今までの人生の中で一番無謀なことをしようとしているのかもしれない。私は自分のことをそう評価した。それからそんなこと思ったってどうしようもないと思考を割り切ってのろのろベッドから抜け出した。放置されているバスローブに袖を通してちらりとベッドを振り返れば、子供みたいな顔で眠ってる人が一名。
 好きなだけ甘えて好きなだけ私を食べて、飽きたら寝る。分かりやすいことだ。
 彼は私に向かって笑わない。彼が笑うのは、本人曰く、殺す相手を見送るためだから。その方程式によると殺さない私には笑わない、ということになるらしい。
 それでも好きだよと言われる。愛してると言われる。ずっと俺のそばにいてね、おいしいご飯作ってねなんて言われる。そんな甘い言葉についつい頬を緩めてしまう私も私だ。私も神威のこと大好きよ、愛してる、おいしいご飯たくさん作ってあげるなんて、刹那のベッドの時間だけの言葉で、私はどこへいくつもりなんだろうか。
 表面上だけの薄っぺらい笑顔を向けられたいわけじゃない。殺すために見送るあの笑顔を向けてほしいわけじゃない。好きだと言ってキスをくれる彼が嫌いではないし、そのときの表情は無ではないし、笑っているとも言いがたいけれど、でもそんな彼だって私は好きだ。愛してると髪に顔を埋める彼の声も、その気になれば私の腕を手折ることもたやすいんだろう力を制御して触れてくれる指も、みんなみんな好きだ。
 世界が引っくり返っても嫌いだなんて言えない。たとえば彼が私に飽きて、殺すためのあの笑顔を私に向けてさようならと言って手刀を振り上げたとしても。私は彼に嫌いだなんて言葉言えないと思う。
(でもね、このままじゃいけない。そう思ってるんだよ、私)
 軽くシャワーをすませてそろりと寝室に顔を出した。彼はまだベッドで眠っている。早めにご飯の準備をしようとキッチンへ移動して冷蔵庫を覗いてレトルト品の棚を覗く。しまったなぁ、そろそろ買出しに行かないと食べ物がもうない。朝食分がぎりぎりくらい。買い物をしないともう食材がない。
「…野菜も、お肉もない。ラーメンの類もゼロか……」
 かり、とテーブルのメモ書きに買出し用品を記して、鍋を火にかけたり野菜の皮を剥いたりお肉に下味をつけたりと今日の調理を開始する私。そうしているとさっきまで考えていたことを忘れそうになるんだけど、忘れちゃいけない。ずっとこんななぁなぁな生活続けていちゃいけないんだ。彼に都合のいい私のままじゃいけないんだ。

 私に確かめさせてほしい。少し胸を張って、恋人ですと、そう言えるくらいのこと、させてほしい。
 それは贅沢じゃないよね神威。神威が仕事でどんな顔をしててどんなふうに人を殺してるのかなんて私は知らないけど、外で私のことをどんなふうに言ってるのかなんて知らないけど。知らないことばっかりなのにあなたは私を求めてばっかりだから、私は流されてきたけれど。求められることは嫌ではなかったし、あなたは優しかったから。だから私はあなたを許してきたけれど。
 あなたが私のことを好きだと言う度に、あなたが私のことを愛してるという度に、あなたに溺れる自分を自覚する度に、私はすごく泣きたくなる。

 ずる、と何かを引きずるような音がして料理の手を止めて振り返る。オレンジの髪をくしゃくしゃにして、すごく眠そうな顔をして、器用に布団を頭に引っかけてずるずるリビングに入ってきたのは直前まで思考を埋めていた彼だった。
「起きたの。まだ寝ててもよかったのに」
「んー」
 ずるずる布団を引きずってこっちにやってきた彼。私の背中側からぎゅうと腕を回して引っついてくると「いいにおいがしたから」と寝ぼけてるような声が耳元で聞こえた。「まだできてないよ」「んー」首筋に埋まる吐息の感覚に背筋がくすぐったくなる。私の腰を抱く腕はどのくらいの力加減をしてるんだろう。彼は私を殺さないようにと思考の片隅に引っかけてくれてるんだろうか。そうだとしたらすごく、嬉しい。
 たん、と野菜を切る手を再開させる。彼は私から離れようとしなかったので、仕方なくそのまま調理を続けた。
「今日は、仕事ないよね」
「ないよ」
「買い物付き合ってくれる? 朝食分で冷蔵庫とか空になっちゃうんだけど」
「いーよ。行ったげる」
 首筋をくすぐる吐息の感触と、彼の声とその温度に、また思考が流されそうになる。そこを踏み止まってルーを取り出して鍋にばしゃばしゃと投入。お玉でかき混ぜてる間もずっと彼は私にくっついていて、「シャワー浴びてきたら」と言っても「んー」という生返事しか返ってこなかった。「ご飯もうちょっと待ってね」「んー」「…神威、眠いの?」「んー…俺がこうしてたいだけ」ぎゅうと抱き締められて、決心が鈍る。だけど踏み止まる。思考を流すな。彼に都合のいいままの私じゃ、私がダメなんだ。

 たった一回、これっきりでいい。私に確かめさせてほしい。
 あなたの好きだという言葉が本当で、愛してるという言葉が本当で、私はあなたを心から愛してもいいんだと、私に確かめさせてほしい。
「陽射しめんどくさい。ねぇ、太陽ってなくなったりしないのかな。ばーんって爆発したりさ」
「あのね、太陽なくなったらみんな凍えて死んじゃうよ。陽の光がどれだけ恵みを与えてくれてるのかって、神威知らないでしょう」
「知らないなぁ。陽射しって嫌いなんだよ俺。眩しいしさぁ」
 顔に包帯を巻いた彼と一緒に街を歩くと、奇異の視線や興味の視線を向けられる。店内では日傘は邪魔だし、そう陽のあるところも歩かないからと彼に言い聞かせてその顔に包帯を巻いたのは私だ。包帯を上手に巻けてようが巻けてなかろうが注目されるところは変わらず、神威はちょっとだるそうに隣を歩いていて、私は背筋を伸ばして歩いている。
 目的の大型スーパーで食品などを買いあさって、とりあえず三日分を確保。手で持って帰れる量ではなかったので郵送手続きをすませてから、彼を連れて日用品のコーナーも回った。「神威いるものはない? 包帯の替えとか着替えとか。せっかくだから買っていこ」「んー…特に思いつかない。何かあるの?」「まぁ色々ね」セールの文字を掲げてる籠の中身をあさったり、10パーオフとか札の貼ってある品物を見たりしてる私を見てる神威。物の方には感心がないようだ。
 最終的に新しい大きめの鍋を一つ購入した。だいぶ底がはげてきてる古い方は捨てよう。塗装を食べるようなことになったら大変だし。
「…アレだ」
「え?」
「楽しそう。
「そうかな」
「俺がいるからでしょ。違う?」
 小首を傾げた彼がそんなことを言う。私は曖昧に笑おうとして失敗した。だってその通りだったから。
 私、神威とこうしていられるだけで、こんなにも満ち足りてる。だから彼がいないとどうしようもなくなる。そんなこと分かってる。
 ぎゅっと拳を握って顔を上げれば、店の外はもう陽射しがなくなっていた。太陽は沈んでしまったのだ。これ幸いとばかりに彼がしゅるしゅる包帯を取ってポケットに突っ込む。「やっぱない方がいいなぁ」とぼやいた声と、めんどくさそうにしながら鍋の入った袋をがさがさ揺らして腕に引っかけた彼。そんな彼の横で私は足元を、橋の下を見つめる。車が行き交う道路を。さりげなく帰り道を変更したことに彼は気付いていないようだ。
 たった一度きり。覚悟は決めてある。
 たったの一度だけ、私はここから飛ぶ。彼の前で。その結果がどうなるかで私は終わるのか、それとも続くのかが決まる。
「…神威」
「ん?」
「私のこと好き?」
「好きだけど」
「愛してくれてる?」
「うん。愛してるよ。何急に」
 味気ない愛の告白にももう慣れた私は橋の欄干に手をかけて振り返る。「私も愛してる」と漏らしてどうにか笑う。腰までの高さしかない手すりから私は身を乗り出してあっという間に落下した。計算して練習した通り、理想的に落ちることができた。
 車のクラクションが悲鳴のように耳を貫く。
 それでもやっぱり怖かった。覚悟はしていた。でも最後まで目を開けていられる自信はなかった。地面に激突する前に、私は目を閉じてしまった。
 神威は。私が死んだら、泣いて、くれるだろうか。
 ずだんと強く地面に身体を打ちつけて息が詰まる。高さはそうないけど当たり前に痛い。このタイミングで車が来れば間違いなく私は、死ぬだろう。
 死ぬことは怖いだろうか。痛いのは嫌だけど、怖いだろうか。どうだろう。

 私、神威のいない日々の方が多分、死ぬよりずっと怖い。そんな日が訪れないことを毎日祈りながら眠るのが辛かった。神威がさらっとした笑顔を私に向けてもういいよなんて言葉を吐いたらどうしようと恐れていた。彼が大好きだから、愛してしまったから、拒絶が怖かった。彼のいない日々が怖かった。彼がそばにいる時間が満ち足りていることに気付いてしまったら、彼がいない日々を送ることが苦痛になってしまった。
 ダメな子だね私。あなたを信じ切れなかった。だからこんな馬鹿なことまでして、本当、どうしようもないよね。私。

 ガシャアンと派手な音がすぐそばで聞こえた。車が私にぶつかった音だろうかと錯覚して痛みを覚悟したけれど、違った。じんじんとした痛みは打ちつけた身体全体を覆っていたけれど、それ以上はなかった。
「…何してんのさ」
 ぽつりとした彼の声が聞こえたのは、気のせいではなかった。私はようやく瞼を開ける。目の前には潰れた車が一台あった。潰して、無理矢理動きを止めたのだ。彼が。
 ボンネット部分に突っ込んでいた腕を抜いて、サッカーボールでも蹴るみたいにがんと車を蹴飛ばした彼。ぎゃぎゃぎゃと路面と車が耳障りな音を立てて車道を滑って、他の車が慌てたようにそれを避けたり、避け損なった車がぶつかったりした。
 そんな景色を背に彼が無造作に手を伸ばす。上からくるくる回って鍋の入ったビニール袋が落ちてきた。ばしとキャッチして腕にぶら下げて、立ち上がることのできないままの私のそばに彼が膝をついた。
「何してんの。今の、俺いなかったら死んでたよ?」
「……、か、むい」
 ファーンとクラクションを鳴らして車のライトが眩しく私達を照らしてきた。私は動けない。避けられない。彼も避ける素振りはみせず、振り返ることもせずに片腕を掲げた。車がスピードを緩めず突っ込んでくる。車道にいる私達が悪いのだけど、轢くつもりだ。
 彼の仕事をしている姿を私は知らない。だけど多分、きっと、こういう感じなんだろう。ぼんやりそう思った。
 突っ込んできた車は彼の手によって止められた。ぎゃぎゃぎゃとタイヤが回転して前進しようとしているものの、全く歯が立たなかったようだ。彼は片腕で車を持ち上げて振り被って投げた。ボールを投げるような、そんな動作で。
 彼に恐怖は感じなかった。ああやっぱり人間じゃないんだな、この星の人じゃないんだなとは思ったけれど、それだけだった。
「…馬鹿だねって。笑われる、かも、しれないけど」
「うん」
「こうしたら、神威が、助けてくれるって。信じたかったの」
「信じなくても助けるよ。ホント、馬鹿なこと言ってるね、
 ドオンと重たい音を立てて車が向こうの方に落下した。地響きと爆発音に身体が揺れる。視界と頭がぐらぐら揺れる。
 立てないままの私に手を伸ばした神威が指先で頬を撫でた。ふうと吐息して「あーあ、せっかくのきれいな肌が傷だらけじゃないか」とこぼして私を抱き上げる。鍋の入った袋をがさがさ言わせながらすたすた車道を出ていくその横顔には、破壊した車のことを気にかけている様子はなかった。「手当てしなきゃ手当て。どこが痛い?」「…全身痛い」「えー、病院? めんどくさいなぁ」「…かむい」めんどくさいと言いつつ足先を病院方面に向けている辺り、どうやら連れて行ってくれるらしい。三階くらいの高さだから大したことないだろうけど。
「神威」
「何?」
「私のこと、愛してる?」
「愛してるよ。は俺のこと愛してる?」
「…あいしてる」
 ほろりと涙がこぼれる。そんな私に気付いて神威が足を止めた。「何泣いてんの?」「嬉しい、から」「何が?」首を捻った彼に私は笑う。痛む身体でそれでも笑う。
「神威は、私が死にそうになったら、助けてくれた。嬉しかった」
「…変なことが嬉しいんだね。言っとくけど何度も死にそうになるとかやめてよ。いつも俺が助けられるとは限らないんだし。まぁそばにいたら絶対助けるけど、これっきりね」
「……うん」
 歩みを再開させた彼の胸に頭を預ける。

だから、
このは続いていく
(どこまでも、どこまでも)