日本の夏は暑くてかなわないから、ニースに行く。
 慧さまのその一言で、巽は素早くスケジュールをチェック。あっという間にフランスのニース行きのチケットが手配されてしまった。
 巽と慧さまの指示を守る、メイドたる私は慌てた。英語ならまだしもフランス語なんてできなかったからだ。そもそも、正しい日本語だって扱えている自信がないのに、外国語なんてなおのこと。「あの、私は、足手纏いになります」ニースに行ったとしても大した補佐はできないだろう。買い出し一つだってできないかもしれない。そんな私がいても意味がない、とチケットを手に訴えたら、慧さまは綺麗なお顔の眉間に若干の皺を寄せてしまった。

「俺が行くというんだ。はついてくればそれでいい」
「……はい」

 慧さまの言葉にいいえと返すことは基本的にないし、許されない。
 私は慧さまの眉間の皺が解れるように深々とお辞儀をして、飛行機のチケットを握り締めた。
 彼が言うのだ。私は彼に付き従うメイドでいればそれでいい。
 代々月城家に使用人として使えてきた私の家は、そうやって盲目的に月城の人間に従ってきた。私も例に漏れず。そうやっていれば高校を卒業後安定したお給金と就職場所をいただける。とくに才能にも恵まれず能力もない私には願ってもない未来の路線図。
 スマホでニースの気候を調べ、持ち物を考え、トランクケース一つに荷物がまとまるようその日のうちにすぐに準備した。
 一番の持ち物、パスポートは、お屋敷で働くさいの身分証明としても機能しているから義務として取っていて、有効期限も問題ない。「巽、準備ができました」「そちらへ」巽が示す方には、慧さまの荷物か、トランクが二つほどある。そこに自分のものを寄せた。
 巽は有能な執事だ。音楽、仕事、私生活、慧さまの補佐を完璧にこなしながら自分のこともやれている。私がこうなりたいという目標にする人物がいるならば、それは巽になる。

「巽は、すごいですね。私は全然」

 今も、慧さまのスケジュールについて入念なチェックを行いながら自分の荷物の準備をする彼の完璧な理想の姿に、思わずそうこぼした。
 一人沈んでいる私に、巽は少しだけ首を傾げたみたいだった。「あなたにはあなたの役割があります」「私の……役割?」「ええ。まずは慧さまにセイロンをお願いします」…話をはぐらかされたようにも思ったけど、慧さまを中心に回るのが私たちだ。慧さまがお茶が欲しいというのなら、すぐに用意しなくては。
 丁寧に淹れたセイロンを持っていくと、慧さまはヴァイオリンを弾いていた。
 花響学園の制服は西洋の貴族文化を意識しているのか、デザインも、生地も、普通の高校の制服とは一線を画する。
 そんな制服を着て、目を閉じ、月の色の髪を揺らしてヴァイオリンを奏でる慧さまは、よくできた一枚の絵のようだった。……声をかけるのが躊躇われた。私が声をかけたらこの絵は壊れてしまうのだ。でも、声をかけなくては、せっかくのお茶が冷めてしまう…。
 葛藤していると、赤い瞳を覗かせた慧さまと目が合ってしまった。「セイロンです」ポットを少し揺らした私にああとぼやいた彼がヴァイオリンを置く。そうして美しい静謐な絵は壊れてしまった。
 急に行くことになったフランスのニースは、空港も町も海に面していた。
 宿泊する予定のホテルも海のそばにあり、そこには月城家に負けず劣らず裕福だろう個人所有のボートが並び、乾杯をしている家族もいれば、今まさにボートで海に繰り出そうとしている人々も見て取れた。
 ニースはその昔、貴族のリゾート地として栄えていたのだと聞く。その名残で、ここは今もお金持ちの方たちが訪れる場所なのだろう。
 私なんかでは一生かかっても買えないだろう豪華なボートを横目に、私はなぜか慧さまと二人、海沿いのカラフルな町を歩いている。
 振り返れば理由は簡単だ。停まる予定のホテルのチェックイン作業を巽が請け負い、私と慧さまは、そういった雑事が終わるまでそぞろ歩き…散歩をすることになったのだ。
 花響学園の制服を着ていない慧さまは、お屋敷以外で見るのは初めてかもしれない。背がスラリと高くて月の色の髪をしているから、海外の海も街の風景もとてもよく似合っている。
 そんな慧さまが道路を渡るので、私も慌てて続いた。
 海外の道路は信号機が少ない。そして歩行者のために車は停まってはくれない。日本とは違って歩行者優先ではないのだ。慧さまに続かなくては。
 慌てて道路を横断して追いついた私に、慧さまがポケットに突っ込んでいた手を伸ばして私の肩を、抱いた。「え」とこぼした私を道路側から遠ざけ「危ないだろう」と言う、その横顔を見上げる。

「海外では女性を狙った犯罪は多いんだ。あまり油断するな」
「は、はい」

 ああ、びっくりした。そういうことか。
 ボケッとしてる私が道路側を歩いていると、車を使った犯罪に合うかもしれないからと…。さすが慧さま。いち使用人にまで気をかけてくださるとは。
 きっと慧さまとお付き合いをする女性というのは、巽みたいに、慧さまのことをなんでも補佐できて、気遣いのできる女性、なのだろうな。私みたいなダメな子ではなくて。
 何事もなく離れていった手になんとなく少し沈んでしまってから、ざわり、と吹いた海風にさらわれ視界を舞う髪を手で押さえる。
 日本とは違う海の色。飛び交うのはわかって英語、それからたぶん、フランス語。

「本当に、日本と違って涼しいですね」

 午後三時過ぎ、日本ならまだまだ暑いといえる時間帯なのに、ニースの海風は肌にまとわりつく独特の不快感がなく心地が良かった。「そうだろう。俺はここが好きなんだ」普段よりもリラックスしている様子の慧さまに私の唇も緩くなる。
 この人は家柄も立場も実力もある人なのに、それに甘んじることなく高みを目指している。そのために努力を重ねている。だから、こうして羽を伸ばしている姿を見るのは安心する。普段はなかなか、そんなこともできていなさそうだから。
 慧さまがまだ歩きたいと言うので、巽からチェックインが完了したという連絡があったけど、海岸沿いにできている広い遊歩道を二人でそのまま進む。
 慧さまは物知りで、この道はこういった歴史があるだとか、あの建物にはこういった経緯があるだとか、そういったことを無知な私に教えてくれた。
 幸福な時間、だった。
 海が見える異国の地で、日本の夏では味わえない海風に吹かれながら、慧さまの話に耳を傾ける。好きな時間だった。大好きな時間だった。慧さまが花響学園に入ってからはなかなかなかった、子供の頃には溢れていた、幸せな時間。
 そういえば、朔夜はどうしているのだろう。そんなことを海の向こうの日本を思い浮かべてぼんやりと思う。
 うんと子供の頃は、朔夜とも一緒にいた。慧さまと、朔夜と、私と。そんな日々が、確かにあった。

「しかし、不便だな」
「え」

 ふとした声に慌てて意識を引き戻す。
 巽がすべて滞りなくやってくれて、私は少し手伝った程度だけれど、慧さまを不便だと感じさせるようなことはなかったはずだと思っていたから。
 見れば、彼は綺麗なお顔に皺を刻んでいた。「未成年が、という話さ。フランスでは18歳からが成人だ」「あ…」そういうことか。やっぱり、成人しているかしていないかでは行けるところやできる手続きが違ってくる。彼が言いたいのはそういうことだろう。
 今回、その関係で、問題なく成人していると見た目でも判断できる壮年の使用人を一人連れてきている。
 私はあの人のことが苦手で、だから、慧さまに散歩に連れ出されてほっとしたものだ。
 ああ、そんなことはいいのだ。私の話は。問題は慧さまだ。

「慧さまは、成人していたとして、したいことがおありなんですか?」

 興味本位で尋ねた私に、彼は肩を竦めた。「そうだな。せっかくのニースだ。ワインを傾けながら名物の料理を味わうのもいい」「ワイン…」なるほど。それはとても、素敵だ。慧さまに似合っている。
 あともう二、三年もすれば、フランスでも日本でも叶うこと。
 でも、その頃、私はどうしているだろう。まだちゃんと月城家のメイドとしてやれているだろうか。能力がないと捨てられていやしないだろうか。少し、心配だ。
 慧さまが当たり前のように見据えている世界が、私にはいつも、とても遠いから。
 それなのに、手を伸ばせば触れられる距離に彼がいる。
 現実と理想のコントラストに、私はいつも眩暈を覚える。
 叶う現実。理想の夢。
 踏み出す彼はとても眩しくて、私にはその背中を見つめることだけで精いっぱい。巽のように隣に並ぶこともなく、手を伸ばすことも、できない。
 光に向かって歩くはずの彼が、夢という怪物のもとへ歩いていくような錯覚を、ときどき覚える。光っている怪物。光に擬態した怪物。輝くその正体は掴んだときに初めてわかる、そんな怪物。
 なんて妄想だ、と軽い瞬きで思考を払うと、日本とは違って高い建物が繋がって立ち並ぶ景色と、青のようでいて緑のような色の海が目に飛び込んでくる。
 慧さまはポケットから取り出したスマホを操作すると、進行方向を変えた。道路を渡るようだ。海辺はもういい、ということだろう。

「どちらへ?」
「聖堂へ」
「お祈りですか」
「ああ」

 それじゃあ、私も慧さまと祈ろう。ニース滞在の間無事に過ごせますように、って。
 スマホで道を表示しているのだろう、慣れているかのように歩く彼に、石畳に足を取られがちな私が少し遅れてついていくと、慧さまが立ち止まった。「ほら」差し伸べられた手に彼の顔色を窺ってしまう。「そのままだと転びそうだ」「す、すみません…」心配と、呆れと。そんな表情をした彼に俯いてから恐る恐るその手に指をかける。歩き慣れたスニーカーで着たはずなのに、結局ご迷惑をかけている……。
 傷一つでもつけてはいけない、ヴァイオリンを奏でる手。
 私なんかが触れるには恐れ多い美しい手。宝石のような価値のある手。
 私は、いつまで、この手のためにおそばにいられるだろうか。
 いつか、朔夜のように、この人のもとを離れる日が来るのだろうか。
 そんなことを考えながら、日本でも海外でも変わらない端整な横顔を見上げる。
 異国の路地を行く彼はそうしていると物語の登場人物のように遠い。
 それでもそんな人と、確かに今手を繋いでいるのだと。そう確かめたくて少しだけ指に力を入れると、同じくらいの強さで握り返されて、私は、この今が現実であることを嚙みしめるのだった。