「…最近物騒だから、あいつに色々足そうと思ってるんだ。機能とか」
「あのVOCALOIDに?」
「うん」
「歌って踊る仮想アイドルなんでしょ。それだけでいいんじゃないの」
「うーん。まぁ、実験みたいなものかな。あ、内緒でするから、他の人には言わないでね」
「あんたね……。知らないわよ、見つかって大目玉食らっても」
「大丈夫だよ」

 あたしにだけ教えておく、と言って彼はカイト起動のパスワードまで教えた。
 正直、このときは話半分でパスワードのことなんて頭の片隅に押しやっていた。あたしが思考しているのはどうやってこの空を覆う雲を消し去ろうか、という難題の方で、あたしにとってカイトとVOCALOIDというのはそのくらいの存在でしかなかった。少なくとも、自分の意識の中ではそう思っていた。それは間違いない。
 あたしが睨みつけてもカイトは笑う。あたしが怒ってもカイトは笑う。あたしが何をしたって言ったってあいつは笑う。
 …馬鹿みたいだ。
 あたしはあんたに少しも優しくできないのに、あんたはどうしてあたしに優しくするの。
 やめてよ。あたしはあんたとは人種が違う。あたしはあんたみたいにはなれないんだよ。あんたと同じ場所には立てないんだよ。
 だから、あたしの手を引いて、明るい方へ行くのはやめて。あたしには眩しくて目が開けられないだけだから。光の強さに立ち竦んでしまうだけだから。
 だから、お願いだから、手を。
 そうやって振り払うのに、あいつは何度だってあたしの手を取る。どれだけ言葉で吐き捨てたってあたしに笑う。
 馬鹿みたいだ。
 あたしみたいなお荷物抱えて、世界の中を生きるなんて。しんどいだけなのに、ね。
 2078年3月20日。午後2時14分。
 隣国のテロ組織に制圧された国家研究棟の一角で、武装勢力を前に研究棟の防御機能で抵抗していた生き残り組みのあたし達は、奴らが持ち出した弾道ミサイルにより施設を破壊され、その後、多くの者が射殺された。
 あたしを庇ったカイトはそこで息絶えた。
 あたしは、カイトのいつかの話を思い出し、死に物狂いで走ってもう一人のカイトのところへ行った。
「お願い動いて…」
 震える指で携帯端末とカイトの首から伸びるコードを繋ぎ、もう変更されているかもしれない、教えられたパスワードを入力する。
 銃の乱射される音と悲鳴。階段を上がる荒い足音。
 震える指で数字と英字の羅列のパスワードを打ち終えてOKのボタンを押せば、部屋の扉が蹴り開けられる音がした。
 瞬間、ぱち、と目を開けるもう一人のカイトがいて。あたしの知ってるカイトと全く同じ瞳の色であたしを見て。お願い助けて、とこぼしたあたしに、カイトはよく知ってる顔で笑った。
 色々足そうと思ってるんだ。機能とか。そう言って笑ったカイトとの会話がつい昨日のように思える。
 あたしは、SFファンタジーとかにありそうだな、とぼんやり思いながら、覆面をつけて銃を乱射するテロリストを眺めた。そのテロリストの首がスパンと飛んで、ナイフのように変形したカイトの腕が銃をバラバラに切り刻むのを、眺めているしかなかった。
 …もう腰抜けちゃってさ。いきなりこんな目にあって、カイト、死んじゃって。それなのにそこでカイトとよく似たVOCALOIDがテロリストをやっつけた。
(これは現実? それとも夢?)
 格闘技で攻めてきた一人の胸にドンと腕のナイフを突き立てたカイトは、銃弾を受けても骨が折れるような衝撃を受けても倒れない。
 どさ、と最後の一人が倒れて、腕のナイフから血をしたたらせるカイトが顔を上げる。血のにおいがひどい中で笑って「終わりました主人」とあたしのことを呼ぶカイトに、あたしは。あたしは。
 胸が苦しくて蹲ると、慌てた様子でカイトがやって来た。

 同じ姿。同じ声。同じ顔。全部がカイトと同じ。
 でも違う。このカイトは、VOCALOIDであって、人であったあの彼ではない。
 …あいつは死んだんだ。あたしなんかを庇って。馬鹿だ。馬鹿だ。本当に。
 これであたし、眩しい世界の中で手を離されて、右も左も上も下も分からないまま、取り残される。
 暗くなりかけた思考に、体温のある手があたしの手を取る。赤に濡れている手。さっきまで鋭利なナイフの形をして人を殺していた手。それでもカイトの顔をしているVOCALOIDは笑って「大丈夫です。僕が守ります」と笑う。微笑う。

 カイトはもういない。
 彼はカイトじゃない。カイトじゃない。よく似てるだけで全く別人。
 そう、頭では、分かっているのに。

「…名前を。あげる。あなたは、カイト」
「カイト」
「そう。カイト。カイト…っ」
 ああ、カイトごめんね。ごめんね。ごめんね。
 心の中でたくさん謝りながら縋りついたカイトは、あたしのことを抱き止める。「大丈夫です。僕が守りますから」と笑う。
 あたし、あなたにもっとちゃんと。あなたみたいに優しくしてあげられたかもしれないのに。努力もしないで、あなたのこと認めずに、それで、終わっちゃった。終わってしまった。
 ごめんね。カイト、ごめんね。
 あたしのために腕を変形させてナイフを作った彼に、ごめんね、と言うといいえと返された。
 走り出した背中に、ごめんね、とこぼして蹲る。
(ああ、カイト。カイト。ごめんね。ごめんね。ごめんね…)