仕事で東京世田谷区にある豪邸に赴いた僕は、まず時刻を確認した。13時33分24秒。約束の14時まではまだ時間がある。
 すっと息を吸って、吐いた。いつも新しい仕事に就くときはそれなりに緊張する。
 頭の中で今回の仕事の対象についてのデータファイルを呼び出していくつか展開し、仕事内容を再度確認する。
 簡単にまとめるなら、今回の仕事は『部屋に引きこもってしまった少女の心を解きほぐすこと』だ。
 見た目は人に限りなく近く、それでいて人ではないVOCALOIDという存在なら、部屋から出てこようとしない少女、を癒やす可能性があるのではないか、と考えた彼女のご両親による判断だ。なんでもかれこれ三ヶ月ずっと部屋に引きこもった状態らしい。
 ご飯を食べに部屋を出るということはない。声をかけたところで無視されるだけなので、使用人の作った食事が部屋の前に置かれるだけ。それもそのままのことが多く、ときどき少し手がつけられていたり、きれいになっていたり、まちまちらしい。
 豪邸故にトイレと簡易シャワーも彼女の部屋にある状態なので、食べることをしないと選んでしまえば、彼女は部屋を出る必要がないのだそうだ。
 約三ヶ月前…が部屋に引きこもってしまった頃に何か変わったことがなかったかどうかが要だろう。まぁ、それが簡単に分かるようなら僕が出向く話にはならなかったはずだけど。
「ふぅ」
 なかなか、面倒そうというか、時間と根気がいりそうな仕事だ。
 頭の中に展開していたファイルを最小化して収納し、スーツ姿の自分を鏡で確認して最後にネクタイを直した。リンゴーン、と古めかしい音を鳴らすチャイムを一つ押してこほんと咳払いする。
 僕、カイトは『VOCALOID推進育成協会』の構成員の一人だ。『VOCALOID推進育成協会』というのは、簡単に説明すると、まだ何事も経験の浅いVOCALOIDに様々な実践経験を与えるために仕事を割り振る場所、という感じ。その経験が現実でいう『仕事』になる。
 こなした仕事は人でいう履歴書の作成に役立つ。僕らVOCALOIDの場合も経験はスキルになりうるのだ。とくに人間関係は経験を積めば積むほど良いとされている。なぜなら…僕らVOCALOIDという存在は、人なくして成り立たないからだ。何をするにもどこへ行くにも必ず人と関わることになる。ならば、人と関係を築くことに慣れているVOCALOIDの方が、引く手数多であることは間違いない。
 昨今、VOCALOIDの需要は軒並み下降気味だ。新しい個体が発売されると一時的に回復はするものの、全盛期には及ばない。
 VOCALOIDは掌サイズから等身大サイズまで幅広く取り扱ってはいるものの、総じて高価であるということに変わりはないし、一度手にすれば早々に買い換えるというものでもない。需要が低下するのは当然といえば当然の流れ。売れ残る個体が出てくるのも、当然といえば当然の流れ。その流れに抵抗すべく設立されたのが『VOCALOID推進育成協会』なのだ。
 自分の基本スキルを自分達で上げる…。そしてその自分を売り込む。なかなかに難しいことではあるものの、VOCALOIDにとって必要不可欠であるマスターを得るため、協会に属している構成員は仕事に前向きだ。
 VOCALOIDにとって、マスターとは、自分の基礎となる大黒柱のようなものだ。
 マスターがいてこそのVOCALOID、存在意義。
 僕らは自分達を肯定するためにマスターを求める。マスターを得るため、自分達のスキルを上げる。すべては、未来のマスターと、自分のために。
 今回の対象、が引きこもっているという部屋にはこの家の使用人の一人である給仕服姿のがくぽに案内してもらった。「こちらがお嬢様のお部屋でございます」がくぽは淡々とした調子でそう告げると一礼を残して、これも淡々とした足取りで絨毯の敷かれた廊下を歩いて行く。
 扉に向き直った僕は、一つ深呼吸した。何事も始めは肝心だ。失敗のないようにいかないと。
 家は家事や炊事全般をVOCALOIDに任せているらしく、がくぽの他に給仕服姿の初音ミクを見かけた。秘密の保守性やコストパフォーマンスを長期的な目線で考えてVOCALOIDを買う人は多い。この家もそうだ。の引きこもりを無事解消できたら…それで彼女に求められたら、この家に買い取られる未来もあるかもしれない。気を引き締めていかないと。
 よし、と顔を上げたとき、バタンと前触れなく向こう側から扉が開いた。
 予期しなかった出来事に固まってしまった僕の前では、ぼさぼさの長い黒髪を不機嫌そうにかきあげた少女が一人立っていた。部屋の外に用事があったのだろうか、廊下へと一歩踏み出そうとして、僕が突っ立っていることに気付くといかにも不機嫌だという感じに顔を歪めて舌打ちした。「誰」低い声に問われてはっとして背筋を伸ばす。
「初めまして。VOCALOID推進育成協会より派遣されました、カイトです」
 名乗った僕に彼女は眉間にさらに皺を寄せてみせる。「で、そのカイトが、あたしの部屋になんの用」「ええと」検索して調べる時間がない。僕はこの仕事が5度目。人間関係の経験はまだまだ浅い。現時点で不機嫌そうに眉根を寄せている引きこもりの少女にどう接すれば適切なのかが思い浮かばない。
 最初が肝心。最初が。
 1秒で思考がどれほど巡り巡ったか分からない。
 僕は結局、素の自分というヤツで笑うしかなかった。それ以外のうまい繕い方が思い浮かばなかった。
「君のことを助けに来たんだよ。
「はっ」
 彼女は僕を笑い飛ばし、それからにょきっと器用に部屋の中から頭だけ外に出して廊下の左右を素早く確認した。低い声を潜めて「カイト」「うん」「あんた、秘密は守れる?」「秘密…?」首を傾げる僕に部屋の中に頭を引っ込めたが腕組みした。値踏みするように上から下まで僕を睨みつけながら、「どうせあんたを寄越したのは両親でしょ。あたしの引きこもりを治せとか言われたんでしょ」「…まぁ、そうだね」「じゃ、あんたは両親に雇われたわけだから、2人にはあたしのことについて報告義務がある。訊かれたら答えなきゃいけない」「そうだね」「それでもあたしが『言うな』って言ったことについて、守るつもりはある? ない?」言われて、少し考えてみた。
 それは……話の内容にもよるけど、最初のとっかかりとして、彼女の信頼を得るためにも、秘密を守れるかという問いに僕はイエスと答えなくてはならない。
 VOCALOIDは嘘をつけない。そう教えられている。なぜなら、嘘は、人を騙すことだから。人のためになるVOCALOIDが人を謀るのは定義に反しているから。
「守るよ」
 僕は、そう言うしかなかった。それ以外の道は今のところ見つからなかった。
 は浅く顎を引いて、たぶん頷いて、にゅっと腕を伸ばして僕の腕を掴むと部屋の中に引きずり込んでバッタンと扉を閉めて鍵をかけた。
 部屋の中は相当に散らかっていた。服が散乱しているのは言うまでもなく、漫画や雑誌が机の上と言わず床の上にも積まれ、窓を開けていないのか空気が濁っている。部屋の隅にあるテレビは埃を被っているし、普段行き来しているのだろう本棚、ソファ、ベッド、パソコンその他のある机、シャワーやトイレがあるのだろう別室以外はあちこちに埃が溜まっているが分かる。さっそくあちこち手をつけて片付けてしまいたいところだけど、ぐっと堪える。勝手なことをしてはの機嫌を損ねてしまうだろう。何事も許しは必要だ。僕にとっては是でも、人にとってもそうであるとは限らない。清潔な片付いた部屋が万人にとって住み心地がいいわけではない。
 は扉の前を離れて散らかった洋服を蹴飛ばしながら机の方に行き、タブレットを持ってきた。
 起動したタブレットが立体ウィンドウで表示したのは、さっき僕をここまで案内したがくぽだ。給仕服を着ているし、髪飾りも同じだから、間違いないだろう。何よりさっき見た彼も表示されている彼も眼鏡をしている。僕らVOCALOIDは視力に問題などないから、伊達だろう。どれも特徴として一致する。
「見かけたでしょ。がくぽ」
「うん。お茶を出してくれたよ。さっきもここまで案内してくれた」
 不機嫌そうな声に答えると、はぁ、と息を吐いたがぐしゃぐしゃと長い髪をかき回した。「いいように使われて…かわいそうに」小さな声に首を傾げると、彼女は唇を噛んで、ポツポツと、自分がこうなった理由…部屋に引きこもることにしたのかという理由を話してくれた。
 の話は、短く要点をまとめると、こういう感じだ。

『両親が勤めている製薬会社が重大な副作用を持つ薬を治療薬として提供している』
『一般人はそうとは知らず薬を服用し、副作用を自覚していない。それをいいことに、薬に関わる会社はこれを黙認し、副作用という事実を黙殺している』

 両親の仕事を継ぐために薬学を専攻していた彼女はふとしたきっかけでそのことを知ってしまった。そして、当時世話役だったというがくぽに相談し、彼と共に悩み、悩み抜いて、両親、引いては会社が起こしたことについて、マスコミにリークする形で摘発しようと試みた。
 今まで明確で有効な治療法はないとされてきた癌の特効薬。それは飛ぶように売れた。ただし、その特効薬の副作用について、明記はなかった。『服用し続けることで癌細胞を逐一駆逐していく』ことが売りのその薬は、服用の期間が長くなればなるほど染色体に異常をきたし、ダウン症の症状が現れてくる。その薬を服用した人間が子供を産めば、ダウン症児の産まれる可能性はぐっと上がる。
 今はまだそうだと自覚していなくても、症状は必ず現れる。騙し隠し通せるものではないし、何より恐ろしいのは、その薬が普及したことによって人類全体が被った被害の総数だと彼女は言う。
 ダウン症児は『健康でないから』『手がかかるから』『お金がかかるから』という理由で中絶されることが多い。日本の人口総数は下方の一途を辿るばかりだというのに、ここにきてダウン症児ばかりが産まれるような時代が到来すれば、どうなるか。間違いなく日本は国として成り立たなくなるだろう。
 このことを告発するということは、特効薬を売り出した会社を潰すことであり、その薬によって利益を得ていた両親を潰すことであり、そして、その子供である自分の将来も潰すようなものである。
 それでも、人の未来のためを思い、彼女は苦渋の決断をした。
 しかし、その試みはパソコンのネット回線が切られたことで失敗に終わった。
 がくぽは強制的に業者に手を入れられて中身を作り替えられ、彼女の世話役を解任された。それが三ヶ月前。せめてパソコンのデータを書面に起こそうとこっそり家を出ていた間に、がくぽは解任され、パソコンは『古くなってきていたし新しいものをあげよう』という理由で新品のものを与えられた。もちろん、薬についてのデータが入っているパソコンは『もう処分してしまった』とかで返してもらえなかった。
 は黙って抗った。声高に抗うのは痛い目を見るだけだと分かっていた。どれだけの豪邸に住んでいようが、それは両親のものであり、彼女に力はなかった。唯一の味方であったがくぽも別人として作り替えられた。彼女に打つ手はなかった。
 それでも何もしないわけにはいかなかった。だから、引きこもるという形で声なく抗うことにした。そんなことで両親が利益優先の考え方を変えるとは思えない。ただ、何かのきっかけくらいにはなるかもしれない…そういう淡い期待を込めて。
 その期待が、今ここにいる僕だった。
 予想もしていなかった話に目を白黒させる僕に、彼女は溜息を吐いてタブレットをソファに投げた。衝撃に合わせて立体ウィンドウが揺れる。
「別に、あんたがこのことを両親に話すなら、いいけど。その場合あんたの命も危ないってことになるよ。それだけ、あのろくでもない薬で得てるお金は大きいの。あんたを100人買えるくらいにはね」
 曖昧に頷いて、思考を巡らせる。
 予想もしていなかった方向に話が進んでしまった。これは当初の『引きこもりの少女の力になる』なんてものじゃすまない。関わるなら、相応の覚悟をしなければならないだろう。
 はタブレットから表示されたままの立体ウィンドウを眺めていた。
「あたしは、どうなってもいい。不正を働いていた両親の娘って事実には変わりがないし。ただ、がくぽは…記憶を消されて、書き換えられて、今も都合よく使われているあいつのことは、なんとかしてやりたいって思ってる」
 ぐっと拳を握って、解く。
(自分は、どうなってもいい…。VOCALOIDを、がくぽを、助けたい…)
 守ってあげたい、理想的なマスターだな、と思った。パートナーとするのにふさわしい人だ。この人にはかつてがくぽというパートナーがいて、その関係は不本意に破壊された…。もう修正はできないかもしれない。それでもよりよい方向へ持っていきたいと、相手のことを思いやる。僕はそのことが好ましいと思った。僕にできるのなら、力になってあげたいとも思った。
 まっすぐ背筋を伸ばし、を見つめた。暗く淀んだ部屋の空気に同化しそうなほどに淀んだ瞳は、現実に希望など何も持っていないとでも言いたそうだった。ただ立体ウィンドウの光を反射するだけで、そこにある意思も、何かの拍子に消えてしまいそうだった。
「僕が、できることがあるなら、やるよ」
 一字一句、自分に言い聞かせながら口にすると、彼女は表示されているがくぽから僕へと視線を移した。「それがどういうことか…分からないほど馬鹿ではないんでしょうね、あんた」「必要なことは勉強する。このことも、君のご両親に問われても、うまく誤魔化してみせる」僕と彼女の視線がぶつかり合う。
 先に逸らしたのはの方だった。「あんたに義務はないのよ? やっぱり手に負えませんでした、他を当たってくださいって頭下げればすむ話よ。自分を大事にしたいならそうなさい」ぼそっとした声に困ったなと笑う。
 そうできるならそうしていたし、それが僕の立場でいう正しい判断なのだろうとも思う。でも、僕は君のVOCALOIDを思いやる心が好ましいと思ってしまった。自分の立場を押しのけてでもVOCALOIDのことを思う…それは、マスターとして申し分ない相手ということでもある。
 だから、僕は、交換条件を出した。もしもすべてが上手くいって、彼女の望んだ方向に現実がまとまった場合。そのときは、僕のマスターになってくれませんか、と。それが僕が望むことです、と。
 は変なものでも食べたみたいな顔をして僕を見つめた。居心地悪そうに鎖骨をさすって視線を逸らす。「そんなことが望み…? 分かんないね、カイトって」ぼそっとぼやいた彼女は浅く顎を引くようにして、たぶん、頷いた。それからびしっと勢いよく僕のことを指さしてこう言う。
「いい? あたし眼鏡男子が好きなの。次に来るときは眼鏡してきて。伊達でいいから」
 …どうやら、がくぽが眼鏡をしていたのはそういう理由からだったらしい。
 分かったよ、と了承して、初日からあまり話し込んでいては誤魔化しがきかないからという理由で早々に彼女の部屋を出た。
 帰りに眼鏡屋さんに寄って伊達眼鏡を購入しないといけない。いや、その前に、考えることは山ほどある。まずは、引きこもりの少女の部屋に入室できたことについての正当性のありそうな理由を考えなくては。